marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

<Ⅸ>宇宙人じだんだを踏む 気づく人は気づいている 神の人類の救済の時代・・・親愛なるXへ

2022-07-20 07:29:28 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 あれ❣、前にブログに掲載した「ファチマの預言」のマリアの写真が微笑んでいる。・・・

しばらく、ブログが更新されていないが元気なのか、と知り合いから連絡が入った。感謝なことである。確かにひと月ほど更新しなかったが、できるだけ多くの人に読んでもらおうと思ってね、僕のは過去から引きづる深層があって、それを理解しないと将来に続く今が観えて来ないようになっているんだよ、と話す。この方も最近とみに良い宇宙人とか悪い宇宙人とかからの内的コンタクトがあって、いろいろ教えられるということであった。

言葉ではっきり書くと、どうも都市伝説のような滑稽な語りになるのであるが、実際にこのような時代になって、多くの人が気づき始めているのだろうと推察する。内容は暗い・・・ブログに掲げようにもそれはその人の思いとかの特殊能力になるとか、でしかも、その内的啓示は、悪い宇宙人からと思われる実に暗い内容が多いのだ。したがって、一般にシェアーできない、つまり共感性を持ちえない。最近はとみに暗い暗示が多いらしい。”つづき希望”のクリックはあるいはあるかもしれないけれれど。

先日、祈り会が終わった後の雑談で、旧約聖書の天地創造(14章17節~)に出てくる有名なアブラハムが、彼ら以前の宗教があったと推察されるメルキゼデクに十分の一の捧げものをする場面がある。いきなり出てくるこの方はどなたなのだ、という話になった。新約のイエスにも例えられる”いと高き神の祭司であったサレムの王”とされる、この人?。

結論、わかりませ~ん、なのだったが、古代神の名前は”エル”とも言われたし、”サレム”は”シャローム”ともなったと思われるわけで、つまり”エル・シャローム”でこれが、今のエルサレムになったともいわれるわけだ。”神の平和”、つまるところ現代のような争いの中で歴史に残るような場所ではなく、実に平和を仕切る宇宙からの派遣された善い宇宙人の都市だった、ということらしいな。

古代メソポタミアには、ノアの箱舟のもととなった洪水の話もギルガメシュ物語にあるし、シュメール文明には、宇宙との交信がなければ分かり合えないだろう遙か遠くの惑星などの軌跡なども石板に刻まれていたという話もある。・・・などと話が進むと、そういえばと牧師の口から出てきたのは ”キリストは宇宙人だった”という本もありましたねぇ、と。

それに合わせて僕からは、エゼキエル書の冒頭に書かれているのは、あれはどう考えてもUFOですね、宇宙人が乗ったなどと話がとりとめなくなりそうなので、最後は真摯な気持ちで黙とうして終わったのであった。いずれ、いかような形でも彼らは、地球の破滅を望まれていない。地球が灼熱地獄になりそうなこの夏にも、なんらかのコンタクトを多くとり始める宇宙人が顔を出し始めることだろう。

人は言葉を屈指し、ある先入観がなければ理解し納得しない生き物であるから、人が神を創造して、様々な宗教というジャンルに区分し話を始めざるを得ないが、基本は全く逆で、人は神に創造された世界の中にあるのである。ここれが大前提なのだ。ここに、人という生き物の種が地上に存在する以前の先理解という雲をつかうような想像力が必要なのだ。しかし、それは人よりもともと先に存在してあるのだから、その世界にコンタクトさせようとして語り掛けているのである。

う~む、小難しい、とうか、人が創造されたのだから、その人が人ひとり自分の足でこの地上に立つようにと、その基本プログラムソフトを導入していたのだが、まぁ天使の長から悪魔に転身してウイルスソフトを入り込ませた奴がいて、そもそも被創造物と完璧につくった人という生き物を愛された創造主なる神は、一度期は地上から汚染された人類を滅亡させようとしたんだが、基本OSが汚染されたとはいえ簡単に人を抹消させるに忍びなくてしかたがなかったという訳だった。

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気が付いている人は気が付いている。語りがある。人は命の息(霊)吹き込まれて生きるものとなったことを。

「天地創造の前に、神は私たちを愛して、ご自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようとキリストにおいてお選びになりました。イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。」(エフェソの信徒への手紙1:4-5)

人が地上に誕生し生涯を送るという意味は、ある人々には、このことを気が付かせようとされている存在を知り、気づくことにあるのかもしれない。しかし、ほとんどの人は気が付かずに生涯を送るようだけれど。いろいろな宗教があっても、あの世で亡くなった人にあってずっと楽しく暮らしたい、とか 世界が平和でありますように、とか その思うところは同じように思う。永遠の命や涅槃や極楽を。

人がジャンルに分けざるを得なかった宗教において、僕はキリスト教が最も優れていると思う。残念なことだが、ひとりの人(イエスという)に対しての出会いのあまりに膨大な言葉による人の数ほどの本が出回って、かなりのかさぶた状態で実態が分からなくなってしまい、直接、彼の声を聞こうとしなくなってしまった。

それは、実際に歴史を動かしている、動かして来たという、その”わたしはいる”という存在に対しての旧約時代の先理解が必要だからであった。しかし、キリストが来られて人に命を吹き込んだ創造主との新しい契約が提示されたのだ。文字としてではなく霊(聖霊)として。今も語る・・・。自由主義神学とか、人の言葉、文字が先行しての自己納得は一見、自由とみえるだろうが、僕らが無意識の上から啓示されていると考えるのが本当なのだろう。

専門の修行者も必要なく、人生を通して天上との媒介者としての彼を信じて(何を?ーそれが新約聖書が語るところである)普段の人生生活自体を修行とみなして生きればいいのだ。自分の言葉で生きている彼と語ればいいのである。気が付く人は気が付いている。彼は今も生きているのであると。

僕はプロテスタントだが、先のブログに書いた「ファチマの預言」とはいつのことを言っていたのだろう。ソ連時代、”収容所列島”という本を著したソルジェニー・ツインはノーベル文学賞をもらったけれど、あの時代も多くの人々が命を落としたと言われる(ソビエトの中で監視社会となって国の中にあちこち収容所ができて列島をつくっているという題である)。ローマ法王庁が公開しないで秘密にしていたその予言を修道士がフランスの飛行機をハイジャックしてまで公開要求をしたことを、そういえばそのようなことがあったな、と改めて思いだした。法王の暗殺事件も計画されたというのもその関連だったか、闇にマネーロンダリングやマフィアの動きなどがあってか、当時、世界のあちこちでマリアの肖像画の目から血の涙がこぼれたという、少し怖い写真も見たことがあった。

僕の住んでいる遠くの山側に添川湯沢台というところにある聖体奉仕会のマリア像”は、101回も涙を流す現象があって”涙を流すマリア像”と言われ世界的にも少し有名になった。秋田大学医学部や岐阜の法医学分析では人間の涙に非常に近い成分だったそうである。

調べていくとNational geographicに世界中にマリアの顕現があったのは、周期的にあって僕の生まれた年に多かったという記事があった。地上から多くの民族が取り去られるだろうという預言は、現に今、世界でコロナウィルスで635万人の人が命を落としているという進行形に現れたであろうし、ロシアが戒めの鞭となって人類を苦しめるであろう、という預言は、インターネットで世界の裏側のことが一瞬の内に知ることが出来るようになった昨今において、現在起こっている現状のことを気が付く人は気が付きなさいとの再三の警告なのであろうと思う。キリストご自身が語っていたではないか、戦争が起こる、飢饉がおこる、地震が起こる・・・と。

ここに来て、飛来しているUFOから人になって同期している宇宙人のことをまともに考えなくてはならなくなったのである。命を奪う、悪い宇宙人の策略との戦いでもあるのだ。

「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身につけなさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。」(エフェソの信徒への手紙6:11-12)

人類は、日常においても心を静めて、人とはどういう生き物であるのかということを一人一人が考えてみることが必要であろう。我々は命の霊を吹き込まれ、地上から次の世界、永遠に生きる天地創造以前の世界に招かれているものなのである。

時間はあまり残されていない、と思うようになったな。・・・