Uと言ってもいろいろな奴らが現れて、とりとめのない会話を始める。そろそろ体力も無くなっているから、本来の元の古巣の、そして今の、更に将来の話に戻ろうと、しきりに度々、よなよな現れる。どうもそれは、aであったりbであったり、cであったり。そんで、誰が誰やらなのか定かでなくなったので会話だけ書き留める。
いきなりご本人様の(つまりお前の)思いを書き始めても読む人はさっぱりいないだろうよ。人が面白いと読み始めるのは、その読む人の頭の中の先理解があって、そのイメージを助長させてくれそうな序章があって、読んでみっか! という動機が始まるんだな。だから、まずは身近な誰もがそうだなぁ~と想像力を喚起してくれそうな、理解できる当たり前なことや、そうだべなぁ、というような話題から始めることだなぁ。興味を引く写真も添付せんとなぁ。脳みそからの第一印象は視覚から入るからな、んだども、で、それは前頭葉を通らんのだから・・・。
何で今まで、黒子だの、Xだの、シナリオライターだの、プロデゥ―サーだの、つまり人の舞台上の主人公ではなく、それを動かす段取り者や、つまり演出家や陰の書記官らが存在すると書いて来たのは、人が地上に現れてから(あえて彼らが僕ら人をつくったとは書かないが)彼らが地上の至る所に散らばって今も存在し(もうすでに自らも自身が分からなくなるくらいに時間が経過して)しかし、今も陰の彼らは存在し、絶大な影響を与えていると思わざるを得ないからだ。世界に散らばってこの国にも古来から来てるんだがな・・・。
そう、世界のベストセラーは、そのことを現わしているんだが、そのことに気が付くのは、人の存在に疑問をもつとか、人生にとてもつらい思いをして、何故なのだ!と疑問をぶつける相手がそれ、つまり自分を存在せしめている命あらしめる者らの存在に対して、人のドラマに抗議し始める時、初めて露わに言葉としてその存在が現れてくるという「それ」なのである。あるいは、誕生時からその言葉を求める素地があった者には、その言葉、彼らの言葉を聴いた時、霊感としてドンピシャの波長が合い、同調する者もいるというのは確かなことでもあるのだが。古来においては彼らの言葉を民衆に伝える預言者ら。
「苦しみに会いたりしは、我に良きことなり。汝(神)の掟を知りたるが故に。」(詩編119)
つらい思い? それは個人ばかりでない。我らがいるかぎり彼らも存在する。彼らは時代を生きて来た。万物の霊長と言われる人の存在。つまり我らに近いその霊を持つ者ら。世界の人の歴史が、流れ流れて文字という記録に残らないまでもひとりの命ある我らの霊の受像機?は、世界の果てにただ一人でいてもその存在がある限り、我らはその者の為に存在する。だから、その場で我らを呼べ!「我らを呼ぶのだ!」と今でも声をあげているのだ。それが君には聞こえないのか?・・・聞こえてくるだろう?!
欧米の哲学が、その大元締め、天地創造来の創造者の独り子と言われる彼の死から、人の言葉での世界への伝搬の礎となったことは確かなことではある。あくまで人類の救済という意味合いでの「伝搬」、それは「伝道、あるいは宣教」とも呼ばれるが、そのシェアーについてである。各地に生まれて来た、我らの多々ある地上からみれば6次元での会話。時代、時代に我らは地上の適合する我らの電波の受像機に迎合して言葉を流し込んだ。プラトン、ソクラテス、アリストテレス・・・、孟子、老子、荘子・・・。しかし、時間があまりにも必要だった。
時代によって起こして来た宗教家や哲学者も残された文字としての言葉により普遍性を持ったが、人々に言葉を与えるにつれそれは普遍性と自己肯定を求め、他の命の排他を好む戦を否定し、釈迦やキリストもいるが、ここでどうして世界のベストセラー聖書の中のしかも、イエスと呼ばれる男のことが特に今までの話の中で取り上げてきたように読み取れるのかは、とても重要な意味があるからなのである。まったく読み方を変えれば、彼らの世界が読み取れてくるという訳だ。無論、人の言葉には限界があるのだが。何故なら我らの語る言葉は次元の異なる錯綜するあなたらが天の声とも(笑い給え!)言われる霊界の(あるいは6次元あからのといってもいい)言葉だからである。
言葉を超えたものの先には目には見えない電波や人の感性というもの、それが先にあって人たる受像機はそれを受け取り、チューニング(精調して)合わせてより精細な現実的な意識化された自己の言葉にする。この段階までの到達以前のあいまいさの中に宗教性は多くの人を引き付けてきた。キリスト教が東へ伝搬するにつれ、肉体克己の上座仏教をこなして大衆誰でもの大乗仏教に変じ、命ある人には卑賤はなしと特に浄土宗、真宗の基ともなったのが伝搬しつつあったキリスト教であった。・・・それを政治として伝えた彼らがいた。その通奏低音(この言葉は政治学者の丸山正男が言い始めた言葉ではなかったか)が流れていて、彼は今も生きて働いている、と言うのである。
彼らの声がまったく遠のくにつれて目が覚めた、時間は朝の3時過ぎ・・・おしっこに起きる。