人が理解するという頭の中の印象把握については、誰でもが人の頭はかくかくしかじかで、だからこうであるなどと理由付けをしないものである。だからこそ、人や民族、あるいは差別、避難、批判などが動物的防御反応として拒絶がささやかにも起こりうるなのではあるが。それは多くのドラマを作り上げる。
それは、地域の伝統、風習ばかりでなく、国によってはその歴史などもすべてがこれに含まれてくるものである。家族という小さな単位でも言うに及ばず。
ここに、人の言葉の認識を時間を超えて理解しようと固持しようとす人々がある。彼らは限定された地域であり、長い歴史を持っている者らである。その歴史の中で新たなる上からの言葉を伝えんとした者が発生して、それは人の創成その言葉の始原から派遣されてきたというのである。
その地域に先祖伝来住んでいれば、容易に歴史上に現れた新たなる上からの言葉を理解することができるしれない。しかし、あまりに受け入れ難い言葉であったが故に拒絶し、伝えんとした者らをも歴史の上で殺害したというのである。これは伏線であり、人が分かるという以前の昇華された次元の言葉のことであったがゆえに理解できなかったのであった。
その歴史を、他の国々の人にとっては、ますます受け入れ難いものであったろう。しかし、その言葉は、知ろうとする人という種の体のつくりというか、その受像器の脳みそというか、それらも創造した言葉だというのだ。
我らはまずは人という種の『理解するという』この世の有機体としての次元から考えてみないといけない。
ここで、『人というもの』をまずは考えてみようと思う。まずは『分かる』ということはどういうことか。・・・