僕らが、一般に「人は・・・」というとき、その人とは、厳密に考えるといつの、どこの、どういう人のことを指すのだろうか。最近、いろいろな彼ら(👽)と話すときに、まず第一に彼らが僕ら地球の人を自分らの自己実現のために想像したのだ、ということが絶対に動かすことのできない基底になっているということだった。
だから、と彼らは言う。どんな時にも、彼らがそういうどんな時にもというのは殆どが、その時々の自分たちとのコンタクトの言葉を持ち得なくなった時のことをいうのだということらしい。コンタクトの言葉? なんだそれは、また面倒臭いことを考えさせるのかと、あぁ、彼らがまさにこれがコンタクトの言葉ではないかというときは大抵が説教臭い話なのだ。
しかしながら、知能が遅れて来た僕にとっては、主体的な言葉を持つなどという前に自然なる欲求は、言葉以前の動物的な基本欲求しか、情けないことに沸き上がって来ない。腹減ったとか、眠いとか、歳とってこれは若かりし頃のように激しくもないという情けない思いになるのだろうが性的欲求とか。
それは、そもそも彼らが忽然と現れて、人を作ったのは我々だ、などということをいい始めてから、疑問を思うならば人は自分自身を考えればいいだろう。我々に似せて作られたのだから我々の痕跡が見つかるだろうことから、我々の存在を理解するであろうということであった。
それで、自分自身を考えるといっても、どこからそのようにと思ったのだが、その始めは小学生の人体からであった。当然、その前に植物とか昆虫とか、その諸々の仕組みや命を繋ぐ生殖の仕組みなども学ぶのではあったけれど、そしていよいよ人になって、心臓は左心房、右心房、肺は、胆嚢は、肝臓は~、そしてホルモンは、血液はなどと学んでいくのだが、諸々、このような内蔵の関連、ホメオシタシスが自分のにどう関連しているのかなどということは、医学を真面目に学ぶものや、長生きしたいと自己肉体の点検をするようになる歳よりくらいしかいないだろう。
しかし、彼らが言うのには、長い期間、自然の流れの中で地球上において自然の中において自然に任せておいても、長い長い地球上歴史において様々な生き物を生殖反映させたが、まさに自分らに似せて少し進歩的に反映させようと試み始めたという訳であった。
それが、我々が(実にここでも、我々と言っているそれが)多くの仲間の内の誰なのかが問題となるのだが、君らは、今、「我々」と話された時、一様な一つの集団と捕らえるだろうが、面倒なことに「我々」と語りにくる、それぞれの「我々」があるのだな。
だから、一様ではない。例えば、我々の様々のところからくる、それらは、君らの政治の世界と似たようなもんで、○○党や▲▲党や△○党~であったりと、それぞれの立場で「我々」と言っているのであるから、我々は一様でないとまず認識してほしい。
それは、地上の様々な国があり、民族、言語があるようなものだ。今だ、野蛮国家もあり民主国家を語る国々もあり、独裁国家もあるという具合である。つまるところ、この地上のドラマは我々の諸々のグループの反映が見られるということなのである。
では、アーメン(確かなり、その通り)という言葉ほど、星の数以上にも語られたその言葉の内容とは、それは唯一と言われるその存在に集約されねばならない壮大な、そして重要な、さらに貴重な意味があるのである。創造の初めにおいて、地上の受け継いだ霊の吹き込まれた人々の引き戻しが始まったということである。我等の知り得ない壮大な時間の巻き戻しの流れ。
「主の祈り」これは、キリストが弟子達におしえた短い祈りであるが、「天に置ける如く、地にも成させ給え」のそれなのであるけれど、それぞれの雑多な我々のグループが、それに乗じて地球上に争いながら自己実現をしようとして来たことなのである。だからこそ、この天上の創成次元でのヒエラルキーの頂点としての「唯一の神」と主張を強調宣言され続けて来なければならなかったのであった。
この創造に乗じた低級から高尚なグループがあるということである。それは地上における様々な神々を見ると解るであろう。しかし、真の神は生きておられて人を生かしている方である。
シナリオライターがいなければ物語は始まらず、そもそもその主人公の存在、場面設定も時間をかけて創造しなければならないという訳である。人の創造者は生きておられるとうことは地上の人類が存在していることでもあるのだ。
たまに、この地上において試験的に遊ぶものらもいたけれど、その痕跡は、巨大生物や、空から見なければわからない巨大地所絵など、その他、諸々オーパーツ。
何も驚くことはない。その我等に似せて創造された人についてのドラマは、なぜ、一つの物語性、つまり世界のベストセラーに収斂されてきたかといえば、人類ドラマのその舞台設定者でもあり、その主人公自体の創造者でもあり、また、シナリオライターでもあったその格段上位の頂点となるべく始源のグループがあったからなのである。
それは、我等の活動の場も、あるいは我々自身もそれから創造されたのだから、これ以上のことを話すことはできない。
如何にその機関(とあえて書く)が崇高であったか。その舞台設定と、最終段階の人創造の後の地上での確認にの監視約におられたのが、サレム(シャローム)平和の王、メルキゼデクであった。「エル」とは、文字通り「天」である。我等が地上の神々ではない「天の神」と峻別されるものらであることを心せよ。
天においてかかれたシナリオ。地上の主人公に伝えるべく、あるときは目に見える人の形をとり、あるときは、主(天使)となり現れ(ガブリ「エル」、ウリ「エル」伝達者、預言者(サム「エル」)として存在し、時代が下り、その伝達様式も言葉として、さらに記録者を生み出す。さらに時代が下り、人それぞれにも「霊」として語るようあからさまに開示されてきたのである。
神は霊である。この霊とは、人が創造された時に鼻から吹き込まれたものである。そうして人は生きるものとなった、とある。さて、こういう設定の中において、つまり我等の多くは介入を始めたのである。地上の創造された女たちが美しかったので、神々はそれぞれに結婚し子供を生ましめた。むろん、ここでの神々は先に述べてた諸々の我々の雑多な?グループでもあった。
あなたらが、なぜ人好きになるのか、嫌いになるのか、あるいは様々な地上でのドラマ、悲劇、喜劇が起こるかはすべて元をたどればここに、由来する。よって、善悪の判断がはあなたたちに委ねられていないのは、我々のここまで立ち上って来なければわからない。これを話すとすべてに関わる。人が神の似姿に創造されたからといって人を如何に解剖学的に解析したところで近づくことはできるだろうが、我々が直接、その個人に語りかけない限り決して理解することはできないのである。内なる声として。。。
・・・とりとめなく彼らの話は続くのだった。