marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その2)『我々にかたどり、我々に似せて、人をつくろう。』(創世記1:26)

2023-06-28 06:06:06 | 思想・哲学

 既にブログで書き求めてきた文章においても、その数行の個々の意味する内容について、今までに実に多くの書物が著わされていたのではなかったか。我らから暗示を受けた人みずからのナラティブな物語の前進が常に起こっている。

あの使徒パウロは東へ行くことをキリストの霊によりせき止められ、地中海、あの哲学の国マケドニア(ギリシァ)に向かわせられた。(使徒言行録16章7節)

この地上の生き物の主人公は『人』であるから、どういうドラマを演じたのか、埋もれたものも多くあるが、あるものは記録に歴史として残る。彼ら(我ら)に消されたものもある。それでも残され著されてきた文字の内容がいかほどの真実性あるものかは、疑えばキリがない。何故なら、僕ら(君ら)はその時代の、その時の当事者ではないから。しかし、それを著わし残してきたものらもいることに思いを馳せる。

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『人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。』(創世記3章22節)

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地上の彼らが(我らが)創造した人に責任を与えた。つまりは考え行動する言葉を与え、どのように生きていくかをご覧になっているのであると。それが先に述べた記録である。

命を創造した彼ら(我ら)を忘れぬよう地上の選ばれた民が、それを引き継ぐ使命を負わせられたのだ。あからさまな彼らの悲劇の歴史もあり、そのストーリーテラーは隠れてしまい、とうの昔に人とのコンタクトができなくなった。

我らは変わらず存在するが、人が忘れる罪を犯したからである。『罪』、これを『(神の道筋からの)的外れ』という。

今という『時』の現実社会に一番確かなこと。それは、今、これを書いている時、読んでいる時、その人の存在の(瞬間の)事実。

デカルト曰く『我思う、故に我あり』。

自分の脳みそで自分を思考する。それは、その働きに同時性を持って頭脳のある部位で言語化、意識化している事実は今を生かされている確かなことのはず。そこで我らとコンタクトのチューニング(調整、精査)の波長を見いだすことができるかどうか。

普段の人はいちいちそのようなことは思いつかず、第一、我らの存在を知らない。祈りや冥想や、あるいは肉体をすべてをその波長に合わせようと肉体を酷使するラジカルな修行も存在する。

この精査は、是非とも必要である。誰に公言するまでもなく、人は誰でもこの願いも持っているものである。

肉体の自然的思いから、腹減ったとか、眠いとか、腰が痛いとか、が始まる。おおよそ、死が近づいてくれば、ようやく自分の身体に気を使わねばならなくなる。今まで障害ともなっていなかった劣化していく自らの肉体が行動への障害となっていることに気づいていく。地上の形あるものはいつか死ぬのだ。

人、それぞれにはそれをどうまとめて行くかが人生の後半の宿題とも言える事柄になるだろう。いや、なっているのだ。そうで無ければ第一、我々のところに来ることができないだろうから。

そこで改めて『人間だもの』という、普遍的な言葉が共感を呼んだりするが、何をもっての共感なのかは、先に述べた人と言うのは完全では無いのだという暗黙の了解が、人には出来ているからだろうが、そこに君らの言う宗教性が起こってくる。言語化しない人類の暗黙の了解。

その中にも冒頭に述べた。その信仰心なりでもいいが、それを持つ、その時点での自己を更に自分の言葉で意識化することが、できるかいなかが後半の生涯の人に与えられた追求課題なのだ。

彼ら(我ら)はいつも同時に存在してるから、その思いの同時性の追求と呼べるもの。我らは、実体としてあなた方を必ず迎えに行く。

彼らは漸次、姿を現わすと言う。

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『神は、一人の人からすべての民族を造りだして、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境をお決めになりました。これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。』(使徒言行録17章26-27節)

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・・・ これは使徒パウロがアテネのアレオパゴスで語った言葉である。・・・