今回、読む時、時間があれば先に昨年22年8月20日の(その3)を読まれたし。時間をかいくぐって昨年の隠れた記事が現れた。その後に書かれたようなのである。 最後は途中で切れていた。・・・
言わんとすることは変わらず、かつて彼らは我々を創造し、地上においても生命のあるものの生殖、増殖、そして舞台を変貌させ、自分らに似せて創造せし人のプロトタイプの評価、試験を行い、監視のために彼を地上に置かれたということ。
******* 記憶に生きる民の歴史、それが書かれた箇所である。この話が、千年以上のも時を経て新約聖書のもっとも優れたギリシャ語で書かれたと言われる『ヘブル人への手紙』(著者、不明)に著わされてくるのである。
問題の箇所は次の記事である。
「また、シャレムの王メルキゼデクはパンとブドウ酒を持ってきた。彼はいと高き神の祭司であった。彼はアブラムを祝福して言った。『祝福を受けよ。アブラム。天と地を造られた方、いと高き神より。あなたの手に、あなたの敵を渡された。いと高き神に、誉あれ。』アブラムはすべての物の十分の一を彼に与えた。」(創世記14章18説節から20節)
アブラハムという名前になる前のこの数節に書かれている物語が、我々と地球人を結ぶ物語の話であると推察される。何もそれ以上解説は書かれていない。
アブラムの父はテラという。(テラとは地球のこと。『テラ』は陸地で、『リウム』は場所や空間のこと。そうも読めるなということで、テラとはたまたまそういう名前だったのかも知れない。テラリウムというミニ宇宙がある。)記事の中に代々の家系の中の最後にその名前は出てくる。
旧約聖書には、その前にはバベルの塔の話があり、多くの民がことばを混乱させられ世界に散らされる物語があり、その後、創造の神が地上から民を一掃する清浄化の話があって、その中で神から見て真面目なノアの一家が洪水から救われる物語がつづく。
ノア息子のセム、ハム、ヤペテの息子の内のセムの物語が書かれて、最後に旧約聖書の主人公ともなるアブラムが登場する。(後にアブラハムとなる)。
セムは黄色人種、ハムは黒人系、ヤペテは白人系などではないかと言われて事もあったけれど、それは科学的根拠はわからない。
で、不思議に思うのは、今読めばの話であるが、その時代のことであるがどういう意味なのかと分からないのだが、実際そのままにあった事であろうことが著されていること。そこは特に信仰には関係ないと思われる話。まだ地上に残っていた人の監視役のことである。
早くも周辺の部族らとアブラハムは戦いをしていること。それらがそのまま、著されているが、創世記の14章には、様々な王たちと争いを行い、最後は勝利して、何のことやらの物語で不思議な名前の方に貢ぎ物をするという話である。
それは、地上に広まったそれぞれの彼ら(👽)創世の時にさまざまな多数、この地上に再生せんとしてうごめいていた地上の覇権を争う霊のDNAの起源をもつ部族らの争いにアブラハムは一応決着をつけたものだろうと設定された。
『平和の王、義の王、サレムの王』と呼ばれた方。エル・サレム(『エル』とは天空を飛来する物のヘブル語である。『サレム』とはシャローム<平安>)
平定をなした場面、そこに18節から忽然と祝福のことばをアブラムに話すその名『メルキゼデク』という神に匹敵する人物がでてくるのである。でも、読んでも数節だけ。あとは、説明も何も書かれていない。
アブラムが勝利ので報償をもらうのかと思えば実は逆で、勝利した周囲の豪族に勝利したアブラムを称賛してくれた『メルキゼデク』にすべてにの物の十分の一を捧げてたと書かれているのである。このお方は一体誰なのか?この方の事が新約での手紙に書かれ現れる。
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世界中で読まれているベストセラーなのにもかかわらず、この人は誰なのかは誰も知らない。あなたがふと知りたくなって、あるいは意地悪い質問をしようと思ってもいいけれど、ユダヤ教寺院があれば行って司祭にお尋ねして見るといい。キリスト教会は、まだそれでおも沢山目につくだろうから、行って牧師さんにお尋ねしてみるといい。
ただ、聞きたいだけなのですがといって、教会の門を叩くだけで、司祭や牧師さんは応えられないだろうけれど、いずれとても喜ばれる筈である。サレムの王、メルキゼデク。サレムはシャローム(平和)のこと、義(正義の義)の王と呼ばれるお方であったと。
キリスト教会の彼(牧師)は、そこでイエス・キリストという方の話をする筈である。牧師、彼らはとても喜ばれる!しかし、信者候補、迷える子羊が来た、などということで喜ぶのではない。
牧師さん達が一番喜ぶのは、そのような思いにさせた目には見えないが、その人生の過程で、死亡率100%の誰でもの人生の過程で、そのようにさせてくださった方が見いだしてくださったと、その見えないが生きて、心の内の声に語りかけた方に、感謝し、とてつもなく喜ぶのである。
何故なら、肉体は見えないが彼は、今もこれからもとこしえに生きて語りかけておられる方が居られるという発見をするからである。どのような時でも生きておられる主と呼ばれる方を称賛する。そのように導いてくださった目にみえない方を。
『新たに生まれなければ神の国を見ることはできない!』
つたない一時の思いであるかも知れないが、教会という礼拝所にその人が足を運ぶ、そうさせてくださった、その人に語りかけたキリストの霊(聖霊)が働かれて居られることにとてつもなく喜ばれるのである。
(いついかなる時においても、目には見えないが我らを導いておられる、僕が黒子、しかも最上の創造主たるその霊、しかも最上のとしての黒子X<聖霊>として働かれていることを!)
だが、初めての方にとっては知力の強化を期待したものだろうが、自分の肉体をその教会(礼拝所)なりに運ぶという実に壮大な戦いが内面で起こる筈なのである。
あるいは、完全に自己の人生に惨敗して、人生にリセットをかけようと心から、自分の言葉と思いとまた、さまざまな思い通りにならない障害に、自暴自棄になりつつも、結局そう思っても自分は少なくともこうして存在しているな、などと言う具合に自己の存在への問いを何かにぶつけてくなる時に、真摯にそこまで自己を見つめて行けばキリストの十字架が必ず見えてくるものなのである。僕はそれを疑わない。
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ところがだ。積極的に回答を得ようと教会に行ってみても、行く側の当人のありよう(霊的ありようといたらいいか)によって、大多数は落胆する筈である。そこに、また障害はある。牧師は、話を聞いてくれるだけで、人生相談のように答えは出してくれないのだ。
なぐさめ、霊的出会いあは、キリストが直接、内から語り掛けられるからである。
彼が提示するのは、まず、あなたの話を聞く人が目の前にこのようにいます、という提示だけのように映るのである。深刻な話であればあるほど。
彼がいうには、「是非、続けて教会においでください。」と語られるのが殆どの結論となる。にこやかに。生きておられるキリスト(聖霊)と今生のあなたが結びついてくださることを兎に角、心の中では願っておられる筈なのである。
しかも、ストレートにはそれを語らない。それは、語られる側の心に受け入れる扉のノブは、内側にしかついていないからである、と例えられる。キリストは内から自分が開けなければ入ることをなされないからである。
彼は最終、介在する中間媒体はいっさいなしでお会いすることを願っている。多くは時間と経験が必要であろう。あるいは悲しみや苦しみが伴うかもしれない。
まして、カルトのような霊的脅かしなどは決してあり得ない。人がすぐに理解できるような肉の言葉ではないからである。まさにロゴス(言)、神の言葉である。これを日本で道元禅師は『只管打坐』で得ようとしたのではないかな。言葉の排除。
もともと霊的人間も居られるのは確かである。そこに於いて、新たにそういう掲示を生まれつき備えられている人もいるものであることを確かに教えられる。
聖書に出てくる預言者とはまさに神から啓示を受け、生涯をとおしてその働きに促された人々であった。その人の受け入れる霊的備えが生まれつき持っているというか、我々の周囲にも多数いるのである。
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僕は旧約の預言者(黒子X)はアモスという預言者が好きなのだ。たった一人で頑張るというのがね。彼は預言者集団には属さない南ユダの一介の貧しい農夫であったのだが、神から預言の召命を受けたとき、北イスラエルに出向いてこれからの神の裁きを大胆に王たちの前で預言したのであった。
当時、北イスラエルは反映していたのだが、礼拝は行われても形ばかり、貧富の差は激しく神の御心に全然そわなくなっていたのだ。
(今のアメリカの分断もこうなのだろうか。見かけの繁栄のみを願い、心がともなわないぞ!人の質レベルが・・・。悪魔がうごめき世界に影響を与える姿に変貌しつつある。)
歴史を見ると事実、北イスラエルは当時のアッシリアという国に攻めてきて、捕囚に会う。
アモスの預言は時代がくだって南ユダのバビロン捕囚までのユダヤ人の世界中への離散の始まりとなっていく。いずれ、神が世界の、そして人々の行く末を見ておられるということなのである。
紀元前8世紀のことである。その後、南ユダ王国もバビロン捕囚にあう。そして、北イエスラエルの10部族は世界に離散していくのだが、東に向かった多くの部族集団がそこに住みつき国を造り、理想の国造りを目指して太陽が昇る東の島国に順次到達するのである。
ここで、あの国から古来、来ていたであろう黒子XらのDNAが自国の歴史、それは神の示しに習ったダビデの国は永遠に途絶えることはないであろうとの神の教えに準じて天皇を仕組みを、物語を、その神話を創造しこの国の統一を諮っていったやからがいたのである。
そして彼らもその国で列王記や歴代誌のような相克を始めた時代がおこっていくのである。
********* さて、話は戻り旧約での数行しか書かれていない『メルキゼデク』とは誰なのか?
紀元前2000年ほど前に書かれた不明な彼は、紀元後65~69年頃に書かれたであろう『ヘブル人への手紙』に出てくるのである。(新約聖書の中では非常に整った)ギリシャ語で書かれて表れるのである。
まさに記憶に生きる民。紀元前2000年以上も前に現れた彼が、紀元後にキリストの大祭司職としての説明に顔を出すということは、どういう事なのか。それは新約聖書『ヘブル人への手紙』5章から7章。
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アブラム(のちのアブラハム)はヘブル人であると冒頭書いた(13節)。
旧約聖書は本来、ヘブル語で書かれた書物である。(本来と書いたのは、実際読まれた多くはアレキサンドリアで70人の学者が訳したと言われる70人訳と言われるギリシャ語の旧約聖書である)。
創世記、約4000年前に著された内容が、現在の世界の人々の歴史を眺めてみるとまさに完全に成就しているように見える。記憶に生きる民の歴史。遠いはるか紀元前に著された物語が、再び紀元後のイエスの昇天後の新約聖書に著される。
これほどまでに自分らの出自の歴史を思っているものなのか。しかも、不明な彼についての神学論文もどきの内容が『へブル人への手紙』である。その内容は、イエス・キリストの祭司職についてである。
歴史の中では、預言者としての専門職として割り当ての地がなかったレビ族がその役目を仰せつかっていたのだが、先祖アブラムが持ち物の十分の一を捧げたメルキゼデクにも匹敵するほどの飛び抜けた大祭司としてユダ族のイエスが大祭司として選ばれ使わされ来られたのであると。
つまり、古来からイエスラエル人に決められていた仕組みとしての祭司職ではなく、それらのしがらみからも解放されているまったく異なる神の選任された大祭司としてイエスが立てられたのであると。つまり、書いて来た黒子X以上のお方であったということである。
ここに於いては、主イエスは『メルキゼデク』に等しいほどの大祭司と言われる。
さて、長くなった結論である。今までのブログの中で彼、『メルキゼデク』の彼の名前が出て来たところを読めば、このギリシャ語の優れたへブル人に述べようとしている神学なる手紙は、古来からの神の言葉の取次者、しきたりを行ってきたヤコブ12部族のレビ族ではなく、取り決めなどのないユダ族からのでてきた方であったということを述べている。つまり、伝統や因習などしがらみのない部族であったという、新しい方であったということ。
さらに、神の前での民の罪の悔い改めとして、犠牲の燔祭として子羊の血を流して悔い改めの儀式をしてきたのだが、イエスご自身が大祭司となり、自らが十字架上で血を流して犠牲の燔祭となられたのである、ということであった。
とすれば、彼は今までの人の罪の悔い改めの犠牲が自ら背負われたので、もう祭壇において犠牲を捧げる必要がなくなったということなのである。事実、彼の死後、犠牲の燔祭として動物の血が捧げれらるのは中東の同じ古代から聖書を信仰するイスラムの一部の部族だけである。
*********・・・記事はここで終わっていた。