marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(序論)SDG'sは「大衆のアヘン」である:大洪水の前に!

2023-10-11 10:38:00 | 思想・哲学

 人の個性は、親の遺伝をベースとして幼小の頃の環境に左右されているものだ、というのが今の脳科学では分かっているところ。幼少期、受動で育てられた子供は大人になっても受け身の指令には、多少なりとも耐える仕事に付けるであろうというのが、いい意味での解釈である。悪く言えばすべてにおいて隷属する気性がみられるということ。

さて、それは肉体の現象系なのだが、土台としてその個体の肉体はそもそもどうなのかというところまでは、決して言及しない。明らかに身体的に障害を持っておられる方に、尋常者と作業を比較して評価してもここでは意味の無いところ。

僕の云いたいのは、更にデリケートなところ。人が誕生して親の病的遺伝をもつ人については、その多くがあるのに対してその多くの研究文献は人の目に触れることがない。

人の思考の傾向、それは性癖とも呼ばれることもある領域なのだろうが、人はDNA的にはこう進化してきたまでは開示されても、その個人はどうなのかを病理開示するなど、尋常に生活していればなされないものであるし、それは個人情報云々の領域となっているのだろう。

時代が進歩していくら人の病理解析が理論的に分かっても(そういう時代にすでになっているのだが)、それは決して客観的事象として公にはならない。かなりの人という動物の医学研究がなされても、さて自分は第一に考える思考傾向はどうなのか、性癖があるのかなど殆どの人は自省などしていないものだろう。

しかし、ここに人共通の肉体の劣化が人の普段の思考に関わってくる。誰にでも、人にはあからさまに共有化できない肉体という実態とそれを垣間見る時の現象が起こる。

科学が進み、AIなどで考えること自体も正しく問いを与えればそれなりの答えをはじき出してくれる時代。AIに問い合わせ、それをおこなうことは正しいと返答され、事件を起こす人もでてきた。

さて、どうしたものか。そうである。時代は進み便利になっても、それは人という動物の見る、聞く、話す、記憶する、覚えるなどの機能の延長であり、その働きをなす土台としての人そのものの実態を病理医学的に解析することに、究極の影響判断を持ち込むことは、おそらく人世界が終焉するまでなされないことだろう。

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知識が増えれば悩みも、またそれにつれて増えるものだ。AIなどで、人の思考をコンピュータがやるような時代、しかし、投げかけは結局、人が行わなくてはいけないのだが。とすれば、良い質問を得るためには正しい問いあわせをしてください、と逆にPCに叱られるかも知れない。

繰り返す。あまりに知識が溢れ、人のなんたるかも解明されて、それは生きることの何らかの束縛からの解放を意味するが、逆に、あなたがそういう困難、試練にあうのは、あなたの生まれと育ちのこういうところが原因です、と諭され、本当は誰でもに暗黙の内に周知されていることなのだが、人はそういう意味で誰も言わないが不平等なものなのである。

芸は身を助ける。才能は公の為に・・・。キリストの言葉に、「健康人には医者はいらない」と読める部分がある。治癒神でもあったイエスから見れば、つまり殆どの大人になっても気がつかない、その人の個性とも呼べるもので負の傾向をもつものは、すべてその個人の不完全さ、欠陥に起因するものなのだということを彼は知っていたのである。つまり我らはすべて軽重はあろうが病人であるということだ。

さらに彼らには望みもあった。「持てる者はますます豊かになり、持たないものは、ますます貧しくなろう。」そのようなことを彼(イエス)は語っているのである。病人で働けぬ、また、多くの貧しいものにパンを与えたイエスのこの言葉は、「神の言葉」を受け入れる柔軟な心のことを語っているのだろう、という解釈である。前半は、「資本論」で叩かれそうな言葉だが。

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それが人に与えられた100%死亡率の肉体をもつ事実であると。地上の肉体の生涯は誰でも一度しかないということ。人が持って生まれた身体の気づかぬ不幸を持って生涯を送り、その中で好いた惚れた、嫌いだ、切った貼ったの人生を送っているのは喜劇でもあるし、哀れな存在だといえようか。しかし、少なくとも僕は、内面の弱者に目を注ぎたい。

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「大洪水の前に」という題は、キリスト者であれば、すぐに旧約聖書にある「ノアの箱舟」の物語からであろうと思いが及ぶ。

神が創造した地上に人が増え、悪が満ちはじめ、神は地上の人をすべて滅ぼそうと思われた。その中で神の御心を関知していたノアという男が、神の警告を受け入れ、大洪水が来ると山の上に大きな箱船を造る。皆に警告を発するが誰も嘲笑し相手にせず日々の享楽を過ごす。

ノアはあらゆる動物のつがいと家族親族を載せ、箱船の扉は閉められる。時が来る。40日と40夜、雨は降り続き地上のほとんどの生き物が滅んだという。(ここで助かった人の数が8人だった。大きな船の漢字が、ボート(舟)に八と口(人)を書いて船という文字になったのであるという話がある。)

洪水が止み、ノアは陸地が渇いたかを確認する為に鳩を飛び放った時、オリーブの枝を加えて戻ってきたのだった。(それが平和の象徴となっている訳だ。)地上に降りた彼らの新しい生活が始まるのである。

昔の物語だが、箱舟の造られた山がアララト山という。その場所かどうかだがその場所は今もある。

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 この夏に読んだ本にこの2冊。 著者はマルクス研究者である。表題の”SDG’sは「大衆のアヘンである」”という”はじめに”に書かれた言葉も、あのマルクスが「宗教はアヘンである」という言葉をもじったもであることは、すぐ理解されるところである。(つづく)