marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

『ブルトマン』に驚き、『八木誠一』で成長し、『田川健三』で覚醒した!

2023-10-28 21:04:46 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

表題は、先の斉藤幸平の著書『ぼくはウーバーで挫折し、山でシカと闘い、水俣でないた』にちなんだものだ。いずれの名前も基督教神学者である。少々、パロディめいたが、教会の牧師先生方はお許しくださるであろう。

現在のプロテスタント教会の牧師先生らの中には、これからの若い世代に大いに関心をもってもらうために、敷居を低くし、イベントやバザーや諸々の諸行事をやりましょうという若い牧師もおられれば、いや、敷居は高い方がいいのだと言われるご高齢の牧師先生もおられる。

なので、昔堅気の正統派を自任される方は、権威付けを求める意識づけの壁に自らの悩みをもって?ぶち当たりイエスに救いを真に求めねば、信仰は根付かぬものであるとする先生方もおられる。

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※日向かおりさんのyoutube 動画の証(あかし)をご覧ください。自殺を神に止められて(ご本人はそう体験された)、つまり、肉体的体験として神と相対峙された人の信仰は揺るがないものだと思われる。異界(異次元)への境界をさまよい体験し、現生(現次元)へ!!

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しかし、意識するかしないかはともかく、キリスト教宣教が行われた国々では、その社会的雰囲気というか、信者でなくともその土地柄によって、心の安らぎを得て普段の生活に馴染んでいくところもある。

その原因は、やはり、生きている人が、そもそものその真なる語りかけに人が生きていく永遠をあこがれるその心の思いに、なんらかの人世界以上の向上性、普遍性、永遠性を得たいと願う気持ちが個人においても湧き上がるからであろう。

谷村新司さんの『昴』はタイ国では非常に人気が高まり、教会の讃美歌のメロディーにもなっていたなぁ。・・・亡くなられて心がとても痛む。

「我は行く~さらば、スバルよ~♪。」彼は永遠の世界に旅立った。『昴』という星座は、日本車のSUBARUのエンブレムにつけられている星座で、清少納言の『枕草紙』にある日本古来のものだったなぁ。

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旧統一教会の問題も僕の学生時代からの社会問題でもあったし、ロシア、ウクライナ戦争、それにパレスチナとイスラエルの現在のドンパチも多くの人命が亡くなり、本当に心が痛む。簡単にメディアが放映るような、善悪の判断がつかない屁理屈が、過去の歴史を引きずっているもんだなぁと思わせられる。

今起こっていることは、すべて関心があった宗教に絡むことがらだし、世界のベストセラー『聖書』に関わる事だ。国連総会でも、イスラエルの人道支援の非難ばかりでハマスの非難がないのか、を主張しアメリカもイスラエルに加担。日本は棄権。

神は言われる。「私は生きている。」と。

益々、多くの日本の方に世界のベストセラーに関心をもってもらいたいものだと思う。読んでもすぐにはさっぱりだけど。彼等(👽)も表ざたになってきたし、本当に神は生きて働いておられるのだなぁと個人的には思わされるのだ。しかも緊急を要する事態に。

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情緒性もなく、新約ではかろうじて、病人や貧民を奇蹟?で救済するイエスの言動にシンパシー(ギリシャ語でソン・パシオーが英語のその語源となった。イエスが腹のそこから憐れむ気持ちをもつ言語だとか)を覚えるが、初めての方は、その他の物語は何のことやらであろうと・・・。

ここで、威厳をもって博学、ひけらかすか、あるいは、ぐっと砕いて、おいおい、そこまで崩すとやばいぞ!とするかなのだが・・・。

しかし、あの文字だらの、そして言葉の宗教と言われる、その走りとなった神の独り子、イエスという方の十字架と復活、そしてまた、彼が再び来られるというその日まで絶えることのない聖餐式の意味などを深く知ると、天地創造来からのその通奏低音のように、未来まで預言して書かれていると思われるこの書物が、不思議で不思議でたまらないのだ。

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これに今まで時折ブログに書いてきたユダヤ人が古来この日本に帰化していてこの国に同化した人達が多くいた、とか、世界を見れば・・・のディープスティート闇の世界とか、あるいは人権問題や民主主義や共産主義などのイデオロギーなどの問題も、更には最近またとみに人目に現れ始めた彼ら(👽)のことも・・・。

興味は尽きないというか、しかし、地上において人命が失われるのは、宗教が政治に絡むと人命損失というろくなことにはならない、という事だけは言えそうであるけれど、これもまた、聖書にとっては、世の終わり(壊滅するという意味ではなく新しい神様のご計画の一時に転換点という意味らしいのだが・・・)

つまるところ罪ある人が、宗教を政治にひっぱりだすと人命にかかわるということだけは言えそうだ。古代においては一緒だったんだけれどねぇ。

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僕にとっては、(他の人には押しつけはしないけど)まさに、彼(イエスという男)が、教えてくれたことなのである、とこれまた飛躍した個人的見解を書きたくもなるというものである。

聖書を読んで、いろいろ世の中(政治)や世界のことを推論めいて納得がいくようになったということだ。

まず、分からんというところから始まり、信仰を持って命までかけたというのは何かの迷いか、心理的逃避なのか(それにしても彼らは偉く強靭に変貌しているという不思議もあるが)と思いきや、分からんからと批判もできんので、分かろうとすれば、まずは理解しようとする今、生きている人の命(体のこと)、言葉、意識、思考、歴史、そして訳の分からん霊的な領域にまでも、到達してしまい、それで分かったかと言えば、さにあらず、モヤモヤは霧が晴れてくるものの、現存する異なった次元の異界という領域も、普段、知りえることは殆どないが実はわれらの普段の周囲に存在することを教えてくれるなぁ、などと勝手に教えられたと思っている訳である。

そもそも、自分は分かる資格のある善人でもないことは確かだし。。。つまるところ、理解しようとしている『自分とは何か?』という、さらには『神が創造された人とな何か?』に巡り巡って、『罪』の問題に行きつくわけなのであった。

「その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」(ヨハネ伝:21:25b) である。

先に述べた現状のここの課題に対してのつたない僕なりの見解もあるが、偉そうに羅列するのが本意ではなく、聖書はかしこまらずにすべてのどんな人にも開放されて読まれるべきものだ、ということを言いたいだけなのである。

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あいかわらず、ボケ防止のためにくだくだ書いたが、表題を簡潔にまとめると。

ブルトマンは、あれからかなり神学的な内容も進化、研究されているから、僕にとっては驚きのスタートを切った神学者だったという意味で。半世紀以上も前、それは何故かというに、聖書を純粋な書物として(一応)、解析しはじめる。文献学として、つまり書物として解析する。

イエスの本当の言葉はどれか、とか・・・。純粋な信仰を求めようとされる人は、何か悪いものを見てしまったような。

過去の人になりつつある。彼の主張は今は当然のこととなったので著作はあまり読まれていないように思う。

八木誠一先生の本は、自分を知りつつ、理論的な、そしたこの国の神道などにも関心を持たれて、人の信仰心と、読む、読まれる言葉ということについて、実にすっきりした理解をした。聖書を読むにあたり読む側の人間についての理解。聖書が語る、真理の言葉とは人間の普段の書いたり読んだり、会話したりの言葉とは次元の異なるものである、というようなこと。

田川健三先生の著作は、今までブログに揚げた。もし、書店でなにがしかの彼の本を立ち読みでもすれば、特に前書きやあとがきなど読まれれば、正当福音主義を学ぼうとされる方が読めば、べらんめい調のビックリひっくり返るような解説が載っているだろうけれど、聖書言語に関してはその道の大家であるようで、こちらは牧師さんらには永遠に読まれそうな書物である。

学生運動時代、この神学者は多く読まれた記憶がある。つまるところ、我ら人が情緒性で読み取ってしまうという弱点を持つが、真の言語からは果たしてそう読めるのか? 人のもつオブラートのような汚れた心情膜を削除して真摯に言葉に当たれ、というところ。

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無論、その他、多くのキリスト教神学者は居られる。主要な学者さんについては、東京神学大理事の近藤勝彦先生の本もある。表題の神学者は僕は、人生の中でエポックとなった方で、その他、実際、本だけでなく実際にお会いしお話することもできた方々もおられる。

少々小難しいかもしれないが、当然、書籍は今も出ているから、このような普遍性のある小難しい内容は、売れ筋はさっぱりだろうが、読み続けられるだろう。実は、新約聖書自体が、そのことを促しているように思われる。

いつまでも赤子みたいにミルクばかりでなく、硬いものをも食べるようになりなさい、というような・・・パウロの手紙。現に今の世界(2023年)をみても、いかような立場にいても、神の言葉を武具にして世を渡っていく戦士を最終求めているような文言にも出会うのである。

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わたしたちの戦いは、血肉にあらず(イエスによりこの地上での生きている意味を教えられ、死後の救済が保証されたのだから・・・、むしろ、我々は、その信仰をしっかり持って、イエスを今だ信じていない人々の障害を取り除くべく)、支配と権威、闇の世界の支配者、天における諸々の悪の諸霊に対するものであると。<()内は僕の解釈。>(エペソ人への手紙6章:12節)

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次回から、聖書私的勝手に解釈と題して、この書物を自分のものにしてみよう!・・・