marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

(その3)死んだら、どうなるのか? 東京神学大学長講演

2023-11-02 21:00:32 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

 前回の項目3.になります。

▶死んだ後、人間はどのようになるのか。・・・・・大きく分けて二通りの考え方がある。Ⅰテサ4:13~17を踏まえるなら、信仰を持って死んだ者は、イエス・キリストの再臨の時に復活するのであり、それまでは、言わば、「眠っている」。

しかし、フィリ1:23によれば、死ぬことは、キリストと共にあることである。体を持たない人間というのはあり得ないから、例えば、死んだ人間の魂は、イエス・キリストの許に、しばらく憩い、復活の時を待ち、イエス・キリストの再臨のときに、新しい、「霊の体」(Ⅰコリ15:46)を与えられて復活する、と考えることはできる。この復活を信じることが、「身体のよみがへり」を信じるということである。

▶人間は死によって失われてしまうわけではない。(イザ49:14~16、出3:6、マコ12:26)

▶「永遠の命」とは何であるか。・・・・・永遠というのは、神の性質である。従って、「永遠の命」ということで、まず考えられなければならないのは、神の命である。

▶神の生きている永遠の命というのは、神がかかわり・交わりの中にあるということ。神が三位一体の神として、独りでありながら、自らの中に父・子・聖霊の交わりを持っているということ。この、神の生きている交わりに与るようになることが、永遠の命。

▶永遠の命に与ることは、既に始まっている。イエス・キリストの霊である聖霊が与えられていることで、人間は神の子とされる。(ロマ8:15~16、ガラ4:6)。信仰を与えられているということは、聖霊によって、イエス・キリストを通して、神の交わりの中に入れられているということ。

▶永遠の命に与っている具体的なしるしは、礼拝である。『ハイデルベルグ信仰問答』によれば、「問58 永遠の命の項は、どんな慰めを、与えますか。/ 答 わたしが。今すでに、心の中に、永遠の喜びの初めを受けていますように、この生命の終わった後にも、人の目もいまだ見ず、人の耳もいまだ聞かず、誰の心にも、いままで浮かんだことのない、完全なる祝福を持ち、そのうちにあって、神を、永遠に、賛美するようになることであります」ということである。

▶礼拝もまた第一に神の業である。まず、神の業としての礼拝があり、その神の業に与ることによって人間の業としての礼拝が成り立つ。「今述べていることの要点は、わたしたちにはこのような大祭司が与えられていて、天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられるということです。」(ヘブ8:1~2)

▶信仰を与えられることなく、世を去った者について、はっきりとした答えをするのは難しい。ただ、ロマ:14:9やⅠペト3:19によれば、死によって失われたと決めつけることことはできないであろう。

▶他の生き物(ペットなど)についても、はっきりとしたことを語るのは難しい。ただ、詩36:7やロマ8:19と21を踏まえると、死によって失われると考える必要はないと言ってよい。

▶信仰を与えられて死ぬ者は、世の終わりを待ち、世の終わりに当たって復活させられ、神との交わりの中に憩うことになる。いま既に与えられている、神との交わりが、死によって断ち切られることなく、永遠なる神によって保たれる。・・・・・<講演内容おわり>

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(👽)私見

キリスト教神学というのは、このような話を共有化しているということだが・・・聖書の内容をあるていど先理解している方に話された講演なので、何のことやらと思われるかもしれない。

いずれにしろ、聖書の教えるところは、人の死後の世界のありようがとらえ方は多々あるが、あらゆる宗教の中でも実にはっきりしているということだ。

そして、それは介在するものを最終一切いれずに、あくまで個人で、その今も生きて我々に命を与えて生きているという(自分の命があるのはそのことなのだが)聖霊につながり(いろいろうろつく悪い?霊もあるのだ)、教えられるという自覚を持って生涯を送る、ということなのである、と。

あなたの死後、霊の慰めにとりなしを行う仏教者、僧侶にそれを尋ねなさい。この国の殆どの方はそうだろうから。僧侶は、[輪廻転生]のことは基本教義として、当然とのこととして身に着けてお在られるはずだ。・・・しかし、それでは我々は、どこにいくのだろう。

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彼(イエス)は、明言する。「私はどこから来て、どこへ行くのか知っている。・・・・わたしに繋がっていなさい。」と。

時代のニュースは世界を巡る。天と創造の世界を支配される父なる神は言われる。「わたしは、生きている。」と・・・時は近い。