marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(636回) (その8)新型コロナウィルス ①:カミュの「ペスト」の一場面なら 

2020-03-05 09:07:46 | 日記

 ◆ペストが発生した昔には、”ウィルス”という毒は見つかっていなかった。小説の中で”血清”によって防止をしていくのだが、小説のごとくのやりとりであれば、今回の新型コロナであれるとすれば、全員感染死亡だろうと思われるが、町を封鎖するなど、そのような目に見えない敵に対しての”不条理”に対しての出てくる人々のそれぞれが如何に共同の理想と希望のために闘いうるかを物語っている小説だ。主人公は、医者であるリウー、手記を残そうとするタルー、司祭バヌルー神父、その他 が出てくるのだが、今は違うだろうが、まさにあの時代、中世的雰囲気が残っているバヌルー神父の説教は次のようなものだった。*****

「そうです。反省すべきときが来たのであります。あなたがたは、日曜日に神の御許を訪れさえすればあとの日は自由だと思っていた。二、三度起坐しておけば罪深い無関心が十分償われると考えていた。しかし、神は生ぬるい方ではないのであります。そんな遠々しい交わりでは神の飽くなき慈愛には十分ではありませんでした。神はあなた方ともっと長く面接することを望んでおられたのであります。それが神があなた方を愛したもう愛し方であり、またじつを言えば、これこそ唯一の愛し方なのであります。こういう次第で、あなた方の来ることに待ち疲れたもう神は、災害があなたがたを訪れるに任せ、およそ人類の歴史なるものが生まれて依頼、罪ある町のことごとく訪れたごとく、それが訪れに任せたもうたのであります。あなた方は今や罪の何ものたるかを知るのであります。・・・・」(p-114)

◆タルー(T)はリウー(R)に問う。T:「神を信じていますか、あなたは?」R:「信じていません。しかし、それはいったいどういうことか。私は暗夜の中にいる。そうしてそのなかでなんとかはっきり見極めようと努めているのです。もう、とっくの昔に、わたしはそんなことを別に変わったことだとは思わなくなっていたのですがね」T:「つまりそこじゃありませんか、あなたとバヌルーの違いは?」R:「そうは思いませんね。バヌルーは書斎の人間です。人の死ぬところを十分見たことがないのです。だから、真理の名において語ったりするんですよ。しかし、どんなつまらない田舎の牧師でも、ちゃんと教区の人々に接触して、臨終の人間の息の音を聞いたことのあるものなら、わたしと同じように考えますよ。その悲惨のすぐれたゆえんを証明しようとしたりする前に、まずその手当てをするでしょう」(p-148) ・・・続く 


世界のベストセラーを読む(635回)  (その7)この国の宗教心について学びつつあること

2020-03-04 22:22:15 | 日記

◆野呂芳男という神学者の先紹介の後半の課題は、多くの人はそれをキリスト教神学者であるのに、民衆としての宗教として、アニミズムや輪廻転生さえも考慮しながらもそれを思考したことであった。当然、旧約聖書には、他の神を拝むなどは偶像礼拝であると厳しく禁じられているから、キリスト教が一番(むろん僕はそれは正しいと思うが)として、他の宗教を排他しているのであるが、それは旧約時代の選民イスラエルの人々の神からの<言葉が悪いが>”見せしめ”のような使命があったからなのである。神がそのような徴を示して来られなければ世界のすべての宗教といえどもすべて塵芥となるだろう。人の創造はその起源があるからなのだ。実に神は働き給うがゆえに、彼らの試練は歴史の中で真の神は生きて働いて存在しておられるのだろうことを世界に示されて来たのである。「私が神であることを知れ」と・・・。

◆神学など多数ある中にもかかわらず、僕がひかれたのは、いろいろ思索を重ねても、やはりこの国においては、そういう所へ向かうのだろうなという、感銘をうけたのだ。アニミズムや輪廻転生など他宗教の長年言われてきたこと、信ずるとか信じないとかではなく、事実としてそういう人の信仰心があること、つまりは使徒パウロが「本当の神を教えようと」奮起したごとく、目に見えぬところの真の信仰心のあり方、その対象、筋道があるということ。無論、キリスト教独自の十字架と復活という乗り越えなければいけない壁があるけれども。しかし、その民衆の宗教がこの国においては、そのおおもとが古代に彼らの真の神概念から引き継がれており、引き継いできた渡来人が伝えて同化したのがこの国の心の根であって、時代を経て最もふさわしい形での在り方が残されたきたものだということ。それがこの日本の真の姿なのだったということが今、明らかになりつつあるのだ。旧約聖書、申命記28章36節「主は、あなたをあなたの立てた王と共に、あなたもあなたの先祖も知らない国に行かせられる。あなたは、そこで木や石で造られた他の神々に使えるようになる。」旧約時代、イエス誕生以前にBC5~7、捕囚の危機に出会った東へ向かったイスラエル部族は、その時代のそれぞれの国々に同化し、その到達点としてこの日の昇る国に順次、到達していたのである。

◆学生時代、信仰心について神学者八木誠一の仏教や神道などを読み模索していたし、当時、学生運動家からは人気のあった九大の滝沢克己などが尊命ならば、きっともっと面白い議論がなされたのになぁとか。。。京大のかの哲学者西田幾多郎が滝沢にカールバルトを学ばせに行かせたように、バルトも日本からきた優秀な若者に驚かれたようだったが、議論はかみ合わなかった。いまでは、20世紀最大の神学者と言われたバルトも批判(否定ではない)されているから、きっと今となっては、八木や滝沢が求めていたこの国への神学的提言などきっと面白いことが沢山議論されただろうにな・・・と思っている。時代がくだり今、日本の国の隠されていた本当の歴史があらわになってきて、この国のいたるところにある僕が子供のころから不思議に思ってきていたその「八幡」という名前の由来が、あのイスラエルの旧約の民に結びついていたことを知って、僕は嬉しいのである。(八幡神社は、渡来人である、秦氏、辛島(鹿島)の一族が伝えたものである「神道辞典」)。野呂芳男は仏教との考察を深めた八木誠一の『新約思想の成立』(新教出版社)という本を高く評価していた。

◆だから”神は生きて働きたもう”というところか・・・。今や、この国の古代の歴史から、この国の信仰心(精神性、通奏低音と呼ばれたもの)が分かり始めてきたというのである。子供の頃から不思議に思ってきた漠然とした不安が、これなどは旧約聖書時代の下地にあり、異邦人の神を排他するのみの神学だけでは、理解しえないものであることが理解されてきたし、神がある意図をもっており、この国はその終着点だったのではないかと思えるようになったのだ。なぜって、僕らは人として、そう、神が自分の似姿に創造されたという人として、現に僕もあなたも生きてこうして居るではないか、信仰深いこの国の人々をキリスト者でない異邦人と言って切り捨てることがないではないか。神が自分の似姿に創造されし人が全世界に広まっているという事実。実は、この国の人々の深層にある信仰心なるものは知らずに神につながっていて、だから神はこの国人を救済せんとするために今や顔を出し始めたのだ、という思いなのである。・・・+次なる壁は、十字架と復活なのではあるが・・・使徒パウロに神は言われた。恐れず語れ、この地には私の民が多くいるからである、と。・・・続く


世界のベストセラーを読む(634回)   (その6)新型コロナウイルスの騒ぎようは尋常ではないなぁ!

2020-03-02 20:56:20 | 日記

それはあの感染力が、つまりウィルスの細胞に吸着する力がSARSの10倍から20倍も強いからなのである。潜伏期間が不明で長く、陰性が再発したり、感染ルートがつかめない要因もありそうだ。中国武漢の漏れ出した研究所も証拠隠滅?の故か爆破されたそうだし、そもそもが人工的な遺伝子操作研究施設の管理が杜撰だからなのであった。新聞によれば、女川原発の再稼働の認可が降りたそうだけど住民は承諾はしないだろうな。コロナも原発もいずれも人災なのだよ。それで以前のブログにも書いたけれど、社員旅行で女川原発見たときに宮城県の電力の半分を賄うと案内で聞いた時には驚いたが、質問で津波は大丈夫かと僕は質問した。ブロックで覆われて津波がきて流されても浮く、ロケット弾を撃ち込まれない限り大丈夫と言われたことは、昔のブログに書いたが、そのとおりだったわけだ。とすれば福島原発は、設計が女川より古かったけれど安全対策に金をかけていなかったということだ。のちのちのことを考慮すれば、リスク防止にお金は当然かけなければいけないだろう。新型コロナは、人為的研究の上に従来の防止策、治癒方法が見えないがゆえに、それだからこそ、インフルエンザより感染率、死亡率などが低いのにも関わらず(率から言えばそうだが)、罹患すると虚弱体質者の致死率は高い、というか治癒療法が不明なのだ。だから誇大に国はあれこれと防止策を流すのである。これはやるに越したことはない。悪魔は、神の創造されし人を使うのである。抹殺するために・・・。(カミュは、中世的神観念には対抗し、反抗する。)

◆いずれ、地球の裏側も瞬時にわかる時代になってきたが、これからの時代をどう生きるか。終末が近くなってきているのだろうか。昔の原発事故、あのロシアのチェルノブイリ原発が崩壊したとき、ヨハネの黙示録の8章に出てくる”多くの者が死んだ”と出てくる「苦よもぎ」(11節)が「チェルノブイリ」という言葉だったのでびっくりしたものだった。******************************* 神学者 野呂芳男は、カミュを取り上げ、彼のキリスト教の神観は中世的であると書いていた。プロテスタントの開始者、ルターの考えは”神の言葉をひとりひとりのものに” であった。現代は、youtube で海外の説教が聴けるし、聖書の学びも行える時代になっているのである。しかし、今のプロテスタントは組織的に中世以前である。聖書のどこにも書いていないのにも関わらずである。あえて言えば使徒言行録の役割の分担の箇所か。どこにも組織的しがらみに温存し、その与えられた地位など聖書のどこにも書いていないにも関わらず、何か特別な地位的特権の人間なのだと思っているのではないか、世間体にもまれず、知識だけのアナウンスであれば秀でた人々は多くいるから、試練から逃げようとすれば、その働きの中心から最も遠い人間になるかもしれないという危うさがある。なぜならイエスを背後に、自分という人の自己肯定をどこまでも押し切ることができるからである。これでは最も憐れむべき人間になるだろう。

イエスは、究極には”信徒にとどまれと言われたのではなく弟子になれ”と言われたのである。”友と呼ぼう” とまで言われたのである。そこに、地位的境目はない。プロ、アマの差はない。信徒であるから自分を超えるな という対抗意識ではなく、弟子になるべく成長育成するプログラムを持たねばならないのである。自分の言葉でイエスと会話する、そういう信徒が弟子となっていくのである。「私は弟子、あんたら信徒」でとどまるのであれば「教師は特別厳しい裁きを受けるであろう」ということばが待っていることを知るべきである。我々は全員が前進しなければならない。これは時代の要求である。世界のベストセラーが教える時間は回帰はしない、直線である。・・・ Ω