marcoの手帖

永遠の命への脱出と前進〔与えられた人生の宿題〕

世界のベストセラーを読む(934回)真理とは何か?

2021-11-25 06:00:00 | #日記#宗教#思想・哲学#宗教#手紙#小説

▶永平寺大講堂は仏教の大学と言われ、僕らが知って教科書でならう特に平安から鎌倉仏教で自己の宗派を確立され、また著名な以降の方々が学んだ場所と言われる。TV-BS1スペシャルで拝聴。大講堂、歴代の方々の大きな似顔や像が鴨居や祭壇に並べられた中で、左右に釈迦が法華経を弟子や動物たちに説いている大きな絵に、中央に大日如来の金色の大きな像が置かれている根本道場の法要の祭壇。▶法然、親鸞、栄西や日蓮・・・。曹洞宗の道元は、永平寺には宗家のような方だが、それぞれが在野に下り、御自身の宗派を確立された。で、みなさんこれが釈迦が解かれた実態、表れだという自らの生き様、言葉、あるいは所作の中にそれぞれが説く仏に帰依せよ!と。▶それで、説かれた内容を読んでも第一に、お経がサンスクリットなどの呪文、真言でその効用の先理解を学ぶも修行をつんでいない僕らには、ありがたいのだろうが中身はよくわからない。実に意味は分からなくてそもそも良いのであるとする。その修行の日常の所作のそのもの、意識し言語化する以前に仏が存するのであるとする。つまるところ今生のこの瞬間の悟りを開くための仏との同期である。永平寺は、最澄が開き、学んだ方は在野におりてそれぞれが自らの啓示をうけて、宗派をお立てになった。▶先の法華経を釈迦がお説きになっている大きな絵? 中央に大日如来?。大日如来は、そもそも密教を説かれた空海の崇拝されたものではなかったのか? 法然、親鸞さんの帰依された南無阿弥陀仏の阿弥陀如来さんは、どこに行ったのだろうか? 日蓮さんの説かれる南無妙法蓮華経は、帰依するのは説かれるお経である、と語られている。お経の中には、多くのお経や様々な化身された仏のお名前も出てるようだ。~うぅむ、よく分からん。人の言葉でそもそも理解しなくてもよいものだとする、そこで僕個人にとってはどうどう巡り。▶そこで、肉体を超えるための荒行も修行として行われるのだが、最近の千日回峰もTVで見る機会があって、これまたびっくり。深夜0時半に出発し、山の中を往復48Kmを千日間も毎夜歩きとおす。そもそも修行は、なぜ肉体を酷使するのか。精神が肉体を凌駕させんと? ところが浄土宗(真宗)はキリスト教の影響を受けているとされ(親鸞は漢字でマタイ伝も読んでいた。書かれたものは全て仏教だと思って。空海が学んだ長安ではすでに景教が大流行していたのだから)、御名を唱えるでけで何もいらない、衆生は今生で皆救われると唱えたものだから大流行したのであった。坊さんは頭も剃らない、自由。▶うぅ~む、よく分からん。ところが、悟りを開くや浄土へ行くにはこれなり、ときちんと言い、書かれ、実体として今も生きて個々人に体験できると示されている方がいるというのである。


世界のベストセラーを読む(933回)壇蜜さん ネパールの旅 ”死とエロス”

2021-11-24 08:08:08 | 日記

▶巣ごもりの中、BS1スペシャルは面白くみる機会があった。宗教に関心があるので、その地に住む人々の信仰なるもの、死に対して、地上の人には必ず訪れることに対するその現象に対して、瀬戸内寂聴さんが亡くなられから、ブログの再開を始める。▶ネパール、あの寺院の塔になんでも見通す目を描かれた旗のひらめく建物と言えばだれでも思いだす人がいるかもしれない。死を待つ人々を受け容れる寺院を訪れる。死者の葬り。川の水で浄め・・・といっても、見るからに実に不衛生である。さらにカーリーという神様は血を好むという。右手に剣、左手に男の生首をもって舌👅を出して大きな目で踊るような姿で描かれた女性神。大衆はお祭りになるとカーリーの神にふりかけるために、鶏や山羊の首を切り血を流し振りかける・・・。カーリーの顔は長年のそれでぼろぼろで原型をとどめない。人の歩く道は血だらけだ。犠牲にささげた肉は、みんなで食べるのだという。猥雑ともいえる群れのお祭りに壇蜜さんでないと誰でもこれは嫌だな、不衛生きわまりない・・・。とても死者が喜ぶとは思えないが・・・▶ところが、親族の死者を浄める川に座り葬りの準備をする女性に問いかける・・・「何を思われてますか?」と。以外にもその返答は僕らの常識にあうものだった。これは情報の多くを共有化することができるような時代になったからなのだろうか。終わりに問われたその女性が答える。「世界が平和になりますように願っています」・・・。▶さて、僕は思想的に右でも左でもないが、この国が古代神道であったこと、その真髄に”浄める”ということが基本にあったことをいつも思わずにいられない。「ハレ」と「ケ」(穢れ)。会社の仕事で部下に家が代々神主で神職を継いでいるので、その引継ぎに短い修行をしないといけないと会社の休暇をもらった奴がいた。僕の裏手の山の高台にあがると遙か遠くに古来あがめられて修行の山と知られる神聖なる山が見える。その麓まで行って清い滝に打たれて(ふんどしつけて、女性は白い浴衣のようなものを着るらしい)修行をするという。▶そこで僕はいつも思うのだ。”我、潔ければ、汝らも潔かるべし” これは、世界のベストセラー聖書の神の言葉である。その神の民は、やはり遠い昔、この日本の国に来ていたのだろう。彼ら神の祭儀を司るレビは、やはり代々その職を世代をつないでいく世襲制。神は彼らに割り当ての地上の土地は与えられなかった。”行い”を清くするには、当然、その”心”も清くならなくてはいけないと。彼らは世界に散らされた民の中で神の言葉を取り次ぐ職制を担って今も生き続けているのである。▶「主はあなた達を諸国の民の間に散らされ、主に追いやられて国々で生き残る者はわずかにすぎないであろう。あなたたちはそこで、人間の手の業である、見ることも、聞くことも、食べることも、嗅ぐこともできない木や石の神々に仕えるであろう。しかし、あなたたちは、その所からあなたの神、主を訪ね求めねばならない。心を尽くし、魂を尽くして求めるならば、あなたは神に出会うであろう。」(旧約聖書、申命記4章27-29節)


☕チャリダー『絶景の旅 in 秋田・男鹿半島』

2021-11-23 08:49:15 | 日記

 TV、うじきつよしのチャリダーを時折見る機会がある。男鹿半島をバレー元日本代表 狩野舞子さんが巡るというので見入ってしまった。嘘でしょうと。高低差があって海岸沿いも景色はとてもきれいだが、そのままでは女性はとても無理ではないかと思ったので。と思ってみたらE-BIKE 電動アシストつきスポーツバイク使用だった。バッテリー切れに注意とのコメントもあり。それで、数年前、男鹿半島をチャリで巡ったことを記録に残そうと思った。スタート地点は半島の寒風山が遠くに見え始めるところの道の駅。大きな”なまはげ”が迎えてくれ

 ルートは途中、寒風山山頂からの日本海を見て

 到着点は入道埼の灯台です。僕の巡ったのは夏のすがすがしいとても天気のいい日だった。

▶僕も体力がだいぶ衰えて、知人の子供で工業高等専門学校に入った子が自転車が好きなので、彼は新車を持っているが半世紀以上も前のアルミフレームのこれが欲しいというのでこの自転車を差し上げた。学校にはサイクル仲間がいるとのことで、青春をエンジョイして欲しいと思う。・・・


☕女という生き物について(中原中也と小林秀雄)<2>

2021-11-22 07:17:22 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教

▶男女同権がますます叫ばれてLGBTなど、法律までも変えようとする時代になって「女という生き物について」などという総括的な物言いなど、ひんしゅくもんだ。今後は許されないというか、かなり幼稚な時代遅れの人の物言いになると言われるだろうなぁ。男も女もというか、中間の人々に対しても「人とはいかなる生き物なのか」と遺伝的に生理医学的にさらには、心理学的にも研究が進められるだろうから。否、実は殆どのことは既に知られているのだけれど、メジャーになっていないだけなのだ。理解されるとは、理解する者(大衆)の先理解としての経験と知識、環境が整わなければ周知共感されることは決してないのだから。それに事実を明確にするとドラマはできなくなるからだなぁ。▶幼稚退行的な軟弱な僕にとっては自信そんなことばも口に出すことも憚られるのだが「雄」としての性欲がまがりなりにも(こういう生物学的な欲求とはどのような人にも成長過程で、自然に生存淘汰の肉体についているものだ)小林秀雄の「Xへの手紙」の中の女について書かれた部分が途中に出てくるのが思い出される。「・・・突然だが俺はあの女とは別れた。(この女とは先のブログでかいた中原中也の愛人だった人)・・・」廃版にはなっていないだろうし文庫版もあるからここからの考察は誰でも読むことをお勧めする。それで、今でもなぜか、こびりついて覚えている言葉はこんな言葉だった。「女は俺の成熟する場所だった。書物に傍點をほどこしてはこの世を理解して行かうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた。・・・」こんな言葉から小林の言葉は「雄(おす)」の文章だろうなと思ってしまうのだ。▶これからの時代は、「人とは何か」と不可解な男と女の人生模様、演歌の世界は、人の情緒性を保持するには大衆の共感から決して消えることは無いだろうけれど、そのもの言いには気を付けないと時代遅れの人間とレッテルを貼られるだろうな。ここで、女といういきものは、理屈通りにはいかないものだというか、人生にとって理性的に生きてるものでは、ないと結論してしまうのは、哲学や科学を専攻している女性にとっては大変失礼なこととなってしまう(確かにそういう面は多々あるけれど)。男女同権、中間性の人も同権となっていくにつれて、人とは何か、などという命題ははっきり言って、それを明確にしすぎることによってかえって自らの首を絞めつけることになるかもしれないのだから。▶しかし、やはり不思議な不可解な生き物だなぁ。瀬戸内寂聴さんの「死」のことから又、ブログを再開して、彼女が尼さんになられていたのだから宗教性と人間について、又、考えを深めたくなった。浅学な知識にまがりなりにも・・・。

 


☕女という生き物について(中原中也と小林秀雄)<1>

2021-11-22 07:01:51 | #日記#手紙#小説#文学#歴史#思想・哲学#宗教
 
☕ 作家、桐野夏生さんについて

◆前回に書いたように彼女の作品の評価ではなく、この人についてである。長編『日没』を出された内容は、国がどこかの国のように都合の悪いと思ったことは、口封じをして動いてその傾向になりつ......
 

▶今の若い方は、詩人中原中也や評論家小林秀雄など知っている人はいるだろうか。僕らの一世代前は、高校の国語の教科書にも載ったし、一世代前には小林のような評論家の大家のような方の文章は大学入試にも時折、採用されたものだったけれど。このような評論家で動物的な「雄」を感じさせる文章は、初めて読んだ当時の僕には奇異にも思えたのだが、べらんめい調で「俺の言葉」を持った唸る文章を書かれるなぁ、感銘したものだった。何の文章かは忘れたけれど。▶「中原中也の思い出」の中でこんな文章がある。「・・・中原と会って間もなく、私は彼の情人に惚れ、三人の協力の下に(人間は憎み合う事によって協力する)、奇怪な三角関係が出来上がり、やがて彼女と私は同棲した。この忌まわしい出来事が、私と中原の間を目茶目茶にした。言うまでもなく、中原に関する思い出は、この處を中心としなければならないのだが、悔恨の穴は、あんまり深くて暗いので、私は告白という才能も思いでという創作も信ずる気になれない。驚くほど筆まめだった中原も、この出来事に関しては何も書き遺していない。ただ死後、雑然たるノオトや原稿の中に、私は「口惜しい男」という数枚の断片を見付けただけであった。夢の多すぎる男が情人を持つとは、首根っこに沢庵石でもぶら下げて歩く様なものだ。そんな言葉ではないが、中原は、そんな意味のことを言い、さう固く信じていたにも拘わらず、女が盗まれた時、突如として僕は「口惜しい男」に変わった、と書いている。が、先はない。「口惜しい男」の穴も、あんまり深くて暗かったに相違ない。・・・それから8年経っていた。二人とも、二人の過去と何んの係わりのない女と結婚していた。・・・」▶小林の妹、高見沢潤子さんよれば、この女性は当時の海外女優グレタ・ガルボという人によく似ていてとてもきれいな人だったらしい・・・(つづく)