◆柄谷のその中に志賀直哉の「城崎にて」の例のあの蜂が屋根で死んでいて、生きた蜂との対比で書かれた部分があって、この箇所は有名なのだろうか、柄谷がこの部分の評価している記事を引用していたのを見つけたからなのである。これが、高校時代の国語の教科書に載ってその説明をしてくれた当時の教師の名前や口調までしっかり覚えている。柄谷行人の『意味という病』に結論ごときも志賀直哉は幼児性と「気分」が主体で書かれているとバッサリなのである。当時だったか、某評論家が志賀直哉は小説の神様である、などと言われて何で小説の神様なのかよく解らなかったな。僕は、作品そのものより、どうして作家はその物語を書いたのかとか、その心理状態を知りたくなる方なので、柄谷の志賀直哉の作品を評価しているのを読んで、やはりなぁ、と府に落ちたのであった。◆そのことより、なぜ、当時裏日本と言われた鄙びたあの保養地である温泉に城崎という著名な温泉があるのか、そしてわざわざ出かけるのかが気になっていた。当時作家というのは、題材を求めて川端康成も「雪国」にでかけたり、伊豆の温泉にでかけたり、信州の山の温泉街にあちこちの出掛けたりしていたのである。江戸時代、今の名の知れた著名な温泉街は性病(梅毒)を直すために出掛けていたのだ本当は。抗生物質のなかったあの時代、衛生も病理も無知な時代、欲求だけはあるものだから、直すのも必死なのだが、保養も兼ねれば長生きにも心の安寧にもいいだろうと旅が始まった。無論、志賀直哉はそれでななくて事故って怪我の療養のためだったと記憶しているが。貝原益軒の「養生訓」なるもあるけれど彼は一月後あたりに、この悪い病気で亡くなったのであった。・・・