▶男女同権がますます叫ばれてLGBTなど、法律までも変えようとする時代になって「女という生き物について」などという総括的な物言いなど、ひんしゅくもんだ。今後は許されないというか、かなり幼稚な時代遅れの人の物言いになると言われるだろうなぁ。男も女もというか、中間の人々に対しても「人とはいかなる生き物なのか」と遺伝的に生理医学的にさらには、心理学的にも研究が進められるだろうから。否、実は殆どのことは既に知られているのだけれど、メジャーになっていないだけなのだ。理解されるとは、理解する者(大衆)の先理解としての経験と知識、環境が整わなければ周知共感されることは決してないのだから。それに事実を明確にするとドラマはできなくなるからだなぁ。▶幼稚退行的な軟弱な僕にとっては自信そんなことばも口に出すことも憚られるのだが「雄」としての性欲がまがりなりにも(こういう生物学的な欲求とはどのような人にも成長過程で、自然に生存淘汰の肉体についているものだ)小林秀雄の「Xへの手紙」の中の女について書かれた部分が途中に出てくるのが思い出される。「・・・突然だが俺はあの女とは別れた。(この女とは先のブログでかいた中原中也の愛人だった人)・・・」廃版にはなっていないだろうし文庫版もあるからここからの考察は誰でも読むことをお勧めする。それで、今でもなぜか、こびりついて覚えている言葉はこんな言葉だった。「女は俺の成熟する場所だった。書物に傍點をほどこしてはこの世を理解して行かうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた。・・・」こんな言葉から小林の言葉は「雄(おす)」の文章だろうなと思ってしまうのだ。▶これからの時代は、「人とは何か」と不可解な男と女の人生模様、演歌の世界は、人の情緒性を保持するには大衆の共感から決して消えることは無いだろうけれど、そのもの言いには気を付けないと時代遅れの人間とレッテルを貼られるだろうな。ここで、女といういきものは、理屈通りにはいかないものだというか、人生にとって理性的に生きてるものでは、ないと結論してしまうのは、哲学や科学を専攻している女性にとっては大変失礼なこととなってしまう(確かにそういう面は多々あるけれど)。男女同権、中間性の人も同権となっていくにつれて、人とは何か、などという命題ははっきり言って、それを明確にしすぎることによってかえって自らの首を絞めつけることになるかもしれないのだから。▶しかし、やはり不思議な不可解な生き物だなぁ。瀬戸内寂聴さんの「死」のことから又、ブログを再開して、彼女が尼さんになられていたのだから宗教性と人間について、又、考えを深めたくなった。浅学な知識にまがりなりにも・・・。