軽井沢からの通信ときどき3D

移住して10年目に入りました、ここでの生活と自然を写真と動画で発信しています

旧古河庭園のバラ(1/2)

2024-06-07 00:00:00 | 日記
 夕方からの所用で東京に出る機会があったので、少し早めに家を出て、旧古河庭園と、フジフィルム スクエアに立ち寄った。

 フジフィルム スクエアでは、富士フィルムグループ創立90周年記念コレクション展として『フジフィルム・フォトコレクションⅡ』世界の20世紀写真「人を撮る」が4月26日から5月16日まで開催されていることを知っていたからであった。

 その展示作品の中には、私も知っているW.ユージン・スミスの「楽園への歩み、1946年」が含まれていて、先日私のショップを訪ねてくださったプロ写真家の、J.E.アトウッドさんが、第1回ユージン・スミス賞を受賞しているということも関係していて、この機会にぜひ見に行ってみたいと思っていたのであった。

 
『フジフィルム・フォトコレクションⅡ』世界の20世紀写真「人を撮る」のパンフレット

 このコレクション展のパンフレットには次のように記されていて、写真の原点が人物の撮影にあることを思い出させる。

 「・・・本コレクションのテーマは『人を撮る』。
 人物写真は、写真術誕生における最大の動機であり、写真の原点であったとされています。新たな技法がいくつも生まれたその歴史の中で、人物写真は常に人々の関心の中心であり続け、それは今日においても変わりません。『人を撮る』ことは、写真の歴史の中で最も身近で、最も特別なものであり、写真の普遍的なテーマであるといえます。・・・」

 会場に展示されている21作家・全53点の写真は、すべてオリジナルプリントであるとされ、大半が、ゼラチン・シルバー・プリントによるモノクロ作品であった。

 ここでは、多くの無名の人々の写真と共に、我々がよく知っている、ウインストン・チャーチル、ジョージ・バーナード・ショー、アルベルト・アインシュタイン、ヘレン・ケラー、ジャン・シベリウス、アルベルト・シュヴァイツァー、パブロ・ピカソ、アーネスト・ヘミングウェイ、ジョアン・ミロ、マルク・シャガール、モハメド・アリ、ジャック・クストー、マリリン・モンロー、ジョン・F・ケネディーなどの生前の姿を見ることができた。

 さて、この写真展で、写真の原点は人物の撮影であるとの表現に出会ったのであるが、この日私がまず写真を撮りに出かけたのは、旧古河庭園のバラ園であった。上京前日の新聞で、この庭園のバラが見ごろを迎えているとの記事に目がとまったからであった。


旧古河庭園「春のバラフェスティバル」のパンフレット

 以前、軽井沢にあるレークニュータウンのバラ園に咲く多くのバラの中から、50種ほどを紹介したことがあった(2018.6.29 公開当ブログ)。ここも含めて、軽井沢ではまだバラの季節はもう少し先になるので、一足先にバラを見、写真を撮りたいと思って出かけたのであった。私の被写体は、人物ではなく、もっぱら自然の動植物や昆虫である。

 関東には随分長く住んでいたのに、この旧古河庭園に来るのは初めてである。この旧古河庭園のある北区西ヶ原という場所は、妻が生まれた場所であると聞いているし、東京で働いている娘が最近まで住んでいた場所にも近いのであるが。

 その旧古河庭園のバラ園、ここには約100種200株のバラが植えられているとされる。

 正門から入り、サービスセンターで入園料を支払う。65歳以上の個人入園料は70円と随分安く設定されている。それもあってか、平日のこの日の入園者には高齢者がとても多いようであった。


旧古河庭園の案内パンフレットから

 順路に従って園内に入ると正面に立派な2階建ての洋館が見える。ここは、もと明治の元勲・陸奥宗光の邸宅であって、宗光の次男が古河家の養子になった時、古河家の所有になったとされる。

 この洋館と洋風庭園の設計者は英国人建築家のジョサイア・コンドル、日本庭園の方の作庭者は小川治兵衛であり、現在は国の名勝に指定されている。

 建物はレンガ作りと思え、外壁は真鶴産の赤みを帯びた安山岩で仕上げられている。延べ414坪、地上2階・地下1階の落ち着いたたたずまいである。

 大正6年(1917年)5月竣工ということなので、関東大震災(1923年)をくぐりぬけていることになる。

 洋館等の建物は、長い間放置された状態で荒廃が進んでいたが、昭和57年(1982年)に東京都名勝の指定を受けると、それから平成元年(1989年)まで7年をかけた修復工事が行われ、現在の状態まで復元されたとされる。

芝生側から見た洋館の東面とバラ園(2024.5.8 撮影)

 バラ園は、洋館東側に少しあって、大半は南側とこれに続く斜面下側に配置されている。それぞれのバラにはA01から順に番号が付けられた樹名ラベルが添えられ、品種名、作出年、作出国名、作出者、香りなどの特徴が記されている。


洋館南面のバラ園(2024.5.8 撮影)


バラに添えられている樹名ラベル(2024.5.8 撮影)

 一通り見て回りながら、写真撮影をした。以前軽井沢のレークニュータウンで見知っていた品種名には出合わなかったように思えた。3~4万種あるとされるバラなので、当然かもしれない。

 当日、春バラの人気投票も行われていた。ちなみに昨年一位になったのはB22 「ブルー・ムーン」で、次の写真の種であった。



昨年人気投票1位の「ブルー・ムーン」

 以下に私が撮影したものを紹介するが、多くなるので、2回に分けてご紹介する。私は今回見た中では、次のA03「プリンセス・ドゥ・モナコ」が一番気に入ったのであるが、皆さんは如何だろうか。


 
A01 「青の軌跡」 2008 日本(樹番号、品種名、作出年、作出国名を示す、以下同)



A02 「イヴ・ピアッチェ」 1984 フランス


A03 「プリンセス・ドゥ・モナコ」 1981 フランス


A04 「わたらせ」 1977 日本


B03 「ディスタント・ドラムス」 1985 アメリカ




B05 「ビック・ドリーム」 1984 アメリカ



B06 「コンフィダンス」 1951 フランス



B12 「朱王」 1982 日本



B13 「ニュー・アベマリア」 1983 ドイツ



B14 「乾杯」 1984 日本



B15 「ブラック・ゴールド」 2008 フランス



B16 「紫雲」 1984 日本






B17 「デザート・ピース」 1994 フランス



B19 「パパ・メイアン」 1963 フランス


B20 「ガーデン・パーティー」 1959 アメリカ


B21 「フレンチレース」  1982 アメリカ



B22 「ブルー・ムーン」 1964 ドイツ


B23 「シャルル・ド・ゴール」 1974 フランス

B24 「エレガント・レディー」 1988 アメリカ




B25 「エグランタイン(マサコ)」 1994 イギリス




B26 「ロイヤル・プリンセス」 2002 フランス

 今回、バラ園内の数か所に、[旧古河バラコレ]という案内板があり、QRコードでスマホアプリがダウンロードできるようになっていた。これは千葉工業大学が開発したアプリということで、自身が撮影したバラの写真をこのアプリの中の所定の位置に貼り付けることで「バラ図鑑」ができるという面白い試みである。私も撮影したバラの写真の整理に使い始めた。


撮影した写真でバラ図鑑をつくることができるスマホ用アプリの紹介記事

 続く。
 
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年縞博物館と炭素年代測定

2024-04-26 00:00:00 | 日記
 北陸新幹線が敦賀まで延伸されたのを機会に、この新幹線を利用して福井県三方五湖のひとつ三方湖のほとりに建つ福井県年縞博物館を訪れた。

 関西に住んでいたころ、敦賀は比較的近いところだと思っていたが、関東からは遠い感じがして、三方五湖のひとつ、水月湖から採掘された年縞のことは以前から知っていたが、これまで現地に行く機会はなかった。

 この年縞の実物を展示する博物館は2018年9月に開館していて、今回、2024年3月の北陸新幹線の福井・敦賀延伸を受けて、福井県では年縞博物館を主要な観光地施設のひとつとして売り出そうとしている。

福井県年縞博物館の正面(2024.4.17 撮影)


現代から7万年前までの年縞ステンドグラスのスタート(2024.4.17 撮影)

100本に分割された実物の年縞の展示(2024.4.17 撮影)

年縞(2024.4.17 撮影)

展示室のようす 1/3(2024.4.17 撮影)

展示室のようす 2/3(2024.4.17 撮影)

展示室のようす 3/3(2024.4.17 撮影)

 年縞とは何か、年縞博物館は何を展示しているかについて、一般にはあまり知られていないと思う。この水月湖で発見された年縞がいかに貴重なものであるかについて紹介するためには、先ず「炭素年代測定」について確認しておく必要がある。

 炭素年代測定という語は、遺跡などから発掘された木片など有機物からなる遺物がいつ頃のものであるかを知る方法として、小学校か中学校の頃に学んだ覚えがある。

 この方法は、大気中に存在する炭素には、一定割合(およそ1兆分の1)で、ごくわずかに放射性の炭素(炭素14)が含まれていて、これが生物が生きている時に、通常の炭素(炭素12)と共に、二酸化炭素の形でとりこまれていることを利用する。

 生物が死亡して活動を停止すると、そこで、外界から二酸化炭素を新たにとりこむ働きも停止し、すでに取り込まれていた放射性の炭素14が一定のスピード(半減期5730年)で、自然に崩壊して窒素に変化していくために、放射性炭素の減り具合を測定すると、その生物が死んでからの経過年数が測定できるというものである。

 小中学校の頃は、こうした説明で納得していたが、もう少しして高校や大学で物理を学ぶと、新たな疑問が湧いてくる。

 測定により、遺物中の炭素14と炭素12の比率を求めることができれば、現在の大気中に含まれる二酸化炭素における比率と比較することで、炭素14の減少量を知ることはできる。しかし、生物が死んだ時代に遡って、その時代における炭素14と炭素12の比率を知らなければ、減少量は正確に求めることができないはずである。この、過去の炭素14の割合は現在と同じとしてよいのだろうか、そもそも大気中の炭素14もまた、同じように崩壊して窒素に変化しているはずであるから、一定量に保たれる何らかのメカニズムが保証されなければならないという疑問である。

 この炭素年代測定法は、1947年、シカゴ大学化学教室の教授、ウィラード・リビーによって開発され、1960年にはその功績により、リビー博士はノーベル化学賞を受賞した。

 炭素年代測定法が有効であるためには、現在と過去の炭素12と炭素14の比率を確認しておかなければならない。

 リビー博士とその共同研究者たちは、樹齢約3000年のセコイアや、古文書等で年代が判明しているエジプトの歴史的遺物の炭素14の測定を行い、私たちが使用している暦の年代(「暦年代」)と「放射性炭素年代」の関係を示すグラフを作成し、両者が誤差の範囲内で一致していることを示し、これにより、有効性を証明した。すなわち、過去における大気中の炭素14の割合は、現在のものと測定誤差範囲内で同じと見なしても良いと考えたということになる。


リビー博士の示した「暦年代」(横軸:年)と「放射性炭素含有量」(縦軸: 現生物との比率)を示すグラフ(年縞博物館、解説書より引用)

 しかし、炭素年代測定の話はこれでは終わらない。リビー博士がノーベル賞を受賞した当時から、放射性炭素年代が暦年代と完全には一致しない可能性が論じられていた。放射性炭素年代測定法が正確であるためには、大気中の二酸化炭素に含まれる放射性炭素(炭素14)の濃度が時代によらず一定である必要がある。

 だが、その後、真の年代が明らかな資料の測定・研究が進むと、分析の誤差を考慮してもなお説明しきれない年代不一致が、次々と科学誌で報告されるようになった。すなわち、前提としていた大気中の二酸化炭素に含まれる炭素14の濃度が一定でないことが明らかになってきたのである。

 炭素14の濃度のゆらぎがどれくらいあるのかを調べないと、正確な炭素年代測定値は得られない。そこで、暦年代が明らかな資料の炭素14の残存量を測定し、そこから逆に過去における大気中の炭素14の量を求める必要がでてきた。言い換えれば、炭素年代測定が含む誤差を補正するための較正グラフの作成である。

 これに使われたのが、水月湖の湖底に堆積していた泥の層「年縞」ということになる。では、その年縞とはいったいどういうものか。これが本当に炭素年代測定の較正に使えるものかどうか見ていこうと思う。

 水月湖の湖底は水深34mの深さにある。この湖底から更に45mの深さにまである「泥」の層が年縞と呼ばれるもので、1年ごとの色変化を伴う細かい縞模様を持っている。年縞博物館の解説書には、作家であり年縞博物館の特別館長でもある山根一眞氏による次の図が掲載されていて分かりやすい。


水月湖の断面と年縞のボーリングの様子を示す図(年縞博物館の解説書より引用 作図:山根一眞氏)

 通常、湖の湖底に堆積している泥の層は、そこに棲息している生物によりかき乱されて、この図のような層状構造は持たない。ところが、水月湖の場合いくつかの要素が重なり、世界でも唯一とされる7万年=7万枚以上の連続した層が形成され、保存されていることが判った。

 水月湖にきれいな年縞が形成された第1の理由は、水月湖は隣の三方湖と水路でつながっているだけで直接そそぐ川がないので、湖底がかき乱されず年縞が残る条件になっていたということ。

 次に、水月湖は周囲を山に囲まれていて、風が入りにくく、湖底が深いために、底まで水が混ざらず淀んだ水で硫化水素濃度が高く、酸素が行き渡らないために、魚やゴカイ、貝などが生息していないために底がかき乱されることがなかったということ。

 さらに、水月湖の東には三方断層があり、水月湖のある地盤は年平均で1mm沈んでいるため、湖底に堆積物が年平均で0.7mmたまっていっても、水深が浅くなることがなかったことも挙げられる。

 水月湖の湖底に堆積している泥の層=年縞は、2006年に6週間かけて、ボーリングにより完全な形で掘削された。
  
 こうして、最上層の現在から、1枚1枚数えていくことで、どの層が何年前に形成されたものであるかは、正確に特定できる。あとは、それぞれの層に含まれる落ち葉や花粉の化石から炭素14の残存量比率を正確に測定すればよいことになる。こうした結果は、2012年に国際会議で正式に認められ、他の方法で確認されたものと合わせて、「年代の標準ものさし」である「IntCal13」に反映され、放射性炭素年代測定法が適用できる過去5万年をすべてカバーした。

最終氷期の放射性炭素年代の較正データIntCal13 を紹介するパネル(2024.4.17 撮影)

 現在、炭素年代測定と暦年代とのずれを示す最新の較正曲線は「Intcal20」であり、次のようである。


IntCal20の北半球曲線。2020年時点で最新の標準較正曲線(ウィキペディア2023年11月22日より )

 この較正曲線により、例えば炭素年代測定で3万年前とでた資料については、図の縦軸の30000年から水平線を引き、較正曲線との交点から下に線を引いて、横軸の歴年の数値を読むと、34500年と正しい数値が得られることを意味している。

 以上が、炭素年代測定に対して、水月湖の年縞が果たした役割である。

 ところで、水月湖の湖底から採掘した泥の層「年縞」は、歴史的な遺物の年代確定に利用されるだけでなく、地球で起きた様々な変化の痕跡をその中に秘めていることが明らかにされている。

 その一つは、気候変動で、年縞中に保存されている花粉化石から、水月湖の周辺に生育していた樹種を特定することで、この地方の平均気温を推定できるという。解説書から引用すると、次のようである。

 「・・・例えば最近の1万年ほどの年縞は、現在の水月湖の周辺に見られるような、シイやカシ、スギなどの花粉を含んでいる。いっぽう2万~2万5000年前の年縞からは、今の北海道に生えているような、シラカバやモミなどの花粉が見つかる。これらの植物の現代における分布と、気象観測データを組み合わせると、当時の気温を具体的に推定することもできる。実際に計算をおこなってみると、当時の水月湖の平均気温は現在より10℃以上も低かったことがわかった。」

 「このような方法をいろいろな時代の堆積物にあてはめると、過去におこった気候変動を連続的に復元することができる。水月湖の堆積物を使って実際に復元をおこなうと、次の図のようになった。・・・」

水月湖の年縞に刻まれた、過去15万年間の気候変動を示す図(解説書から引用)

 我々が気候変化を実感するのは、四季を通じてであるが、これは太陽の周りを地球が公転していて、その公転面に対して地球の自転軸が23.4度傾いているからである。

 一方、もっと長い宇宙スケールで見ると、地球の公転軌道は約10万年の周期で、真円に近い軌道と楕円軌道との間を行き来している。また、自転軸は2万3000年の周期で首振り運動(歳差運動)をしている。

 その結果、地球が太陽に最接近した時に夏を迎える時代がおよそ10万年ごとに訪れることになる。この時代が温暖期であり、現代であるとされる。

 前掲の図には、この10万年周期での大きな変化と、2万3000年周期での小さな変化とがよく示されている。

 こうした宇宙スケールでの気候変動について理論的な考察を行ったのが、南欧セルビアの数学者ミルーティン・ミランコビッチ(1879-1958)だった。彼は1939年に完成した自らの理論を600ページを超える大著として1941年に出版した。

 年縞博物館には世界に8冊しか残されていないとされていたこの著書の9冊目が展示されている。年縞研究と年縞博物館の建設に中心的な役割を果たした中川毅・立命館大学古気候学研究センター・センター長がこの本をベオグラードの古本屋で見つけたものだという。

ミルーティン・ミランコビッチ著の「地表における太陽放射のリズムと氷河期問題への応用(1941年)」の展示(2024.4.17 撮影)


同 解説パネル(2024.4.17 撮影)

 もう一つの年縞からのデータは地磁気に関するものである。地球の北は自転軸の指し示す方向「北極」であるが、磁石の指し示す方向はこの方向とは完全に一致しておらず、「北磁極」と呼ばれる。

 現代はこの両「北」が近い位置にあるが、これが当たり前ということではなくて、過去には「北磁極」が「南極」の方向を向いていたことがあり、これまでに少なくとも11回の地磁気逆転が起きているとされる。

 こうした地磁気の変化は主に火山岩を用いた岩石磁気測定で求められてきた(2020.9.18 公開当ブログ)が、水月湖の年縞に含まれる堆積物の中には磁性を帯びた天然磁石である磁鉄鉱があり、これが過去の地磁気方向に向いたまま固着されているはずだとの考えに基づいて、測定が行われた。

 その結果、これまでも知られていた地磁気の変化(ランシャンエクスカーション)については、より詳細な変化が、またこれとは別の新しい変化(ポストランシャンエクスカーション)が発見されている。

 長時間の見学を終えて、階下に降りてきたところで学芸員がいらしたので、いくつか質問をした後で、「ところでミランコビッチさんの名著はどこにあるのですか」と聞くと、2階の展示室の最後のほうにありますよとのこと。

 迂闊にも見過ごしていたのであった。再び2階に戻り見学の後撮影したのが、先に紹介した写真である。思いのほか大判の本であった。

 1階に下りてくると、妻が、いいお土産があったので買った!と見せてくれたのは年縞模様のネクタイであった。現役のサラリーマン時代の後半は、当時の社長の考えもあり、皆ノーネクタイで過ごした。また、定年後はネクタイをする場面がなく、もうずいぶん長い間ネクタイを買うこともなかったので、少し驚いたが、なかなかいい記念になった。

 妻は、ネクタイを買った後、そのデザインの基になったという5万年前の年縞の模様を写真に撮ったのだと後で見せてくれた。

お土産の年縞ネクタイ

ネクタイのデザインの元になった5万年前の年縞(2024.4.17 妻撮影)

 ところで、まだ書いていない大切なことがある。それは、この年縞博物館の目玉ともいえる実物の「年縞」のことで、博物館が「年縞のステンドグラス」と呼んでいるものである。

 どのようにして、ボーリング採取した泥のサンプルからこうした「美しい」とも思える展示品を作成したのか、来る前から関心を持っていた。

 これについて中川 毅氏は解説書の中で次のように述べている。

 「年縞の博物館を作るからには、年縞を最高の状態で展示したかった。なにしろ、年縞に特化した博物館など世界のどこにも存在しない。・・・
 もし年縞博物館の何かが『そのために足を運ぶ』ほどの魅力を持つとすれば、それは数式でもグラフでも写真でもなく、本物の年縞以外にありえない。・・・」

 スミソニアン博物館も成しえなかった、この本物の年縞を展示可能にしたのは、ドイツのポツダム地球科学研究センターの技術者ミヒャエル・ケーラー氏であったという。

 その詳細をここで書くことは控えたいと思う。ぜひ現地の展示でその内容を確認していただきたいと思うからである。

 「年縞のステンドグラス」はその名の通り、背後からの照明を受けて透過してくる光の縞模様がとても美しい。光が透過するまで年縞は薄く加工され、2枚のガラス板の間にサンドイッチされているからであった。

 中川 毅氏の狙いは的中したようである。博物館の入り口には、次の写真に示すパネルが誇らしげに置かれていた。 

福井県年縞博物館の入り口で見た来館者25万人達成のパネル(2024.4.17 撮影)


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夢3題(1)

2024-04-19 00:00:00 | 日記
 学生時代最後の年に、大阪で万博があり世界中から未来の新技術に関する展示があって、その中には動く歩道、モノレール、リニアモーターカー、電気自転車、電気自動車、テレビ電話、携帯電話、缶コーヒー、ファミリーレストラン、ケンタッキーフライドチキンなどの製品やサービスが初めて登場した。

 あれから54年、当時は夢の技術と思われていたこれらの技術はすべて実現し、製品化や実施運用が行われている。

 この内、リニアモーターカーについては、すでに中国で短距離の磁気浮上式が運行しているが、未だ日本での本格的な商用運転は行われていないので、その実現が期待される。

 このような、新しい技術や国家プロジェクトに関して、私が楽しみにしているものが3つある。

 リニアモーターカーと核融合発電、そして技術的なブレークスルーは特にないが、新幹線の敦賀から大阪への延伸である。この3つの話題はいわば私の夢であって、実現するのを見届けたい気がしている。

 北陸新幹線の大阪までの延伸はまだだいぶ先になるが、途中敦賀までは先月、2024年3月16日に営業が開始されたので、1か月が過ぎて、少し落ち着いたところで、乗ってみることにした。ただ新幹線に乗ったり、車窓から景色を眺めるだけではもったいないので、以前から興味を持っていた、福井県の恐竜博物館と、若狭湾・三方五湖のひとつの水月湖から採取した湖底の堆積物が展示されている年縞博物館を訪れることにした。

 実は、福井県と軽井沢町とはご縁があって、相互発展に向け、令和4年3月17日に「相互発展に向けた連携協定」を結んでいる。 次のようである。



連携協定の内容(上)と締結式に臨んだ杉本達治福井県知事〈右から2人目〉と藤巻 進軽井沢町長〈同3人目:当時〉(写真下、共に福井県HPより)

 これは、旧軽井沢にある日本人初の別荘(1893年建築)を建てた八田裕二郎氏が福井市の出身であったことと、軽井沢の観光名所の一つになっている、旧三笠ホテル(1905年建築)を建てた山本直良の父が福井県出身であったことによるものとされる。

 新幹線で福井県と軽井沢町とが直接結ばれることになるのを機に、軽井沢駅の構内で、昨年、福井フェアが行われた。この時、福井県内各地の観光案内や物産展が行われた。

 そこで配布されたパンフレットの一つに福井県の代表的な観光施設として紹介されていたのが「恐竜博物館」、「一乗谷朝倉氏遺跡博物館」、「年縞博物館」であった。一乗谷朝倉氏遺跡と現地の(旧)博物館には以前車で行ったことがあるので(2018.10.19 公開当ブログ)、今回は残る2つの博物館に行くことにした。



軽井沢駅構内で開催された福井フェアのパンフレット

 軽井沢からは敦賀行の直通も運行されているが、こちらは上下とも1日1本に限られているので、通常は「あさま」か「はくたか」で長野駅に行き、ここで「かがやき」乗り換えることになる。今回の乗り継ぎ時刻は到着が08:35で、発車が08:39と乗り継ぎ時間は4分となかなか便利である。

 今回もそのようにして、まず長野駅に向かった。指定席券の座席を見ると、「あさま」と「かがやき」の号車番号は共に同じで、駅員さんが乗り継ぎに便利なように選んでくれたのだと、その配慮に感謝していた。

 ところが、我々の乗った「あさま」は、途中佐久平で接続している小海線が遅延していたため、約3分ほど遅れて発車した。長野着は、少し遅れを取り戻して2分遅れになるとのアナウンスがあった。これでも同じ号車間の移動なので、乗り継ぎには問題はなさそうである。

 長野駅には車内アナウンス通り2分遅れで到着し、ホッとして後から追いかけてくる「かがやき」が同じホームの反対側に来るのを待った。しかし、先ほど車内でアナウンスがあった「かがやき」の発車ホーム番線を思い出して確認すると、それは隣のホームからの発車だと気がついた。一度エスカレーターで上の階に上がって、隣のホームに移動しなければならない。

 やや焦りながら、隣のホームにエスカレータで下っていくと、「かがやき」がすでに到着していて、乗客が下りてくるところであった。危ないところであったが、無事「かがやき」の座席に着くことができた。

 乗車券と特急券の発券時、駅員が選んでくれた乗り継ぎの2本の列車の号車番号が同じだったのは、移動しやすいからというよりも、エスカレータに近いものであったことに、後になって気がついたのであった。

 行きはこの「かがやき」に乗り「福井駅」で下車した。目指す「恐竜博物館」には「えちぜん鉄道」に乗り換えて行くことを事前に調べていたので、到着した福井駅ホームでこの「えちぜん鉄道」への乗り換え案内表示を探したが見当たらず、次のような手作り感のある乗り換え口案内があるのみである。


北陸新幹線「福井駅」ホームにある乗り換え口案内表示(2024.4.16 撮影)

 指示通り、ホーム前方に行って、下の階に下りるとすぐ右側に乗り換え改札口があったが、これはJR在来線へのもので、やはり周辺には「えちぜん鉄道」の案内表示はない。ホームに出ていた案内表示はこの在来線への乗り換え口のことで、「えちぜん鉄道」のことを指しているのではないことが分かった。

 職員にたずねると、えちぜん鉄道の乗り場は、改札口を出て左の方に行ってくださいとのことであった。

 JRの建物を出て、左の方に進むとに「えちぜん鉄道」の建物と高架上にあるホームと車両が見えている。改札口は、Suicaカードが使えそうにないので、乗車券売り場に行くと、「恐竜博物館」行きの列車とバスの乗車券がセットになった1日乗車券があると判ったので、これを購入して終点「勝山駅」に向かった。1両編成の車内にいた乗客のほとんどは博物館に行く観光客で、中には外国人も1組混じっていたし、車いす利用者も含まれていた。


えちぜん鉄道の駅窓口で販売している恐竜博物館行きの1日乗車券

 駅から博物館までは直通バスが運行されていて、我々が乗ってきた列車からの客で席はすべて埋まり、数名の立ち客も出た。博物館までは約12分ほどの乗車で、途中、先ほど列車内からも見えていた銀色のドーム型の大きな建物が近づいてくる。これが「恐竜博物館」のメイン会場となるものであった。


直通バスの車窓から見える「恐竜博物館」の大きなドーム(2024.4.16 撮影)

 「恐竜博物館」の詳細については別途このブログで紹介させていただく予定なので割愛するが、この立派な施設では驚くほど多くの恐竜化石の実物やレプリカ、そして精巧に作られた実物大の動く恐竜模型などを見学することができた。


「恐竜博物館」入り口付近のパノラマ写真(2024.4.16 撮影)

 恐竜博物館の見学の後、再び福井駅にもどり、この日の宿は三方五湖の一つ、水月湖湖畔に予約していたので、新幹線「つるぎ」で「敦賀駅」まで行き、ここでJR小浜線に乗り換えて「三方駅」で下車、宿に向かった。

 宿までは、バスの便もあるが、本数が限られているため、夕食や入浴時間のことを考えるとタクシー利用になる。あらかじめ宿に問い合わせて教えていただいていたので、敦賀駅を出るとすぐにタクシーの予約は済ませておいた。

 翌日は、先ず宿のすぐそばから出る水月湖の遊覧船に乗り、水月湖と、これにつながる菅湖の遊覧と周囲の山に咲くヤマザクラの花や春の芽吹きなどの美しい景色を楽しんだ。


朝の水月湖(2024.4.17 撮影)

 船が走り出すと、2階席で受ける風は思いのほか冷たく、船員が操舵室のすぐ後ろの風の来ない場所に折りたたみ椅子を用意して、そこに座るようにと勧めてくれた。


遊覧船から見える湖岸の木々(湖の傍にはこの地方の産品である梅の木が見える 2024.4.17 撮影)
 
 途中、この後行く「年縞博物館」に展示されているはずの年縞をボーリング掘削した地点近くを通過した。この辺りが水月湖の水深が一番深い場所であるという。 


水月湖遊覧船のルートと、年縞採取位置などを示す地図(遊覧船HPより)
 
 遊覧船を下りて宿にもどり、宿の主人の好意で年縞博物館まで車で送っていただいた。前日フロントでバスの便を確認していたところ、本数が少なく不便をかけるとして、宿の車で年縞博物館まで送ってもらえることになっていたのであった。

 訪ねた年縞博物館の展示は予想以上に素晴らしいものであった。特に7万年分45mに及ぶ実物サンプルは、一体どのようにして作ったのだろうかと、来る前から興味を持っていたのであったが、現地で説明パネルを読み、納得するとともにその努力と技術に感心した。

 この年縞博物館の詳細についても、また別途紹介させていただこうと思う。

 博物館見学の後、少し離れた場所にある食堂で昼食を済ませて敦賀駅に向かった。実は、年縞博物館には併設のカフェがあり、ここで特別なランチやデザートが提供されることとを事前に知っていたので、期待していたのであったが、この日カフェは休業であった。博物館そのものはオープンしているのに何故と思うのだが仕方ない。平日は入場者数が少ないからだろう。



 旅の疲れもあり、昼食後はこの食堂でタクシーを呼んでもらおうとしたが、車は出払っていて1時間ほど待たなければならないと判り、食堂の主人が三方駅まで車で送ってくださることになった。この日2回目の地元の方のご好意であった。

 敦賀には、若いころ大阪に住んでいたので、海水浴に来たことがあった。しかし、市と市街地についてはほとんど何も知らないでいた。

 今回、北陸新幹線のターミナル駅ができた敦賀市街地を見てみようと思い、敦賀駅から徒歩圏内にある「氣比(けひ)神宮」に行くことにして歩き始めた。駅前からまっすぐに延びる無電柱化された道路はとても道幅が広い。これはしばらく行って、右に曲がってからも同様で、神宮まで続く道の両側にはアーケードのある商店街が続き、その前には駐車スペースが設けられている。このような配置はこれまで見たことが無かった。

氣比神宮に続く道路の両側の商店街とその前の駐車スペース(2024.4.17 撮影)


氣比神宮とその前の広い道路のパノラマ写真(2024.4.17 撮影)


氣比神宮1/2(2024.4.17 撮影)

氣比神宮2/2(2024.4.17 撮影)

 道路からも目立っているこの氣比神宮の大鳥居は、江戸時代前期の正保2年(1645年)の造営で、高さ36尺(10.93メートル)・柱間24尺(7.29メートル)である。これは、佐渡の旧神領地の鳥居ケ原から奉納された榁(むろ)の大木を使用して、建てられたと伝えられる。

 社殿のほとんどは第二次世界大戦中の空襲で焼失したため、現在の主要社殿は戦後の再建になるが、この鳥居は空襲の被害を免れており、国の重要文化財に指定されていて、奈良の春日大社・広島の厳島神社の大鳥居とともに「日本三大鳥居」にも数えられているという。

 境内社の角鹿(つぬが)神社は「敦賀」の地名の由来であるとされ、祭神の都怒我阿羅斯等命(つぬがあらしとのみこと)像は敦賀駅前に見られる。

氣比神宮境内社の角鹿(つぬが)神社と解説板(2024.4.17 撮影)

敦賀駅前に立つ都怒我阿羅斯等命〈つぬがあらしとのみこと〉像(2024.4.17撮影)

 また、駅前から氣比神宮に続く道路沿いには松本零士氏の漫画作品をモチーフにしたブロンズ像が多数配置されていて目についていた。

 これらは、敦賀港開港100周年を記念して、市のイメージである「科学都市」「港」「駅」と敦賀市の将来像を重ね合わせて「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」のモニュメントを1999年に設置したものという。

松本零士モニュメントMAPと解説板(2024.4.17 撮影)

 
駅から続く道路沿いに設置された松本零士モニュメントのひとつ(2024.4.17 撮影)

 これらの解説板やモニュメントは、かつてこの敦賀がヨーロッパへの玄関口であったことを思い出させてくれてる。

 「時刻表歴史館」のホームページには敦賀について、次のような記述がある。この最短ルートを利用して、与謝野晶子やオリンピック選手の金栗四三もフランスに渡っている。

 「欧州への旅路の序章・欧亜連絡列車 
 鉄道も国際化した20世紀『毎週金曜午後8時25分東京発金ヶ崎(現・敦賀港)ゆき』
 船会社の代理店発行のこの時刻表には、こんな列車が紹介されています。正確には、神戸行き急行に一等寝台車を併結し、米原でこの車両を分離して敦賀に向かいました。乗客は、敦賀からの大阪商船ウラジオストック航路に乗り継ぎ、遥か欧州を目指す旅行客。大戦前の国際連絡華やかなりし時代を象徴する列車です。・・・
 
 欧亜連絡国際列車は、1912年(明45)に運転開始。その後第一次世界大戦やロシア革命で、欧亜連絡が途絶状態になったことで一時期消滅しましたが、昭和戦前に復活し、再び激動の時代を走りました。 」

 近年、敦賀は先の解説板にあるように、科学都市としても発展を遂げようとしている。駅前にある敦賀市観光図には、敦賀半島の先端部にある「敦賀原子力発電所」と「美浜原子力発電所」の名前は見当たらないが、3つの原子力関連施設、「日本原子力発電(株)敦賀原子力館」、「ふげん」、「もんじゅ」の名前が見られる。


敦賀駅前に設置された敦賀市観光図の一部(北が下に描かれている。 2024.4.17 撮影)

 さて、北陸新幹線のターミナルとなった敦賀、これからどのような未来が待ち受けているのであろうか。
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確定申告と会計責任者

2024-04-12 00:00:00 | 日記
 毎年2月になると、落ち着かなくなる。そろそろ確定申告の準備をしなければならなくなるからである。

 年金生活の私の場合、確定申告が必要なのは、収入が多いからではなく、厚生年金と企業年金の2つの年金を受け取っているからであるが、数年前にショップを開いてからは、青色申告もこれに加わった。

 地元の知人から商工会への加入を勧められ、これに従って加入したが、お陰で3月になるといつもこの商工会の職員に指導を受けながら、青色申告と確定申告の両方を一度に済ますことができるようになり、それまでは少し離れた税務署に行って、行列に並びながら確定申告をしていたのに比べると、とても楽になった。

 確定申告の方は、年金受給先から送られてくる源泉徴収票のほかに、個人加入と公的な保険料の支払い証明書やふるさと納税証明書、それに時には医療費の支払調書などを用意すれば済むが、青色申告の方は仕入れ、売上、在庫管理や日々の経費などの計算がなかなか面倒な作業で、日常こまめに行っていればもちろんそれでいいのであるが、どうしても漏れ落ちがあるのでその確認作業が必要になる。

 それでも、日々会計ソフトに入力し、同時に帳簿にも記入しているので、3月には何とかこれらを整理して、商工会で申告を済ませている。

 ところが、昨年からもう一つ会計業務が増えた。地元の区会で会計担当を仰せつかったのである。

 定年後は多少なりとも地元に貢献しなければとの思いがあったので、請われるままに区会の役員を引き受けたのであったが、途中から思いがけず会計担当になってしまった。

 会計としての仕事は結構多い。まずは引き継ぎ時に、現金と預金通帳を前任者から受け取るが、区民総会で新年度の予算が決定されると、そこから各部会に定められた活動資金を支給する。

 続いて、区費の集金が始まる。当区会の場合、個別世帯からの一般区費のほかに別荘や商店・ホテル・マンション・保養所などからも特別区費をいただくシステムになっているので、両方の集金作業になる。

 一般区費は、組織が班と組に分かれているので、組長さんが個別世帯から領収書と引き換えに受領した区費と領収書の半券とを班長さんに届け、班長さんが取りまとめて会計である私に届けてくれる。

 会計担当としては、受け取った区費と領収書の半券と、最初に渡してあった領収書の未使用分があればそれらを突き合わせることで、区会に加入している区民の区費の支払い状況を正確に把握できるので、作業は完了する。ちなみに当区会では、独居高齢者に対しては、区費免除の制度を設けている。

 特別区費の内、別荘と商店については、有志を募って集金担当者を複数名決めて行っている。集金方法は一般区費と同じで、会計が用意した領収書と引き換えに特別区費を支払っていただき、集金担当者が現金と領収書の半券、未使用領収書があればそれらを会計に届ける方式である。

 ホテル・マンション・保養所などの特別区費は、銀行口座への直接振り込みをしていただいているので、集金作業はないが、毎年度始めごとに郵送で請求書をお送りしている。

 区の主な収入は、これら区費のほか、町と県からの助成金で成り立っている。一方、支出の方は細分化されていて、一括支給している各部会活動費のほかに、発生都度支払っている部会活動費と、主に区長と区役員が使用する諸経費である。一括支給している部会では、予算立案をしていただき、独自に会計処理をして、会計監査を行った結果を報告していただいている。

 年度末になると、区会会計監査が行われ、使途内容や会計処理計算に誤りや不正がないかどうか検証作業が行われ、その結果は区民総会で決算報告と会計監査報告として報告され、承認を得るシステムになっている。

 区会の会計年度はこれまでずっとカレンダー年の1月ー12月までとしてきたが、昨年から4月ー3月に変更になった。これは、部会の中には町や上部団体から別途助成金を得ているものがあり、こうしたところの会計年度は通常4月ー3月になっているため合わせてほしいとの要望が出ていたからである。

 こうして、区会の会計年度が4月ー3月になったので、3月末に会計決算を行い、4月に行われる総会までに会計監査を済ませる必要が出てきた。

 今年の例では、3月12日予算会議、3月末会計決算、4月6日会計監査、4月13日区民総会という、会計担当にとってはやや慌ただしいスケジュールになった。

 サラリーマン生活での経験では、会社会計は日々決算を行っていたこともあるので、商工会から紹介されて使っているショップ用の会計ソフトに倣って、区会用にパソコンで簡単なソフトを作って対応することにした。

 日々の出納帳に入力すると、会計監査や総会で使用する月度ごとの収支報告書、会計決算報告書と次年度予算書に反映されるようにしたので、3月末に最後の記帳を行うと、予算審議結果と合わせて、総会に必要な書類が同時に出来上がっている仕組みである。

 あとは、監査役に短時間でスムーズに点検していただけるように、普段からすべての現金の出入りに関しては領収書に番号を付けて、出納帳の備考欄にも対応する番号を記入している。銀行口座への入出金については、基本預金通帳で確認していていただくが、口座振込の特別区費に関しては、別途入金明細一覧表を作成している。

 このように、過去から綿々と続けられてきているシステムの延長の作業なので、様々な知恵が注がれ、見直しや修正が取り入れられて、会計担当者が交代しても正しい運用ができるような仕組みが出来上がってきている。

 それでも、時代と共に、過去の常識なり慣習が不都合であると考えられることも発生するので、今後も随時見直し作業は必要である。

 さて、地方の小さな自治会組織の話はさておき、いま国政では自民党の派閥会計処理で大きな問題が起きている。もちろん自民党の安倍派を中心とする、派閥のパーティー券収入のキックバック問題である。

 派閥がパーティーを開催し集めたお金の内、議員がノルマを超えて集めたパーティー券収入が、各議員にキックバックされ、その金額が派閥側でも議員側でも政治資金報告書に記載されず、裏金として運用されていた問題である。

 2023年11月に表面化したこの問題で、これまで3名の会計担当責任者の起訴、3名の議員の逮捕・起訴、4名の秘書の逮捕・起訴が行われているが、これに関し、1月19日の報道は次のようである。

 「NHK 2024年1月19日 22時04分 
 自民党の派閥の政治資金パーティーをめぐる事件で、東京地検特捜部は政治資金規正法違反の虚偽記載の罪で、安倍派と二階派の会計責任者を在宅起訴し、岸田派の元会計責任者を略式起訴しました。
 また、安倍派から5000万円を超えるキックバックを受けたとされる大野泰正参議院議員を在宅起訴し、谷川弥一衆議院議員らを略式起訴しました。
 一方、安倍派の幹部7人や二階元幹事長など派閥の幹部については、会計責任者との共謀は認められないとして、立件しない判断をしました。」

 
政治資金パーティーをめぐる事件で、起訴された会計責任者と議員、議員秘書

 これに続いて逮捕・起訴に至らなかったものの、派閥幹部や議員が政治責任を問われ、政治倫理審査会で弁明する様子がTV中継された。

 先ず、2月29日には、岸田文雄総理大臣と、二階派事務総長、武田良太元総務大臣が衆院政治倫理審査会に出席した。
 続いて翌3月1日に開催された衆院政治倫理審査会には、安倍派事務総長経験者である、西村康稔前経済産業大臣、松野博一前官房長官、塩谷 立元文部科学大臣、高木 毅前国会対策委員長が出席した。
 
 参院においては、3月14日に安倍派5人衆の1人とされる、世耕弘成前参議院幹事長、同じく安倍派の西田昌司議員、橋本聖子元オリンピック・パラリンピック担当大臣が政治倫理審査会に出席した。

 さらに、3月18日には再び衆院において政治倫理審査会が開かれ、安倍派事務総長経験者である下村博文元政務調査会長が出席している。

 加えて、国民の政治不信を招いたとして、自民党から、4月になって関係者の処分が発表された。これを報じる記事と、処分対象者は次のようである。

 「自民党の茂木敏充幹事長は1日の記者会見で、自民派閥の政治資金パーティー裏金事件を受けた党内処分について、党紀委員会による処分対象を39人とすると発表した。内訳は安倍、二階両派の現職議員38人と元職員1人。2018~22年の5年間の政治資金収支報告書の不記載額が500万円未満で、派閥幹部でなかった議員については、幹事長による注意にとどめる。(4月1日 毎日新聞報道より)」



自民党党紀委員会による処分対象者39人の氏名、不記載額、処分内容(4月4日発表)

 ひるがえって、区会会計のことを考えてみると、その規模は誠に小さく、国政レベルの話とは比べものにならないが、その精神は変わるところがない。

 要は、会計責任者は、自らは資金の入りと出とを正確に把握し、その過程の中に不正な要素が含まれていないか、計算に誤りがないかどうかをチェックし、正しい収支内容を報告する義務を負っているのである。

 また会計責任者は、収入を担当する者に対しては、集金した金額を偽って報告し、不正に着服していないかを確認する義務があり、こうした不正が起きるような、内在する仕組みがないか常に注意を払う必要がある。

 支出に関しても同様で、支出を担当する者に対し、その使途が正しいものであるか、キックバックなどが介在した不正な支出になっていないかをチェックする義務がある。

 こうした会計内容については、会計監査が行われることは上述したとおりである。

 今回、自民党の3名の会計責任者が起訴されたわけであるが、一部の議員を除いて、一般の議員はもとより、派閥の幹部に対しても、会計責任者との共謀は認められないというのが、検察の見解である。

 検察側としては、法律の裏付けのない起訴はできない。ある検察官の意見だが、「両手を縛られた状態でどうしたらいいというのか・・・」と発言しているという。政治資金規正法がザル法といわれている所以である。

 しかし、多くの国民はこれでは納得していないことは明白で、そうした民意を受けて、法律の穴を埋める意味で、今回の自民党内の処分は行われたし、岸田首相は今後政治資金規正法の改正を行うと国民に約束している。

 その改正のポイントは連座制と企業・団体献金の禁止とされているが、是非実現してもらいたい。

 一方、今回のパーティー券収入のうちの議員側がノルマを超えて販売した分についての、収支報告書への「不記載」と、「キックバック」、議員側の「中抜き」といった不正に関しては、我々自治会で採用している前述の方式を採用していれば防げたのではないか。もちろんその気がなければどうにもならないが。

 地方のまことに小さな自治体の会計を預かっているが、貴重な区民からの区費の取り扱いに際しては、細心の注意を払い取り扱う仕組みができているのに比べて、国政レベルでの仕組みが何と杜撰なものであるかに改めて関心を持たざるを得ない状況である。



 
 

 

 
 

 

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花粉症

2024-04-05 00:00:00 | 日記
 子どもの頃からアレルギーには縁がないと思っていて、成人後も、周囲で花粉症を発症する人が出てきても、自分には関係のないことだと思っていたが、違っていた。

 広島・三次での単身赴任生活を終え、再び神奈川県の自宅に戻り、東京への電車通勤が始まったのは、1997年のことであった。

 自宅からはバスで最寄り駅まで行くのであったが、ある朝、混雑するバスの車内で吊革につかまっていると、突然水のようなサラサラの鼻水がドッと出てきた。それまでに経験したことの無いような感覚であったが、これが花粉症の始まりであった。

 勤務先の飯田橋のオフィスに着いてからも、この鼻水は止まらず、瞬く間にティッシュペーパーの箱が空になってしまい、その頃には鼻が赤くなり、ヒリヒリしてきていた。

 近くの薬局にティッシュペーパーを買いに行ったが、店員は私の赤くなった鼻に気づいたのか、少し高級なカシミヤタッチのティッシュペーパーを勧めてくれた。

 こうして、その後現在まで続く花粉症との戦いが始まった。この最初の日のことは今でもよく覚えているが、その後どのように推移し、対処してきたのか、今ではよく思い出せない。とにかくこの花粉症で医者に行って相談するということはなかった。医者嫌いということではないのだが。

 飯田橋での勤務はそう長く続かず、翌1998年には新潟・上越に再び転勤になって、それまでとは全く異質な仕事をすることになった。目まぐるしく環境が変化していたからだと思うが、この後上越で過ごした12年間ほどについても、花粉症症状にどう対処してきたのか記憶はない。症状が軽減していたのかもしれない。

 花粉症のことで医者に相談に出かけたのは、ずっと後になってからで、上越から、東京・浅草橋に転勤してからのことで2010年頃のことであった。症状が強くなり、我慢できなくなってきたからだろうと思う。

 ここで、初めて花粉症の治療薬を処方されて飲み始めた。しかし、この薬の影響は強く、飲んでしばらくすると朦朧となり、全くと言っていいほど仕事にならないことが判った。

 余りのことに、再び医師に相談に行き、その結果、薬の種類を変えていただいた。

 新しい薬は眠気も起きず、花粉症の症状も抑えることができたので、その後ずっとこの薬を処方してもらうことにした。浅草橋の勤務先で定年を迎え、軽井沢に定住するようになってからも、現在まで同種の薬を飲み続けている。

 ここ数年は、それまでは春先からゴールデンウィーク頃まで飲んでいた薬だが、秋にも症状が出るようになったので、年に2回、数か月間づつ、薬のお世話になるようになった。飲み薬に加えて、目薬・喉スプレー・鼻スプレーも常備して対応している。 

 この花粉症の主原因はスギ花粉とされていて、TVの報道番組などでもスギ花粉の飛散情報が出されていることは、ご承知の通りかと思うが、一向に有効な対策が打たれていないと感じていた。

 我が家のお茶の間会談では、これは国と製薬会社の陰謀に違いなく、国会議員には全員花粉症の人を選出して、この苦しみを知った上で、国として有効な対策を打ってもらわなければならないのではないか、といった過激な意見が出るようになった。妻ももちろん花粉症を発症している。

 そうした中、我々の秘密会談が盗聴されていたのか、昨年からだったと思うが、購読紙のニュースにも、政府が花粉症対策に乗り出したという記事が出るようになった。

 内閣官房ホームページを見ると、「花粉症に関する関係閣僚会議」のページがあり、次のように書かれている。

 「花粉症について、適切な実態把握を行うとともに、発生源対策や飛散対策、予防・治療法の充実等に、関係行政機関の緊密な連携の下、政府一体となって取り組むため、『花粉症に関する関係閣僚会議』を開催しています。 」

 とあり、いよいよ政府も本格的に花粉症対策に乗り出したようで、この閣僚会議は令和5年4月14日に第1回を開催し、現在令和6年2月1日の第4回会議を終えたところである。

 出席者は第1回が:岸田内閣総理大臣、松野内閣官房長官、野村農林水産大臣、西村環境大臣、永岡文部科学大臣、加藤厚生労働大臣、西村経済産業大臣、斉藤国土交通大臣、木原内閣官房副長官、磯﨑内閣官房副長官、栗生内閣官房副長官、藤井内閣官房副長官補

であったが、その後昨年末に発覚した派閥パーティー券収入の「キックバック問題」により、閣僚が次々と交替しており、第4回では、一堂に会することが困難になったためか、持ち回り開催となっている。

 第1回会議(2023.4.14)では、加藤厚生労働大臣から、次のような現状報告があった。

 「花粉症の現状について、関係学会の調査によると、花粉症の有病率は、2019年時点では、花粉症全体で42.5%、スギ花粉症で38.8%である。いずれも 10年間で10%以上増加している。 また、花粉症を含むアレルギー性鼻炎に係る医療費の推計は、保険診療で約3,600億円、市販薬で約400 億円となっている。・・・」

 また、野村農林水産大臣からは、次の発言があった。

 「我が国のスギ人工林の現状について、スギ花粉の発生源となるスギ人工林の面積は、全国で約440万ha であり、伐採の対象となる50年生を超えるものが5割以上を占 めている。これまでの花粉発生源対策について、花粉の少ない多様で健全な森林に転換するため、スギ人工林等の伐採・利用、花粉の少ない苗木等による植替えなどを行うとともに、スギ花粉の発生を抑えるため、スギ花粉飛散防止剤の開発支援 を行っている。・・・」

 他の大臣からの発言の後、最後に岸田首相から次の発言があった。

 「花粉症は、これまで長い間、各省庁で取組が行われて来たが、いまだ多くの国民を悩ませ続けている、我が国の社会問題と言えるもの。・・・ 以下の取組を対策の3本柱として、来年の飛散期を見据えた施策から今後10年を視野に入れた施策まで、対策の全体像を取りまとめてほしい。
 第1に、官民を通じたスギの伐採加速化計画の策定・実行、外国材から国内材への転換による
  需要拡大、花粉 の少ない健全な森林への転換などの発生源対策
 第2に、スーパーコンピュータやAIを活用した花粉飛散予報の抜本的改善や予報内容の充実、
  飛散防止剤の実用化などの飛散対策
 第3に、舌下免疫療法など根治療法の普及に向けた環境整備、花粉症対策製品等の開発・普及
  などの曝露(ばくろ)発症対策。 ・・・ 」

 第2回会議(2023.5.30)では、前回の会議で岸田首相が指示した3つの対策について各大臣から対応案が示された。
 野村農林水産大臣からは、
 1.発生源対策として、10年後の令和15年度には花粉発生源となるスギ人工林の431万 ha
   を約2割減少させることを目指して、取組を集中的に 推進する。・・・将来的には花粉発生
   量の半減を目指し、「花粉発生源スギ人工林減少推進計画」を速やかに策定し、着実に
   実行していく。・・・
   スギ苗木全体に占める花粉の少ない苗木の生産割合を現状の5割から9割以上に引 き上
   げる。・・・
 2.飛散対策としては、スギ花粉飛散防止剤の開発を促進し、5年後に実用化の目処を立て、
   速やかに実行することを目指していく。
 3.発症・曝露対策としては、花粉症の症状緩和を目指し、農研機構が開発したスギ花粉米に
   ついて、今後、医薬品としての実用化に向け、更なる臨床研究等を実施していく。

 加藤厚生労働大臣からは、
 1.発症・曝露対策として、花粉症の治療法のうち、特に対症療法では効果が不十分な方に
   対して根治が期待できるアレルゲン免疫療法に関する適切な情報提供を推進す る。
   また、アレルゲン免疫療法のうち、多くの方が選択されている舌下免疫療法について、
   年間の治療薬供給量を、現時点で同治療法を活用することが見込まれる患者の数も見越し
   て、今後5年以内に、現在の約25万人分から約100万人分へと増加させるべく、 治療薬
   の増産に向けた要請を行うとともに、体制整備への支援を実施していく。

 といった発言があり、これに対して岸田首相が、最後に次のように締めくくった。

 「花粉症は、これまで長い間、課題は指摘されて来たが、実効的な対策が行われず、未だ多くの国民を悩ませ続けている、我が国の社会問題と言えるもの。一朝一夕で解決す るものではなく、しっかりと将来を見据えて取組を着実に実行することが必要。 
 この社会問題に対応するため、まず第一に、発生源対策を強力に進める。我が国は、戦 時中に荒廃した森林について、国土保全や戦後の旺盛な木材需要に応える観点から、スギ人工林を造成して来たが、現在は花粉発生源の一つとなってしまっている。野村大臣においては、このスギ人工林について、林野庁の総力を挙げて、伐採・植え替え・利用の取組を抜本的・集中的に、加速してほしい。
 第二に、飛散対策として、林野庁・環境省で全国調査を実施しつつ、気象庁においてス ーパーコンピューターやAIを活用し、民間事業者による花粉飛散量の予測の精度向 上を支援する。
 そして第三に、発症・曝露対策として、アレルゲン免疫療法の治療薬の増産・治療環境 整備を進めるとともに、日々の予防行動について国民の皆様にしっかりと伝えていく。」

 また、この第2回会議では3本柱について、政府一丸となって取り組むとして、それぞれに対する工程表が示された。次のようである。



    
花粉症対策の3本柱の工程表(内閣官房 「花粉症に関する関係閣僚会議(第2回)」資料2から引用)

 花粉症への対策は、我々国民としてできることは、すでに取り組んできている。政府に最も期待したいのは、こうした対処をしなくてもよい環境づくりで、発生源対策ではないかと思う。これは国民レベルや民間レベルでは対処できないからである。

 その点について見ると、発生源対策には2つあって、1つは現在あるスギ人工林の伐採である。要は発生源を直ちに断ち切る方策である。我々としてはまずこれを望みたい。
 2つ目は長期的な展望に立ち、花粉の少ないスギに植え替える方策である。

 しかし、2本目と3本目の柱の工程表が3年計画であるのに対し、1本目の柱である発生源対策は令和15年度までと、10年計画になっていて、その目標を見ると、伐採によりスギ人工林を約2割減少させるとあり、将来的には花粉発生量の半減を目指すとなっている。

 改めて、この部分の対策について見ると、<現状>と<今後の取り組み>についての解説は次のようであり、伐採と花粉の少ないスギへの植え替えを合わせて、約30年後に花粉発生量を半減させると言う計画である。

 「<現状> これまでも、花粉発生源対策として、スギ人工林を伐採し、花粉の少ないスギ苗木や他樹種による植替え等を進めてきた。 花粉の少ないスギ苗木の生産量は10年前の約140万本から10 倍の約1,500万本へと飛躍的に伸び、全スギ苗木の生産本数のうち約5割を占めるまでに増加している。しかしながら、花粉の少ないスギ苗木による植替えは、これまでの累計でも約4万 haと、未だ全スギ人工林面積の1%以下の水準である。このため、花粉の少ないスギ苗木の更なる生産拡大が必要である。 また、人口がさらに減少していく中で、伐採や植替えを行うために は、生産性の向上とともに林業労働力の確保が課題である。 加えて、木材需要の約4割を占める建築分野において、建築基準の合理化、中・大規模の木造建築物プロジェクトや地域材を活用した住 宅整備の促進、輸出の促進などに取り組んで来たところであるが、スギ材需要の一層の拡大に向けた環境整備が必要である。 
<今後の取組> 10年後の令和15年度(2033年度)には花粉の発生源となるスギ人工林を前述の431万haから約2割減少させることを目指して、以下に掲げる取組を集中的に推進する。これらの取組により、スギ人工林由来の花粉が約2割減少すれば、例えば、花粉量の多かった今シー ズンであっても平年並みの水準まで花粉量を減少させる効果が期待できる。また、将来的(約30年後)には、継続した取組により花粉発 生量の半減を目指す。 」

 もっと花粉症に苦しんでいる国会議員の比率を増やさなければならないのではと感じる今回の「政府一体となった取り組み」である。

 この中でも取り上げられているが、花粉の少ないスギというものが見いだされて、植林されている。これは、平成4年に富山県の神社に植わっていたスギの中から初めて発見されたものだという。その後の研究で、スギの中には無花粉に関連する遺伝子を持つものが自然の中で一定の割合で存在することが分かり、また、その遺伝子を持つもの同士を人工交配させると、無花粉スギが生まれることがわかったという。


 上の写真では、明らかに花粉の少ない様子がわかる。こうしたスギ品種の割合を増やしていくことで、スギ花粉症の発生を根本から改善することを期待したいが、こうした遺伝子をもつスギ苗木の生産量は次図のようであり、急速に増えているように見えるが、絶対量でみると、全国のスギを置き換えるにはまだまだ時間を要するというのが実態である。先の説明の通りである。

 
 
 

 



  

 
 

 

  

 

 


 
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