所用で大阪に車で出かける機会があり、この機会にGoToトラベルを利用し、どこかに一泊しようということになり、妻に宿探しを頼んでおいたところ、犬山温泉を選んでくれた。
中部地方のこの辺りは私にはエアポケット状態で、これまで出かけたことがなかった。
宿泊プランは、木曽川の鵜飼見物とセットになっているものであった。鵜飼といえば長良川が有名だが、そこから30kmほど離れたこの木曽川の地でも観光鵜飼が行われているとのことで、三次在住時以来の久しぶりの鵜飼見物ができることになった。
今回はさらにもうひとつおまけがついた。明治村である。ここも名前は以前から知っていたが、出かけたことはなかった。ただ、テーマパーク、遊園地の一種との思い込みがあったが、妻にここを選んだ理由を聞くと、帝国ホテルが移築されていることと、明治期の品川硝子製造所の建物がやはりここに保存されているからということであった。明治村は私が思っていたような場所とは中身が違っているようである。
帝国ホテルは言うまでもないが、品川硝子と言えば、日本最初の官製硝子工場として、その名前は「ガラスの旅」(佐藤潤四郎著 1976年 芸艸堂発行)で紹介されていたし、日本ガラス工芸学会の会誌「GLASS」にもしばしば採りあげられていたことから知っていた。
当日、大阪での用を済ませて昼過ぎには目的地の犬山温泉に向けて出発した。夕方早めに宿に到着したので、早速温泉に入り夕食を済ませて鵜飼が始まるのを待った。
宿の部屋からは木曽川の対岸に築かれている犬山城を見ることが出来た。この犬山城は前身となる岩倉織田氏の砦を織田信長の叔父・織田信康が天文6年(1537年)に改修して築いた城であり、その後、織田信清、池田恒興や織田勝長が入城、豊臣政権の時に石川貞清(光吉)が改修し現在のような形となったもので、小牧・長久手の戦いや関ヶ原の戦いにおける西軍の重要拠点となった。
宿の窓からの犬山城(2020.9.22 撮影)
現存する日本最古の木造天守(*最後に追記あり)で、1935年に国宝に指定され(1952年に再指定)、姫路城、松本城、彦根城、松江城と共に国宝に指定されている5城のひとつだという。
また、1617年に成瀬家の初代当主・成瀬正成が継いでからは、代々成瀬家に受け継がれ、平成16年(2004年)に13代当主・成瀬淳子氏から公益財団法人 犬山城白帝文庫に移管されるまで、全国で唯一個人所有であった珍しい城でもある。
今年のNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」は明智光秀と共に織田信長が中心に描かれていて、毎週楽しみにして見ているので、織田信長と犬山城とのつながりはどうかと期待したのであったが、この犬山城は重要な拠点にあったものの、信長の叔父信康が創建したこともあり、信長がこの城に入ることはなかった。
犬山城創建時代に活躍した戦国武将を、信長の父信秀の時代から徳川家康までを見ると次のようである。▲で示したのは犬山城創建年である。
犬山城創建時前後に活躍した戦国武将とその生没年
夜になると城はライトアップされた。
ライトアップされた犬山城(2020.9.22 撮影)
翌朝は、木曽川の穏やかな水面に犬山城が映り込んでいた。
宿の窓からの犬山城(2020.9.23 撮影)
次の写真は、明治村に行く途中犬山城の犬山丸の内緑地から撮影したもの。
宿から見えた姿とはほぼ180度反対側になる。
犬山丸の内緑地から撮影した犬山城天守閣(2020.9.23 撮影)
さて、話は前日に戻るが、少し暗くなり始めた7時ごろ、川沿いに建てられている宿のすぐ下の方にある私設の乗船場から鵜飼見物の屋形船に乗り込んだ。
船には既に1組の夫婦が乗り込んでいて、少し遅れた我々を待っていてくれた。その後、船は木曽川の反対側にある乗船場に向かい、ここで大勢の観光客を乗せることになるが、その前に我々4人は一旦下船して、他の観光客と共に、鵜匠の一人から、木曽川の鵜飼の歴史、現在の観光鵜飼の内容、鵜匠が身に付けている腰蓑などの装束は、かがり火の火の粉から身を護るためのものであるといったことや、鵜飼に用いている鵜の種類がより体力のあるウミウであることなどについて説明を受けた。
出発前の木曽川観光鵜飼の説明(2020.9.22 撮影 )
鵜匠と鵜の乗り込んでいる船が、上流から川を下っていく。鵜匠は10羽ほどの鵜をたくみに操り、これらの鵜が潜水しアユを捕らえるとそれを吐かせるといった様子を、その横を同じように屋形船で下りながら見物するものであった。
かがり火が見物の重要な要素になっているが、これは平底の小船の舳先で焚かれるかがり火が、照明のほかにアユを驚かせる役割を担っているという。かがり火の光に驚き、動きが活発になったアユは、鱗がかがり火の光に反射することで鵜に捕えられるのである。
このため、漁として行っていた昔は、満月・水の濁ったときは鵜飼をとりやめていたというが、明治42年頃より観光を取り入れて行っているため、増水・台風時以外のときは行われている。
木曽川の鵜飼の様子(2020.9.22 撮影)
船の速度は思っていたよりもずいぶん速く、鵜は一生懸命泳ぎながら潜水してはアユを捕らえる。中には鵜匠の持つ綱に引きずられるようにしている鵜もいる。事前の説明で、ウミウは体力があるから使うのだとの説明が納得できるのであった。
広島の三次で経験した鵜飼では、見物ののち河原で焼きアユを食べることもできたが、この木曽川の鵜飼はそうしたイベントはなく、ただただ鵜がアユを捕らえるところを見物するというものであった。
木曽川の鵜飼の様子(2020.9.22 撮影)
2時間ほどの鵜飼見物の後、船はまず最初から乗船していた1組の夫婦を犬山城のすぐ下にある宿の私設船着き場で降ろし、次いで我々を対岸の船着き場まで送り届けてくれた。その後、残る観光客を乗せて再び対岸にある船着き場へと戻っていった。
ところでこの鵜飼、現在国内で観光鵜飼を含めて、行われている地方は13か所あり、次のようである。このうち、長良川の2か所は宮内庁式部職鵜匠による鵜飼とされている。
また、鵜飼に用いられているウミウは、和歌山県有田市(現在休止中)と今は消滅したようであるが島根県益田市のケースを除いて、全国12か所すべての鵜飼は、茨城県日立市(旧十王町)の伊師浜海岸で捕獲されたウミウを使用しているという。
ウミウの捕獲は、春と秋の年2回、鳥屋(とや)と呼ばれる海岸壁に設置されたコモ掛けの小屋で行われる。鳥屋の周りに放した囮(おとり)のウミウにつられて近寄ってきたところを、鳥屋の中からかぎ棒と呼ばれる篠竹の先にかぎ針を付けた道具を出し、ウミウの足首を引っかけて鳥屋に引きずり込み捕らえるとされる(ウィキペディア)。
ウミウは最初から最後まで人に騙されていることになる。ただ、役目を終えたウミウは余生を楽しく過ごせるように配慮されていると聞いた。
現在鵜飼が行われている地方と河川名称
現在鵜飼が行われている場所とウミウの捕獲地
*追記(2021.4.1)
2021年3月29日、愛知県犬山市教育委員会は、この犬山城天守の建造時期が小牧・長久手の戦い(1584年)後の1585年~90年で、織田信長の次男・信雄(のぶかつ)が治めていた時期と確認されたと発表した。天守の木材を年輪年代法により測定した。これにより「12天守最古」が科学的に裏付けられたとしている。
現存する12天守は次の通り。水色の背景は国宝。