軽井沢からの通信ときどき3D

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ガラスの話(14)九州のガラス記-2/2

2019-05-03 00:00:00 | ガラス
 長崎のカステラの老舗”福砂屋本店”とレストラン”銀嶺” で古いガラス器のコレクションを見、大浦天主堂のステンドグラスを見た後、雲仙に向かった。国宝・世界遺産に指定、登録されている大浦天主堂では、内部の撮影は禁じられていたので、ここに写真を紹介することはできないが、正面の中央大祭壇とその上方、そして左右の上の方の窓には美しいステンドグラスが嵌められていた。午後の光が上方の窓から差し込み薄暗い教会の壁や床を赤、青、緑に照らす様子は荘厳であり美しい。長崎でのガラス鑑賞はここが最後になった。


大浦天主堂の拝観券

 この日の雲仙での宿は雲仙観光ホテルに決めていた。今回の旅の、九州の古いガラス鑑賞以外のもう一つの目的はこの雲仙観光ホテルに泊まることであった。雲仙観光ホテルは1935(昭和10)年に開業しており、その前年、雲仙が瀬戸内海や霧島と共に、日本初の国立公園として指定されたことを受けて、長崎県がさらなる観光振興のために建設したとされており、軽井沢の万平ホテルなど他の8ホテルと共に日本クラシックホテルの会のメンバーとして、国内でも有数の歴史あるホテルに数えらえている。これまでにもたまたまではあるが、箱根の富士屋ホテル、奈良ホテルに宿泊する機会があり、歴史上のできごとの舞台になってきたこれらのクラシックホテルに関心を持つようになっていたのがその理由である。

 先日伊豆に出かける機会があり、その時にも日本クラシックホテルの会のメンバーの川奈ホテルを選んだ。ここでは、宿泊した翌日の午前中に年配の職員による館内のツアーがあり、ホテルの歴史、建物の構造、過去に宿泊した著名人の紹介などがあって楽しいものであった。そうしたこともあって、今回も、九州内での移動ルートを検討する際に、この雲仙観光ホテルでの宿泊を取り入れていた。


雲仙観光ホテルの外観(2019.3.13 撮影)



雲仙観光ホテルの図書室(上)、ビリヤード室(下)(2019.3.13 撮影)


ガラスの花瓶に生けられた花(2019.3.13 撮影)

 この雲仙観光ホテルの建物は、外観・内装共に期待通りの重厚さで、歴史の重みを感じるものであった。さらに、ここでは今回の旅行の本来の目的である古いガラスの鑑賞の関連で思いがけないことがあった。それは、雲仙観光ホテルのすぐ目の前に、ガラスミュージアム「雲仙ビードロ美術館」が建っていたことであった。これは事前には把握できていなかった。


雲仙ビードロ美術館(2019.3.13 撮影)

 この雲仙ビードロ美術館は地元の建設業者社長のコレクションを展示しているもので、展示室は2階にあり、1階部分はガラス製品のショップや体験工房になっていた。

 展示品は18-19世紀にヨーロッパで造られたガラス器が中心で、素晴らしい作品の数々が並べられていたが、撮影が禁じられていたので、ここで写真をご紹介することはできない。同館のパンフレットで雰囲気を感じていただければと思う。


雲仙ビードロ美術館のパンフレット

 この日は、鹿児島までの長距離の移動日であり、時間的余裕があまりなかったこともあって、この美術館での鑑賞は短めに切り上げて、島原に向かった。

 雲仙・島原といえば、どうしてもあの1991年6月3日の普賢岳の火砕流の映像を思い出してしまうが、途中、何度も車窓に見え隠れする普賢岳を見ながらのドライブになった。実は、帰宅後知ったが、今も噴煙を上げている山は平成新山と新たに名前が付けられていて、現在この山が1483mと雲仙岳の最高峰である。旧普賢岳(主峰)1359mは、島原側から見るとこの平成新山の後ろに位置している。

 海岸線近くまで下りたところには、土石流や火砕流に飲み込まれた当時の家屋をそのまま保存している場所「土石流被災家屋保存公園」があることを妻が事前に調べてくれていたので、その場所に立ち寄った。ここには合計11棟の家屋が遺構として当時のまま保存展示されている。その内3軒の住宅が1階部分が土石に埋もれた姿で、巨大な覆い屋(テント)の中に展示されている。内1棟は他場所からここに移築したという。屋外には8棟が展示されていて土石流災害の恐ろしさを感じさせる。


野外に保存されている被災家屋、後方に巨大なテントが見える(2019.3.14 撮影)


テント内に保存されている被災家屋(2019.3.14 撮影)

 テントの外に出て、この場所から雲仙・平成新山の方を見ると、山頂付近はずいぶん遠くに感じる。直線距離で約11kmというところであるが、当時のこの地域の住民も、まさかここまで火砕流や土石流が到達するなどとは思いもしなかったであろうと思う。 


被災家屋付近から見上げる雲仙・平成新山(2019.314 撮影)

 ここでこうして今も噴煙を出し続けている平成新山を見ていると、どうしても、浅間山のことを思う。軽井沢と浅間山の距離は直線で約6kmといったところである。少し前までは噴火警戒レベルが2になっていた浅間山だが2018年8月にはそれが3年ぶりに1に下げられていて、活動はやや低下していることを示すようだが、何しろ、1783年には史上最悪といわれる人的な被害を出したことのある日本でも有数の火山であり、油断はできない。

 前回の浅間山噴火の際には土石流は北側に流れ、現在の嬬恋地区を飲み込み、溶岩もまた北北東側に流れ出して、今では観光名所になっている鬼押し出しを作ったのであるが、気まぐれな火山が次回はどこに噴火口をつくり、溶岩をどの方向に流すかは断定はできない。浅間山の活動には常に気を配っていかなければと思っている。

 ところで、この島原には、島原天守閣の「キリシタン資料館」に多くのキリシタン資料と共に、古い長崎ビードロや舶載ガラスの数々が展示されていることを事前の調査で把握していたのであったが、時間の都合で割愛せざるを得ず、昼食にこの地方の名物料理「具雑煮」と「かんざらし」を食べただけで、島原外港からフェリーに乗船し対岸の熊本に移動した。

 熊本側に着くと、福岡で一旦下りた九州自動車道に再び戻り、鹿児島を目指した。鹿児島では、市内のシティーホテルに宿泊し、翌15日には今回のガラスの旅の最終で最重要目的である薩摩切子を見るために、尚古集成館に向かった。

 午前中に一度、尚古集成館を目指して出かけたが、すぐ手前の隣接地に磯工芸館があり、ここで現在製造されている薩摩切子が販売されていて、工場見学もできることが判ったので、午前中一杯はここで過ごすことになった。

 ここで、薩摩切子について少し見ておこうと思う。江戸時代は、それまでのトンボ玉ていどしか作っていなかった日本に和製ガラス器が登場した時代である。江戸期に入ってまもなく、長崎で作られたガラスがその始まりとされ、製法はポルトガル伝来とも中国伝来ともいわれる。

 江戸後期には佐賀、薩摩などの諸藩でも盛んにガラス器が作られるようになるが、27代島津藩主斉興が弘化三年(1846年)に、江戸から当時ガラス師として有名であった四本亀次郎を招いて薬瓶を作らせたのに始まるとされている。28代斉彬が藩主になると、集成館が建てられ、洋式の技術を導入した。 斉彬は、特に紅色ガラスに力を入れ、銅を用いた暗赤色(または殷紅色と呼ばれた深い紅色)ガラスの製造に成功。その他、藍、紫、緑などの色ガラスもつくり、これらを透明なガラスに被せて二層にし、これに四本亀次郎の切子技術を応用させて、世に名高い、色被せカットガラス・薩摩切子が完成したとされる。

 1858年の斉彬の急死後、事業は縮小され、1863年の薩英戦争の際に工場が破壊され、消失したこともあり、薩摩切子は徐々に衰退してしまい、1877年頃には幻の切子になっていく。現存する当時製造された薩摩切子は200点程度とされ、とても貴重なものである。現在サントリー美術館には次のような江戸時代の薩摩切子のコレクションが8種14点収蔵されている(サントリー美術館資料「開館20周年記念、サントリー名品100」による)。

・薩摩切子紫色ちろり 一個
・薩摩切子藍色船形鉢 一個
・薩摩切子藍色脚付鉢 一個 
・薩摩切子藍色丸文小鉢 一個
・薩摩切子藍色蓋付壺 一個
・薩摩切子紅色三つ重 一組
・薩摩切子紅色皿 五枚
・薩摩切子紅色皿 三枚

 こうして一度は歴史の中から姿を消していた薩摩切子を再現して復活させたのは、大阪のガラス商社カメイガラスであった。大阪の天満はもともと大阪ガラス発祥の地(2017.9.29 公開本ブログ参照)として知られる地で、周辺には多くのガラス職人がいて、様々なガラス生地を作る技術に精通していた。カメイガラスはこうした大阪の職人たちを集めて、1975年~1980年頃に薩摩切子の復刻に挑戦、商品化に成功した。

 このこともあって、薩摩切子に対する一般の人々の関心も高まってきたが、ガラス工芸の専門家チームの中には別な動きが出ていたようである。この辺りの状況は「薩摩切子の復元のための技術的研究(一)、(二)(ガラス工芸研究会誌 26号,1988.11.30 発行、同 28号,1990.8.10 発行)に見ることができるが、序文の一部を紹介すると次のようである。

 「近年、薩摩切子に対する一般の人々の関心も高まり、複製品も販売されるようになった。これ等は、精緻な製品もあるものの、主に営利を目的としているため、材質など、本来の薩摩切子とは異なるものである。こうしたすそ野の広がりは歓迎するところだが、薩摩切子そのものに解明されていない点が残る今日、誤った概念を多くの人々に与えるという危険性もあろう。(薩摩切子に対して)個々に行われている研究を、総合的見地から検討する機会が必要な時期となっていたが、今回、幸にも遺品の破片を手に入れることができた。そこで、これを機に研究者が集い、今まで行われることのなかった、試料を採取してその正確な分析に基づく、学究的態度での薩摩切子の復元が計画された。・・・この研究は昭和六十二、三年度(1987-8年度)の二年間にわたり、文部省から科学研究助成金を受けることができた。・・・」

 この研究には1985年(昭和60年)4月に鹿児島県と島津家の協力で設立されていた「薩摩ガラス工芸(株)」もガラス融解など一連の作業で協力したとされている。詳しい前後関係は判らないが、こうした研究の一部はすでに先行して薩摩ガラス工芸(株)設立よりも前から進められていたのであろうか、会社設立年の年の1985年8月には同社から薩摩切子復元発表がなされている(株式会社島津興業 薩摩ガラス工芸資料による)。
 
 先行していたカメイガラスはその後1990年中ごろに倒産してしまうのであるが、薩摩ガラス工芸は、1987年にスタートした鹿児島県伝統的工芸品指定事業の指定を、1988年に受け、現在も薩摩切子の製造・販売を続けている。

 この薩摩切子は、昨年のNHKの大河ドラマ「せごどん」の中でも採り上げられ、ある日西郷隆盛と島津斉彬が日のさす縁側で薩摩切子のデキャンタからグラスにワインを注ぎ飲む場面が描かれていた。

 さて、我々が先ず立ち寄った磯工芸館では上記の経緯を経て完成された、薩摩切子のギャラリーショップがあり、サントリー美術館に所蔵されているものと同型の復元品などや、2001年に商品化したという新しい技法を用いた二色被せの新作商品、種々のグラス、アクセサリー類などが展示販売されていた。







たくさんの種類の薩摩切子が並ぶ磯工芸館のギャラリーショップ(2019.3.15 撮影)

 このギャラリーショップの裏側にある工場ではガラスの溶解から「たね巻き」、「色被せ」、「成形」、「徐冷」、「あたり」、「荒ずり」、「石かけ」、「木盤磨き」、「ブラシ磨き」、「バフ磨き」、「検査」というすべての工程を歩きながら見学できる通路が設けられていて、目の前で製造される薩摩切子を見ることができるようになっている。













薩摩切子の製造工程を見学できる工場と通路に置かれている説明用展示作品(2019.3.15 撮影)

 工場見学の後、再びギャラリーショップに戻り、店員に説明を聞きながら商品を見て回ったが、中国からの観光客がずいぶんたくさんの商品を買い求めていた。我々も復元猪口と復元脚付杯をお土産に買おうとしたが、大河ドラマで使われていたワイングラス(復元脚付杯)の方は、来年まで予約が埋まっていて、この日は持ち帰ることができないという状況であった。薩摩切子の人気は、TV放送終了後の今も衰えていないことを実感させられた。

 このあと、一旦市街地に戻り、従弟・従妹の二人とのランチの後、午後は再び尚古集成館に向かった。ここで古い薩摩切子を見学した後、島津家の旧庭園「仙厳園」を散策したが、ここからは高く噴煙を上げる桜島をすぐ前に見ることができた。この日の噴煙はやや少なめに見えたが、実はこの前日には小規模な噴火があったことを昨夜ホテルのTVのニュースで知った。



尚古集成館(2019.3.15 撮影)

 浅間山の麓に住んでいる我々であるが、これほどの噴煙を見ることはまずない。火山活動度の違いを見せつけられた形であった。浅間山が大好きで、軽井沢に住みたいと言って移住を希望した妻であったが、もし浅間山がこんなに噴煙を上げるようになったら、逃げ出したくなる・・というのを聞いて、目の前の噴煙よりもその言葉に私は驚いてしまった。


「仙厳園」からの噴煙を上げる桜島(2019.3.15 撮影)

 今回の九州の旅は、ガラスと共に火山とその活動が人々の生活に及ぼす影響について見る旅でもあった。













  
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2 コメント

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Miss (Karen Lang)
2020-07-12 16:00:54
Greetings from Australia.
I am enjoying your blog very much and find it most informative.
I am a collector of Japanese glass and am trying to research many aspects of 20th century glass in Japan.
If you are happy to answer some questions I have would you please contact me via email vidrojapan@gmail.com.

I am very sorry that I don't read or speak Japanese.
I hope to hear from you soon.
Many thanks
Karen
返信する
Thanks (Master)
2020-07-12 23:04:35
Thank you for your comment. I will email you separately later.
返信する

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