私の開いているアンティーク・ガラスショップの商品の大半はドリンキング・グラスになっている。これは私の店に限らず、グラス器全般にいえることだろうと思うが、商品の種類ではどうしてもワイングラスを中心として各種ドリンク用の物が多い。
もちろん、コンポート、皿、ボウル、香水瓶、花瓶、ペーパーウエイトなどの商品も含まれているのであるが、供給側のガラス器メーカーもドリンキングアイテムに力を注いでいるので、ショップで扱う商品も自然とドリンキンググラス中心になっている。
ドリンキング・グラスにも様々なものがある。我々日本人の生活様式ではそれほど明確にグラスの種類を使い分ける習慣がないが、グラスのカタログを見ると、ワイングラス、シャンパングラス、リキュールグラス、シェリーグラス、カクテルグラス、ゴブレット、ウィスキーグラス、ブランデーグラス、タンブラー、ショットグラス、カップ&ソーサーなど用途ごとに細かく、大きさや形の異なるものが用意されている。
最も身近なワイングラスを見ると、最近では全く装飾のないプレーンなものがほとんどで、その代わりに、ワインの種類や産地ごとに、大きさと形状の異なるものを推奨するグラスメーカーも出ている。
一方、アンティークグラスでは、ガラス表面に様々な装飾を施したものがほとんどであり、カット、グラヴィール(仏語、英語ではエングレーヴィング)、エッチングといった技法が用いられている。
今回はこのうちカットを施されたガラス器(カット・ガラス)ついての話。
カットガラスの歴史は古く紀元前までさかのぼるとされる。「世界ガラス美術全集①古代・中世」(由水 常雄編 1992年求龍堂発行)の年表を見ると、紀元前1500年まで遡ることができるガラス容器の歴史の中で、初めてカット技法という言葉が見られるのは、前8世紀のトルコ・ゴルディオン出土の「菊文カット・グラス」(径15.7cm)である。
同じ本の図版の中にこのゴルディオンのグラスの写真が収められているが、ボウル~皿形状の底面部分の中央に小円形の、それを取り巻いて周囲には日本の菊花文状の切込みが認められる。
このほかには古いものでは、前6世紀-前4世紀のカット・グラス皿(アカイメネス王朝、大英博物館蔵)と、前5世紀後半にイラン(アカイメネス朝ペルシア)で作られた「ロータス文角杯」(コーニング・ガラス美術館蔵)が紹介されている。後者は、高さ約18㎝、径約9.6cm、底の尖った形状であり、杯(壺としている本もある)の側面には縦長のカット文様が施されている。図版解説には次のように記されている。
「・・・ガラスは無色透明の素地で、鋳造して大略の形を作り、そのあとに外形、内側を削り込んで形を整え、胴部に細目のロータス花文を線と凹刻で彫り込んでいる。・・・」
由水常雄氏の別の著書「ガラス工芸」(1975年ブレーン出版発行)には古代のカット技法について、次の記述が見られる。これによるとカット・グラス皿ではすでに今日と同様のグラインダーが使われていたことが示されている。
「カットは、冷却後に行われるもっとも典型的なガラス加飾法である。その始まりは、紀元前七世紀の新バビロニア以前に遡ることができる。以後アカイメネス時代、ローマ時代、ササーン時代、イスラーム時代にもさかんに使われ、以後、ボヘミア、ドイツ、イギリスなどで流行し、断絶することなく今日に至っている。新バビロニア時代までは、グラインダー加工ではなかったようであるが、アカイメネス時代になってから、どうやらグラインダーが応用されたようである。ローマン・グラスやササーン・グラスには、グラインダー・カット特有の特徴がよく発揮されている。
今日使われている技法は、このグラインダー・カットである。ガラス器物の外表面を切削して文様を表現する技法をいう。深いカットには、軟鉄、荒砥石、青砥石、青桐、ブラシ、フェルトの順にグラインダーがけを行う。細く浅いカットには、青砥石、青桐、ブラシ、フェルトで仕上げられるが、カット面を透明にして、つや出しを行わない場合には、青砥石のグラインダーをかけたままにしておく。各グラインダーには、断面が角山、菱、蒲鉾、片菱形になったものがあり、ほかに水平回転の平盤と呼ばれるものがある。これは平面カットを行う場合に使われる。また各グラインダーは、直径が大から小まであり、小さな曲線をカットする場合には、小さな直径のグラインダーが使われる。大きなグラインダーでは小さな曲線をカットすることができないからである。なおカット・パターンには、基本的な技法が十種類余りあり、その構成によって、いろいろなヴァラエティ―が作られる。」
ところで、先の2著書の編・著者である由水常雄氏が監修し、製作されたグラス器に「世界ガラス3500年史・ぐい吞みコレクション」というものがあり、私は運よくこれを入手することが出来て、ショップに展示している。
紀元前1500年のメソポタミアで作られたミルフィオリガラスから、19世紀の日本で作られた江戸切子や薩摩切子、20世紀前半のアール・デコの時代に現在のオーストリアで作られた、黒色エナメルを被せたものまで、全部で16種類あるが、すべて当時のままの技法と制作プロセスによって、当時の様式にのっとって一つ一つ手造りによって、製作されている。
(2018.2.18 撮影)
由水常雄氏監修による、世界ガラス3500年史ぐい吞みコレクション(2020.6.25 撮影)
この中にカットガラス技法を用いたものが次の6種類含まれている。
この内、ササン朝ペルシアで作られた「白瑠璃杯」は日本にも伝わり、現在正倉院に保存されていることはよく知られている通りである。また、同型の物で、現地で発掘されたものは岡山市立オリエント美術館にも収蔵されている。
以下、この6種類の写真と、由水氏による解説である。
「白瑠璃杯」(H43.5,D56mm):吹きガラス・カット技法。日本の正倉院にササン朝ペルシアより伝わったカットグラス碗。同じ技法、様式で、小型化して制作。亀甲文様のカットが美しくきらめいて、宇宙観のようなイメージを現出する作品。
(2018.2.18 撮影)
「フローラル・グラス杯」(H67.5,D62mm):特殊プリズム技法。19世紀のボヘミアでごく少量が作られ、消え去った幻の杯。特殊な細工を施したプリズム・グラスで、底部の花文様が杯全体に数百個もきらめきます。門外不出の秘法を再現した作品は、世界でも初公開のもの。(2018.2.18 撮影)
「銅赤被せカット・グラス杯」(H58,D46mm):被せガラス・カット技法。イギリスやアイルランドのカット・グラスは、18~19世紀のヨーロッパで大流行しました。当時の名作をもとに、発色の最も難しい銅赤のガラスを外側に被せて、イギリス独特の片やすりカットでデザインを決めた技法を再現。(2018.2.18 撮影)
「江戸切子杯」(H49,D60.5mm):吹きガラス・カット技法。幕末の江戸の粋人の好みを反映したガラス、江戸切子。手触りの優しい丸みのあるカットは、器を手に持って使う日本人に合わせたものです。鋭角的で手に突きささるようなカットのイギリス製品と大きな相違がうかがわれます。(2018.2.18 撮影)
「薩摩切子杯」(H48.5,D60mm):被せガラス・カット技法。ガラス産業振興のために江戸のびいどろ師を招いた薩摩藩が生んだ切子の傑作。透明ガラスに被せた藍色のガラスをカットの技で微妙にぼかして、薩摩切子独特の美しさを見せています。日本のガラス史上で最高位を占めたガラス。(2018.2.18 撮影)
「アール・デコ杯」(H62,D151,D241.5mm):型吹き・カット・エナメル彩色技法。透明ガラスに黒いエナメル彩で幾何学的な構成の模様を描いた、ウィーン・セゼッション様式の作品。知的な美しさが、アール・デコの時代のヨーロッパで人気を博したウィーン工房のリキュールグラスをモデルにした。(2018.2.18 撮影)
カット技法はこのようにグラインダーの形状を変えることで、大きな面を削ったり、球(曲)面を形成したり、繊細なラインで文様を描いたりと自在にガラス表面の形状を作ることができる。
カット面は摺りガラス状に曇るため、この表面をさらに研磨して透明にする場合が多いが、そのまま曇った状態を残すなど、目的により使い分けられている。尚、近年透明化には量産に適したフッ酸と硫酸の混液を使用する方法も採用されているが、カットのシャープさは若干失われるようである。
この世界ガラス3500年史に登場するガラス器の多くは博物館で見るようなものであるが、近世のものの中には、市場で入手可能なものがある。
今回はまずそうしたものから紹介させていただく。
最初は、フローラル・グラス。グラスの底の部分にパンジーの絵を描いた金箔を貼り付け、その上をガラス円板で封じたものである。金箔をガラス板で封じ込んでいるため、ゴールド・サンドイッチ・フローラル・グラスと呼ばれることもある。絵のモチーフとして花が多いが、他のモチーフもある。
パンジーを描いた、フローラル・グラス(H88,D69mm, 上から 2020.6.29 撮影)
パンジーを描いた、フローラル・グラス(横から、2020.6.29 撮影)
先の由水氏の解説にもある通り、グラス内面の曲率と外の平面の角度を調節することで、グラスを上から覗くと、底に描かれた花が側面に繰り返して反射し、万華鏡のようにたくさんのパンジーが見えるように工夫されている。また、グラスが空の場合にはレンズ効果で小さく見えていたパンジーの絵が、グラスに液体を注ぐと大きくなり浮き上がって見えるという効果もある。
右:グラスが空の状態、 左:グラスに水を満たした状態(2020.6.30 撮影)
次の2点は1920-30年頃に制作されたアール・デコ様式のデキャンターとグラスのセット。上の由水氏の解説にはオーストリアのウィーン工房との記述が見られるが、ほぼ同時期に制作されたこちらは、購入先のチェコの業者からの情報では、Karl Palda工房の作とのことであった。
このKarl Palda工房は、現在のチェコ共和国の北部、ドイツ、ポーランド国境寄りのNovy Bor で1888年に創業している。近隣の学校などとも共同作業を行い、デザインも取り入れたとされる。
最初のものは、デキャンターの大まかな外形形状は鋳型に淡青色のガラスを吹き込んで製作されていると思われるが、その後ほとんどの面を平面に研削・研磨し、そこに幾何学模様を線で描き、赤・黒エナメルで着色している。ここで示すものは、更に一部を金属鏡面に仕上げている。
アール・デコ様式のKarl Palda デキャンター、グラスセット(2019.2.6 撮影)
アール・デコ様式のKarl Palda デキャンター、部分(2019.2.6 撮影)
アール・デコ様式のKarl Palda グラス(2019.2.6 撮影)
次も同時代のデキャンターとグラスのセットであるが、ガラス素材は透明で、大きく平面カットされたデキャンタの胴部分に細線で模様を描き、赤色エナメルで彩色されている。グラスは日本のさかずきのようにも見え、これも全体に大きなカット面で構成されている。
アール・デコ様式のKarl Palda デキャンター、グラスセット(2019.2.6 撮影)
アール・デコ様式のKarl Palda デキャンターとグラス、部分(2019.2.6 撮影)
アール・デコ様式のKarl Palda グラス(2019.2.6 撮影)
今回の最後は18-19世紀のイギリスでの制作と見られているワイングラス。「英国グラスの開花」(村田育代著 1993年六曜社発行)には、よく似た作品がいくつか紹介されているのでそのように判断した。ワインが高価だった時代のワイングラスはボウル部分が小さめのものが多い。このグラスもそうしたものだが、そのボウル、ステムは全体がカット面で構成されていて、ボウル部には更に金彩と繊細なグラヴィール加工も施されている。
ステム部のカットはファセット・カットと呼ばれる形式である。一見ランダムに見えるが、らせん状に菱形カット面が規則正しく並んでいる。
18-19世紀イギリス製と思われるファセットカット・ステムワイングラス
(H15.7,D5cm 2019.2.6 撮影)
金彩の口縁とグラヴィール加工のみえるボウル部(2019.2.6 撮影)
菱形・連続文様にファセットカット加工されたステム部(2020.6.30 撮影)
次回に続く。
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