軽井沢からの通信ときどき3D

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太田恵子「彩蝶」(2/2)

2020-08-07 00:00:00 | ガラス
 「彩蝶」の作者、太田恵子さんが愛でたガラス作品はどのようなものだろうかと想像を巡らせてみるものの、今となってはとても無理なことだろうと考えていたところ、思いがけずその一部の写真を見る機会が訪れた。

 「彩蝶」と同じ頃に買い求めてあった「火の贈りもの」(由水常雄著 1977年 せりか書房発行)の冒頭、原色口絵の中に、乾隆ガラス、長崎藍色ガラス、薩摩切子、江戸切子、ローマン・グラス、ボヘミア・グラスなどと共に、太田恵子氏所蔵の4点の写真が含まれていることに気付いたのである。写真に添えられた説明には次のように書かれている。
 
 ・① 月光色蜻蛉文花瓶 エミール・ガレ 作 1892年頃 h=56cm 兵庫・太田恵子氏蔵
 ・② 群蝶文花瓶 エミール・ガレ 作 1900年頃 h=38cm 兵庫・太田恵子氏蔵
 ・③ パート・ド・ヴェール カメレオン装飾灰皿 アルメリック・ウォルター作 1900年頃
  兵庫・太田恵子氏蔵
 ・④ 省胎七宝 フェルナン・テスマール作 1900年頃 h=4.5cm 兵庫・太田恵子氏蔵

 ①は、ガレが開発し、命名したとされる微量のコバルトで着色した淡青色の「月光色」ガラ
  スを無色のガラスに薄く被せたように見えるもので、表面には2匹のトンボが描かれて
  いる。
 ②は、底胴部の銅赤ガラスから鶴頸の無色不透明ガラスに変化する花瓶で、胴部には数
  頭の図案化された蝶(蛾)が描かれている。(ヨーロッパでは蝶と蛾とを明確に区分しないよ
  うである)
 ③はボート状に見える灰皿の一方の縁に暗青灰色のリアルなカメレオンが配置されてい
  る。縁側面の内側には葉と実がレリーフされている。
 ④は小さなぐい吞みサイズの小鉢で、省胎すなわち基材となる銅を溶かし去って、表面に
  形成したガラス質と銀線だけを残した七宝である。濃紺の地に青と金彩で彩色されて
  いる。


「火の贈りもの」(由水常雄著 1977年せりか書房発行)

 「彩蝶」の本文にも記されていたが、著者がフランスのガラスを見学する際に、若き日の由水常雄氏が案内役を務めている。また、著者のガラス工芸に関する知識は相当なレベルであることは「彩蝶」の次のような文章からもよくわかるが、その指南役もまた由水常雄氏であったことが知れる。

 以下は、ガレとも縁が深い高島北海の絵の展覧会が、日経新聞主催で開かれた際、太田恵子氏所有のガラスも出展されることになり、芦屋の自宅に関係者が集まった時に、太田さんが話した内容である。

 「----新大陸アメリカの移住民たちが、はじめて作った工場がガラス工場。そこではインディアン向けのビーズが作られ、インディアンたちは千里の道も遠しとせず、自らの財宝をたずさえて、この珍奇なビーズを求めて集まってきたという。
 また、ベネチア商人は、アフリカの原住民にビーズを供給して、引き換えに珍しい毛皮や羽毛や宝石類を手に入れていた。
 わが国でも、松前藩や大阪の商人たちは、蝦夷地に行って、アイヌ人からトンボ玉やガラス玉で北海の産物を購入していた。
 このような文化果てる地に、文明の現実が浸透していったのも、まずガラスが最初であった。
 ガラスは文化伝達の露払いとして、また文化交流の尖兵として常に先端を歩んできたが、そればかりではなく、文化の栄えている社会のなかでは、それは美しい蕾となり、みごとな花を咲かせていた。
 古代エジプトのガラス、ローマン・グラス、イスラム・グラス、ベネチアン・グラス、ボヘミアン・グラス、そしてアール・ヌーヴォーのガラス。すべてそれらは文化の絶頂期に咲いた花だといっていい。----」

 ここで紹介されている話は、前出の由水氏の著書「火の贈りもの」に紹介されている内容とほぼ一致している。 

 こうした縁もあって、由水氏の著書に太田氏所蔵のガラス器が紹介されたことが幸いして、今こうしてコレクションの一部を確認することができたのである。

 「火の贈りもの」が出版された1977年(昭和52年)といえば、太田さんが大阪ロイヤルホテルの地下に、ガラスショップ「ナンシイ」を開業してしばらくたった頃であるから、あるいはショップに置かれていた商品から選ばれたものであったかもしれない。

 これらのガラス作品が、著者が夢見ていた「ナンシイ・ガラス・ハウス」を誰かに作ってもらい、そこで展示されたかどうか、彼女がそこの館長さんに収まることができたかどうか私は知らない。。。

 ところが、話はこのあと思いがけない展開になっていった。

 偶然、同時に太田恵子氏作のパート・ド・ヴェール作品「花のある盃」と、彼女が開いた個展の作品集を入手することが出来たのである。

 ガラス・ハウスの館長さんにはなれなかったのかもしれないが、彼女はガラス工芸の技法のひとつ、パート・ド・ヴェールの作家になっていたのである。

 作品集は、1993年4月19日から6月12日にかけて、サン・ギョーム(東京)、江戸堀画廊(大阪)、ギャラリー・パサージュ(名古屋)の3か所で行われた2回目の個展のものである。

 タイトルは「Pate de verre・パート・ド・ヴェール 太田恵子作品集」であり、1993年4月に発行されている。序にはサントリー元社長の佐治敬三氏が書いた次の文が寄せられている。

 「太田恵子さんは1988年に第一回のパート・ド・ヴェールによる個展を開催された。今回は二回目の発表で、やはりパート・ド・ヴェールによる新作展である。・・・
 太田さんは著書『ガラスの旅』の中で、『道なかばというより、おそらく一生かかっても、気に入ったものができるかどうかはわからない。とにかくパート・ド・ヴェールとはこんなものですよ、という展覧会が出来ぬものかと考えている。』と記しておられる。・・・
 遺恨十年一釼を研くということがあるが、太田さんの場合は、この技法に取り組んで、すでに20年。今回の個展は、これまでの成果を世に問うものである。
 パート・ド・ヴェールといえば、アンリ・クロやダムース、アージー・ルソーといった作家の小振りな作品を連想するが、太田さんの場合は、これらの古典をはるかに超えた、現代の造型そのものである。例えば、出品作品の主流を占めるフォルムは四角い箱である。箱の中には微妙に調整された光が内包されており、厚い色がガラスの層を通して、パステル調の淡い色彩が生まれてくる。・・・
 『ガラス作家の道は、いばらの道』とは、世紀末のガラス工芸家、エミール・ガレの言葉であるが、太田さんの今日までの生き方も、まさに『荒野に道を拓くことにしか興味をもたない人』のそれである。・・・」


図録【 Pate de verre パート・ド・ヴェール  太田恵子作品集】(1993年4月 発行)

 この作品集には、「私と四角」という太田さんの次の文が収められている。

 「昨年六月パリに行ったとき、H氏に案内を頼んだ。
 彼の奥さんがルーヴル・アンティック街にある、唯一、日本女性が経営するアール・ヌーヴォーガラス専門店に勤めているというので、車を止めて立ち寄ることになった。ちょうど店にいた女主人は、『ほんとうに太田恵子さんなのですか。もっと年輩の方かと思っていました。』
 前回展覧会の私のカタログは店に置いてあったし、著書である『硝子の旅』も読んだという。どうして知っているのか訊くと、『この世界では太田恵子さんは有名です。おめにかかれて光栄だと思います』
 四十歳代半ばと思える女主人は、私を同じ仕事の先輩として、きちんと挨拶してくれた。

 私はエミール・ガレの作るガラス器を、ひとつ買ったことが始まりとなり、昭和三十年代の終わり頃からアール・ヌーヴォーのガラス器に興味を持つようになった。
 パリから三百キロ離れたナンシイで、日本の蝶を図柄にした作品を、ガレが制作していることに私は魅かれた。当時、ヨーロッパでは万国博が繰り返し開催され、日本の美術品が海を渡り、アール・ヌーヴォー運動に大きな影響を与えたことは有名だが、ナンシイで生まれた日本の蝶に興味が湧いた。・・・
 ガレの作品はただ見て美しいだけではなく、ガラスの詩人といわれるように、心の世界がある。作品に刻み込まれたメーテルリンクを読み、哲学者でもあったガレに思いを走らせるのを楽しみにしていた。
 クラブや喫茶店を経営するかたわら、ガレやアール・ヌーヴォーにどっぷりつかっていた。そのうち私はロイヤルホテルの地下にグラスギャラリーを開くことになり、バカラやラリック、ドームのようなクリスタルガラスの作品の他にガレの作品も紹介した。
 日本でこんなにガレが有名になる先鞭をつけたのは太田さんですよと、いまもいうひとがある。
 アール・ヌーヴォーというのかエミール・ガレというのか、それとプッツリ縁が切れたのは昭和五十五年、日本で開催された『ガレ展』の故である。・・・
 私のコレクションするガレも数点出展となり、世界で初めての『ガレ展』は東京、大阪、名古屋と廻って大盛況であった。
 『知ってしまえばそれまでよ。知らないうちが花なのよ』という歌の文句どおり、『ガレ展』の終わりとともに私のアール・ヌーヴォー熱というのか、ガレ熱は消え去った。
 買い付けのためにパリの蚤の市にゆくと
『ケイコがきたよ』
 伝令が走るらしく、値札が高く変えられた話、ずっと通訳を頼んでいた男は案内して買物の世話をすると、一年間は寝てくらせるくらい懐がふくらんでいた話など、どの世界にもある裏ばなしだろうが、ガレ熱が醒めてから耳に入ってくる。いずれにしても高い月謝を支払って勉強したというのか、躰につけたアール・ヌーヴォーのガラスである。・・・
 商売の仕事はすっかり整理し、この元旦は妹と小犬との三人家族が、並んで窓の外の見事に昇る初日の出を拝んだ。
 銀座の画廊サン・ギョームの女あるじに言っている。『私の四角は年季が入っているわ。アール・ヌーヴォーに一財産入れあげた、あげくの果てのしかくなのだから。』と」

 作品集には四角をテーマにした作品が多く収められているが、「朝顔碗」と名付けられた口径
150㎜の作品と、口径70㎜のぐい吞みもいくつかみることができる。

 私が入手した次の「花のある盃」は形は朝顔碗に近いが、大きさは半分ほどのぐい吞みサイズである。側面には彼女が好きだった蝶の刻印が見られる。



太田恵子氏作のパート・ド・ヴェール「花のある盃」(高さ30mm、口径75mm)

 太田恵子さんは、はじめ由水常雄氏の開くガラス学校でパート・ド・ヴェール技法を学んだ。その後、吉祥寺にあった、内田邦太郎氏の教室に2年間通ったあと、自宅のガレージに窯を作っている。

 由水氏の学校で1日だけパート・ド・ヴェールのレクチャーを受けたことのある作家の五木寛之氏は、太田恵子さんの1回目の個展の時に次の文章を寄せている。

 「この人がかつて大阪の”夜の商工会議所”とうたわれた<クラブ・太田>の女経営者であり、さらに人生の転機に立って惜しげもなくその店を閉めて、ガラス作家への道を選んだことを知ると、妖しい光を放つガラス器の奥にとじこめられた何かが、かすかにほの見えてくるような気がする。
 人間の一生はおもしろいものである。一場の夢としても、興味はつきない。美しいものを道づれに生きてゆけばなおさらだ。いくつかのガラス器を前にして、ぼくはあらためてそう思う」

 最後に太田恵子氏の略歴を記しておく。健在であれば、現在95歳になられているはずである。

・1925年(大正14年) 大阪市港区生 父は船乗り
・1944年(昭和19年) 19歳、父死亡、 女学校を卒業し船場の大建産業(丸紅)に就職
・1945年(昭和20年) 20歳、大阪大空襲で家を失う、大和の古市に疎開
           このころ、蝶のカット皿、赤のベネチア・グラスに出会う
・1956年(昭和21年) 21歳、十三に移る
・1948年(昭和23年) 23歳、会員制クラブ「ツーリスト」に女給として勤める
・1949年(昭和24年) 24歳、「ツーリスト」をやめ、バー「えんじや」を開店
           店にガラスの灰皿、ベネチアのシャンデリア、ボヘミアのワイング
           ラスを置く 
・1951年(昭和26年) 26歳、バー「紫苑」開店
・1959年(昭和34年) 34歳、週刊文春に「夜の商工会頭」と紹介される
・1960年(昭和35年) 35歳、世界旅行に出かける
・1961年(昭和36年) 36歳、クラブ「太田」開店
・1970年(昭和45年) 45歳、大阪万博にアイス・かき氷店出店
             マダム引退と、ガラスを仕事にと考えはじめる
・1973年(昭和48年) 48歳、マダムを引退しオーナーに 
           グラス・ギャラリー「ナンシイ」を大阪ロイヤル・ホテル地下に開店
・1975年(昭和50年) 50歳、クラブ「太田」閉店 「経済界」に連載記事
・1976年(昭和51年) 51歳、「彩蝶」出版
・1981年(昭和56年) 56歳、グラス・ギャラリー ナンシイ閉店
・1988年(昭和63年) 63歳、サン・ギョーム(東京)、梅田画廊(大阪)にてパート・ド・
           ヴェールの個展を開く
           「ガラスの旅」出版                            
・1990年(平成2年)   65歳、第一回日本グラスアート展、第二部佳作入選
・1993年(平成5年)   68歳、第二回のパート・ド・ヴェールの個展を開く
・1995年(平成7年)   70歳、阪神大震災に遭遇、コレクションを失う
・1997年(平成9年)   72歳、大下英治著「大阪 夜の商工会議所ー太田恵子物語」発行
          
 「彩蝶」の舞台となった北新地の地図を参考までに。


JR大阪駅周辺と北新地の現在の地図(筆者作成)


昭和35年当時の北新地とバー「紫苑」
(大下英治著「大阪 夜の商工会議所ー太田恵子物語」掲載の地図を参考に筆者作成)



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