さかさ中山道:更科上り紀行
「更級(更科)蕎麦」
蕎麦通でもない私でも記憶のある言葉で
あるし、勿論食した事もある。
最近はあまり目にとまらない「更科(さら
しな)」。
思わず更科ってどの辺り?長野あたり?。
調べると、千曲市の上山田から八幡にかけ
ての地域名で、歌枕のひとつだそう。
姥捨山・田毎の月等の名所で昔から有名と
いう。
「我が心なぐさめかねつ更級や
姥捨山に照る月を見て」(古今和歌集)
「さらしなの里、おばすて山の月見んこと、
しきりにすゝむる秋風の、心に吹きすさ
びて・・・」と、
芭蕉は更科紀行の巻頭で述べている。
それからもわかるように、この旅は更科の
月を愛でるためである。
今では、月見は庶民の楽しみではなくなっ
たが、昭和の50年代頃までは、月見の団子、
ススキそして月を愛でることは、秋の家庭行
事の一つであった。
芭蕉の更科への月見出発は、元禄元年
(1688)8月11日。前年の8月14日
には、曾良と宗波を連れて鹿島へ月見に出か
けている。
杜国と旅した明石までの旅では、
「月はあれど留守のやう也須磨の夏」
「蛸壺やはかなき夢を夏の月」
と詠み、秋の月を愛でたいという思いはひと
しきりだったのだろう。
笈の小文の旅は、秘密の紀行。
その秘密の紀行も4月の末に吉野、大和、
紀伊を巡り大坂を経て須磨から明石でターン、
京に向かい杜国と別れる。
その後大津、岐阜、名古屋等で3ヶ月過ごし、
中山道を歩いて姨捨の月を見て、そして江戸
深川への帰路となる。
紀行の地の文は約千字ほどで、13句が詠
まれている。
そのうち、同行の弟子越人(36歳)が
2句を詠んでいる。
弟子の名古屋の医師荷兮(かけい)が従者
を一人つけてくれ、3人旅であったこともわ
かる。芭蕉は45歳となっていた。
さて、8月11日、芭蕉達は、岐阜を出発し、
木曾街道に入り、寝覚の床、木曽の桟、立峠、
猿ヶ馬場峠を経て更科に到着し、姨捨から名月
を観賞、長野の善光寺を参拝し、浅間山麓を
通過して江戸の芭蕉庵に戻る。
私は、更科紀行の逆さ、当時ではお上りさん
となる。
中山道の宿場町を見つめ直すよい機会となる。
中山道は、今はもう亡くなられた神山幸士氏が、
退職後中山道を踏破され、その都度記念のテレ
ホンカード等をいただいた。歩こう会年締めの
鎌倉の七つの切り通しをご夫妻一緒に走破した
ことも、尊い思い出となっている。
亡くなられた後いただいたものでわかったのだ
が、神山氏は俳人でもあった。全て完了したら、
まとめたものを届けたい。
さて、中山道は、「中山道六十九次」でもわか
るように、日本橋と三条大橋の間に69の宿場が
栄えていた。中野時代、中山道板橋宿の近くに間
借りしていたのと家内の実家はすぐ傍でもある。
道の広さと銭湯も懐かしい。
今回は、鴻巣宿から大井宿までお邪魔する予定
である。
ある寺の前で。 パンパスグラス
「更級(更科)蕎麦」
蕎麦通でもない私でも記憶のある言葉で
あるし、勿論食した事もある。
最近はあまり目にとまらない「更科(さら
しな)」。
思わず更科ってどの辺り?長野あたり?。
調べると、千曲市の上山田から八幡にかけ
ての地域名で、歌枕のひとつだそう。
姥捨山・田毎の月等の名所で昔から有名と
いう。
「我が心なぐさめかねつ更級や
姥捨山に照る月を見て」(古今和歌集)
「さらしなの里、おばすて山の月見んこと、
しきりにすゝむる秋風の、心に吹きすさ
びて・・・」と、
芭蕉は更科紀行の巻頭で述べている。
それからもわかるように、この旅は更科の
月を愛でるためである。
今では、月見は庶民の楽しみではなくなっ
たが、昭和の50年代頃までは、月見の団子、
ススキそして月を愛でることは、秋の家庭行
事の一つであった。
芭蕉の更科への月見出発は、元禄元年
(1688)8月11日。前年の8月14日
には、曾良と宗波を連れて鹿島へ月見に出か
けている。
杜国と旅した明石までの旅では、
「月はあれど留守のやう也須磨の夏」
「蛸壺やはかなき夢を夏の月」
と詠み、秋の月を愛でたいという思いはひと
しきりだったのだろう。
笈の小文の旅は、秘密の紀行。
その秘密の紀行も4月の末に吉野、大和、
紀伊を巡り大坂を経て須磨から明石でターン、
京に向かい杜国と別れる。
その後大津、岐阜、名古屋等で3ヶ月過ごし、
中山道を歩いて姨捨の月を見て、そして江戸
深川への帰路となる。
紀行の地の文は約千字ほどで、13句が詠
まれている。
そのうち、同行の弟子越人(36歳)が
2句を詠んでいる。
弟子の名古屋の医師荷兮(かけい)が従者
を一人つけてくれ、3人旅であったこともわ
かる。芭蕉は45歳となっていた。
さて、8月11日、芭蕉達は、岐阜を出発し、
木曾街道に入り、寝覚の床、木曽の桟、立峠、
猿ヶ馬場峠を経て更科に到着し、姨捨から名月
を観賞、長野の善光寺を参拝し、浅間山麓を
通過して江戸の芭蕉庵に戻る。
私は、更科紀行の逆さ、当時ではお上りさん
となる。
中山道の宿場町を見つめ直すよい機会となる。
中山道は、今はもう亡くなられた神山幸士氏が、
退職後中山道を踏破され、その都度記念のテレ
ホンカード等をいただいた。歩こう会年締めの
鎌倉の七つの切り通しをご夫妻一緒に走破した
ことも、尊い思い出となっている。
亡くなられた後いただいたものでわかったのだ
が、神山氏は俳人でもあった。全て完了したら、
まとめたものを届けたい。
さて、中山道は、「中山道六十九次」でもわか
るように、日本橋と三条大橋の間に69の宿場が
栄えていた。中野時代、中山道板橋宿の近くに間
借りしていたのと家内の実家はすぐ傍でもある。
道の広さと銭湯も懐かしい。
今回は、鴻巣宿から大井宿までお邪魔する予定
である。
ある寺の前で。 パンパスグラス