貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

滑川の俳人知十の「知十塚」と芭蕉の「有磯塚」

2023-03-12 11:52:48 | 日記
令和5年3月12日(日)
滑川市: 徳 城 寺      
<徳城寺山門飲酒者は入禁>
      
 当初は土肥氏の縁の寺院として
弓庄城(上市町)城下に…。       
 天正10年(1582)に
発生した本能寺の変で
織田信長が討たれると、
当時の城主土肥政繁は
織田家を見限り上杉家に従った為、
天正11年(1583)、
信長の旧臣の攻撃を受け
弓庄城は落城。
 土肥氏は上杉氏を頼って
越後に落ち延び、
徳城寺は滑川に移ったという由緒。
<八角形の鐘楼>
                                     
徳城寺境内にある
芭蕉句碑(有磯塚)は、
元禄2年(1689)に、
奥の細道行脚で当地を訪れた
芭蕉と曾良が泊まったとされる
川瀬屋の後裔である
七代目当主彦右衛門(川瀬知十)らが、
芭蕉70回忌を追善し、
明和元年(1764)に
寄進したもの。
<旧芭蕉句碑>


<有磯塚と知十塚>

 当地で詠ったとされる芭蕉句、


「早稲の香や 
  分け入る右は 
     有磯海」 
が刻まれている。

 隣の六角形の石碑は、  
天明3年 (1783)、
知十の十三回忌の追善供養として
寄進された、  
「知十塚」。
<川瀬知十の塚碑>

 知十という人は、
滑川の俳壇を代表する俳人。
 芭蕉70回忌に句碑建立を
思い立ち、
有磯海の砂を手でさらえ、
荒波がかかる自然石を荷い
運んで
この秀吟を刻む。
 そして、
荒町海岸にあった徳城寺の境内に
建立する。
<本堂にある阿吽金剛力士像>


 
 新たな徳城寺の移転時、
句碑も移転。
 現在に至っている。