貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

正月早々の隅田川最初の橋へ

2019-01-20 08:45:12 | 日記

正月早々の隅田川最初の橋へ

平成31年1月20日(日)

 年が明けて三日目。

 通勤客や車は少ないだろと、

思い立ち、急遽朝行く先を整理。

 足立区の北千住に絞る。

 8時前に、出発。

 お茶の水で乗り換え、北千住駅で

降車。

 隅田川を目指して歩くこと20分。

 国道4号線の日光街道に出ると、

大橋が見えてくる。

 千住大橋は、隅田川にかかる橋で、

北岸は足立区千住橋戸町、南岸は

荒川区南千住六丁目。

 前回は車で来たのだが・・・。

 

 旧橋(下り方向)・新橋(上り方向)

の二橋で構成されており、旧橋の上流

側に東京都水道局の工業用水道専用橋

である千住水管橋がほぼ並行している。

 今修理中で、手前が水道管橋である。

 最初に千住大橋が架橋されたのは、

徳川家康が江戸に入府して間もない

文禄3年(1594年)11月のことで、

隅田川最初の橋である。

 当初の橋は現在より上流200m

ほどの処で、当時「渡裸川の渡し

(戸田の渡し)」と呼ばれる渡船場

があり、古い街道筋にあたった場所

と推測。

 水管橋を降りるとすぐ釣り船が

一艘。

 壁に、「おくのほそみち 旅立ちの地」

と太字で、その紀文がかかれ、

蕪村筆による芭蕉と曾良が描かれ

ている。

 与謝野蕪村の屏風絵だ。

 隣には、「千住大橋と荒川の言い伝え」

とか、「河川の移り変わり」

「潮待ち茶屋」のことなど

板碑に、河川の歴史が分かるように

記されている。

 

広重の絵もある。

 

千住大橋の全景が撮ろうと、

釣りを楽しむ人の方へ足をのばす。

つづく。


十五の塔と早起き会発祥の地!

2019-01-19 08:44:17 | 日記

十五の塔と早起き会発祥の地!

平成31年1月19日(土)

 今朝は、小松市にある小松天神宮。

 先ず、千年大祭の記念碑!

 次に、十五の塔

 前田利常公は当宮を創建された

翌年、万治元年10月小松城で

ご逝去。

 その折5人の追腹衆の1人品川左門と

この石塔にまつわる秘話が伝えられ

ている。

 利常公の遺命によって棺柩の供奉

を命ぜられた品川左門は、小松から

金沢へ向う途すじ梯川を渡りながら

天神の森を望み見た時、

「尊霊御末期の御時我を召されけれ

ども、御存命の御影を拝し奉らず

定めし御待ちなさるらんと、

心の中に懸橋を心静かに打渡り、

懸橋の浜通りに輿をやる。

 日頃見馴れし天神の石の塔を

見げつゝ重ねあげにし塔なれど

限りありてぞ見果てぬる」

と心中を語りかけたと、

三壺記に記されているそうだ。

 そうして大任を果たした左門は

自ら殉死の儀式を行い、割腹して

公のあとを追ったという。

 もう一つは、早起き会の発祥の地記念碑。

 青梅にもこの団体の道場みたい

なのがある。

 よく野球場をお借りした。

 懐かしい!!

 戦後、朝起きはお國を興す第一歩

というのが起こり。

昭和59年(1984年)10月、建立

碑 文 には、

 上廣哲彦先生は、廣島原爆被災の身を

以て祖国復興を念願し、昭和21年

実践倫理宏正会を樹立した。

 はじめて朝起実践会場を設けたのは

当社の一隅であった。

 今や会勢日に盛んにして天下を蓋

わんとする時、先師の鴻業を偲び、

創業の地をえらんで遺徳を永世に

顕揚せんとするものである。

 初めて知る。

 他にもいろいろな句歌碑があったが、

説明がなくちょっと消化不良かな?


 



一輪ほどの暖かさ

2019-01-18 08:41:55 | 日記

一輪ほどの暖かさ

平成31年1月18日(金)

 昨夕、白梅が一輪花開く!

梅一輪、一輪ほどの暖かさかな。

 青梅は、梅の病気の関係で、

この友田町の家々の庭から梅の

花が消えていった。

 でも、大丈夫だった梅の花が

今年も頑張って咲いた。

 これは道路沿いの古木。

古梅、紅梅。今花盛り!!

八重咲き。

 春告げ花も満開。

 紅白梅に負けずに、寒さに

負けず、今日も楽しく!!!


新旧の齟齬

2019-01-17 08:51:32 | 日記

新旧の齟齬

平成31年1月17日(木)

 今朝も小松市。

 小松天満宮は、初めて。

 小松天満宮は、加賀藩三代藩主

前田利常公が小松城に穩居された

時に、前田氏の氏神である

北野天神を城北に当るこの地に

社殿を造営。(1657)。

 東は靈峰白山を望み、西は安宅

の海岸に続く梯川の畔にあって

今も厳かな風致を保っている。

 最近、浮島化された。

阿吽狛犬

 

「願掛け撫で牛」もいる。

 それぞれの家庭の安寧と親族の

健康と我が蕉道の安全等、願掛け。

社殿は北野天満宮の社頭を四分の一に

縮めて造られた。

 これ絵が立派な神門。

 この口からの光景も見事。


 当時の名工山上善衛門(加賀藩のお抱え

大工で瑞竜寺・妙成寺・那谷寺などの

造成に携わる。)の手に成ったもの。

 昭和36年、神門と共に江戸時代の

唐様建築の代表的なものとして

国重要文化財に指定されている。

 当社はその創建の由来からみても

前田家代々の尊崇が篤く、

祭神が文学の神と仰がれたことと、

初代別当が近世を通じて連歌の

第一人者であったこともあって、

絵画、書蹟、文書、典籍寺貴重

なものが多く、宝物殿に保管さ

れているという。

 能順は晩年まで小松天満宮と

北野天満宮を兼務し,京都と小松を

往来していたが、芭蕉が小松に来た

当時、能順も小松に来ていた。

 彼は加賀藩の重臣であり、俳諧を

通して芭蕉と面識のある俳人。

 能順の指導も受けていた生駒万子

の仲介で、この”小松天満宮”で句を

奉納したいと依頼していた。

 芭蕉が小松に立ち戻ったのは、

”小松天満宮”で、その生駒万子に

会うため。

 しかし、翌日、芭蕉の”小松天満宮”

で初めての別当能順との面談で、

能順の句を褒めた芭蕉の言辞に、

二人の間に齟齬が生じ、芭蕉が

わざわざ山中温泉から立ち戻っ

てまで望んだ、”小松天満宮”での

連歌の会での句の奉納はなされ

なかったという。

 古い伝統の権威と新しい波の力

のぶつかり合いは、古今東西、

変わることが無い。

 境内に建つ芭蕉の句碑は、

小松天満宮での句ではなく、

源意庵で芭蕉が始めて披露した

句が刻まれている。

 句は、

「あかあかと 日はつれなくも 秋の風」 

つづく。


同い年で出陣!?

2019-01-16 08:41:39 | 日記

同い年で出陣!?

平成31年1月16日(水)

 正月も後半に!

 今朝も小松市の多太神社。

 実盛は出陣前からここを最期の地

と覚悟を決めており、老いを侮られ

ないようにと白髪を黒く染めて

出陣した。

 時に実盛73歳の老齢だったという。

 私と同い年。白が頭も。私は隠居。

戦いや争いは大の大の苦手で嫌い。

 元気はあるが・・・。

 実盛、壮絶?!

 後に、義仲が戦勝祈願のお礼と実盛の

供養のために、多太神社に兜を奉納した

のである。

 流石、義仲!

 この兜にまつわる実盛と義仲の話は、

『平家物語』巻第七に「実盛」として

語られている。

 それからずっと後元禄2年(1689)、

松尾芭蕉が「奥の細道」の途中に

この地を訪れた。

 兜を見た芭蕉は実盛を偲び、

 「むざんやな 甲の下の きりぎりす」

と句を詠む。

 それが、上の句碑である。

 その句碑のそばに「松尾神社」という神社

があるが、これは松尾芭蕉とは関係

ないので「俳句がうまくなりますように…」

等とお参りしてもご利益は期待できない

という。

 松尾さんはお酒の神様!

 いつまでも美味しくいただけます

ようにと祈願。

 第二次大戦中に金物などが没収され

ていった中、当時の宮司が兜だけはと

土の中に埋めて守ったという。

 現在の兜は修復後のものなので、

正確には芭蕉が見た兜ではない。

 芭蕉が見たのは修復前の兜で、

その絵が神社の宝物館に納められて

いる。

 宝物館には、兜や多数の宝物も

納められており、事前連絡すれば

見る事ができるという。

 そして、当地の俳句会で慕われた

木隹(ぼくすい)の句碑も大切に

されている。