令和6年7月1日(月)
おいの鼓(こ)舞(ぶ)覧(み)
『笈の小文』紀行
『笈の小文』は、
『笈の小文』は、
「百骸九竅(きゆうけう)の中に
物有。
かりに名付けて
風羅坊といふ。」
という書き出しで始まる。
この書き出しも
この書き出しも
『奥の細道』と同様、
リズミカルでテンポ良し。
荘子の斉物論からの引用であるが、
荘子の斉物論からの引用であるが、
「百骸」は「百骨」、多くの骨の意。
「九竅」は体にある穴。
即ち、
二目、二耳、二鼻孔、
一口、二便孔。
「百骸九竅」は、
人間の肉体の意。
「風羅坊」とは、
「風羅坊」とは、
芭蕉の別号。
風に翻る薄物の意でもある。
私の体の中にも風羅坊有り。
4月末のある会で、
「今、どうしているのですか。」
と聞かれ、
「風羅坊やっています。」
と応えたが、
その方は、至極真面目な書家で、
意味がわからなかったみたい?
芭蕉は、その続きとして、
芭蕉は、その続きとして、
「誠にうすきものゝ
かぜに破れやすからん事を
いふにやあらむ。」
と説明し、
「かれ狂句を好むこと久し」
と自己を追跡。
自己を見事に分析。
あれだけの事をなしても、
あれだけの事をなしても、
究極は「無能無芸」ではないかと
裸の自分を語る。
私も同じ虚無感を底流で抱き、
私も同じ虚無感を底流で抱き、
自己の平安を得るために
ある意味もがいているのかも
しれない。
私の生涯の生業は、
私の生涯の生業は、
「教」と「育」に携わったこと。
天職として完了した事実は
不動のことだが、
真の充足・達成感で
私を満たしてはくれなかった?
「造化に従い、造化に還れ」
ということ?
隠居の決意が、過去を遮断!
「古稀からのより道」と道を拓き、
「古稀からのより道」と道を拓き、
第Ⅲとして「笈の小文」の追跡を
隠居の出発とする。
夏の真っ盛りではあるが、
「おいの鼓舞覧」
(「老いの鼓舞覧」と
「自分のという意の
「おい」の鼓舞覧」と掛けて)
として、
その紀行をまとめることにする。
さて、「笈の小文」は、
さて、「笈の小文」は、
貞享4年(1686)11月から
翌年5月までの半年間余りの
旅の記録。
44歳から45歳という齢にも
なった芭蕉は、
野ざらし紀行の旅から
2年余りが過ぎていた事もあり、
血気はやっていたのであろう。
「古池や・・・」の傑作句ができ、
「古池や・・・」の傑作句ができ、
その新風は、
名古屋や京の俳壇に広まり、
芭蕉の名声は一段と高まる。
其角亭で送別句会が開かれる。
其角亭で送別句会が開かれる。
その時、
「旅人と
「旅人と
我名呼ばれん
初しぐれ」
という句を披露する。
という句を披露する。
芭蕉は、「旅に生きる」自分を
誇りにしている感じ。
そして、
そして、
名古屋まではひとり旅を挙行。
ひょっとすると、
芭蕉が望んだひとり旅で、
お忍びの旅だったのではないか
ともいわれている。 会いたい人がひとりいた。
空米売買の罪で、家屋敷、店舗など
全て没収され、
伊良湖岬に近い保美の里へ
流刑された杜国である。
彼は芭蕉が41歳の時、名
彼は芭蕉が41歳の時、名
古屋句会で出会う。
女性にしたいほどの美貌の若衆
であったらしい。
芭蕉は、たちまち杜国に心を
奪われたといわれている。
「杜国におくる」
「杜国におくる」
と前書きのある
「白げしに
はねもぐ蝶の
形見哉」
という句には、
芭蕉の切々たる心情というか、
情愛が込められている
といっても過言ではない。