「あんたは誰とでも合わせて行ける人やけど、わしはあんたでないとあかんのや」
結婚する前に夫が言ったいくつかのプロポーズの、最終の言葉だった。
そして子供が出来る前には「いい奥さんにならんでもええから、賢い母親になってくれ」と言った。
中学で学校が一緒になり、入学した時名前の(なとに)で出席番号が同じ16番、席が隣同士これが出会いのはじまりである。
高校卒業後私は姉の勤める京都の病院へ、目的だった看護婦になるべく就職、夫は地元の造船会社が決まっていた。
春休み、大阪で会社を経営していた遠縁にあたる社長さんが、「4人男の子がおるから誰か来てくれないか」と。
遠距離になる事を懸念していた夫は、家族の反対を押し切って入社せず社長さんの神戸の自宅に住み込むことになった。
結婚する2年前のお盆に帰省した時、お酒を持って父親とやって来た。「2年後、結婚させて下さい」と頭を下げた。
中学の国語の先生は占い師みたいに「将来2人は結婚する」と言ったし、 同級生も結婚すると、皆見守ってくれていた。
なんでだろう・・。 母は家に夫が遊びに来るたびに「清い交際をしなさいよ」玄関でいつも言われていたから、手が触れるのも
恥じらう2人だったのに。 そう言う母を恥ずかしかったけど、娘を思う余りな訳で母親なら当然だったかも。
夫は神戸、私は京都。 デートはそのどちらか。
帰りは電車で神戸から京都へ送ってもらい、乗り換えて京都から神戸へ行き、そしてまた京都へ戻る。 電車もデート時間。
♪ 送って行って送られて そのまた帰りを送って行って たそがれた町
「いつもふたりは」 作詞:星野哲郎さん 作曲:編曲 山路進一さん 島倉千代子さん詩。
夫は大阪で会社の商品を置いてある家に住むようになって、遊びに行っても「変な気を起こしたらあかんから」と敷いた布団を
ベランダに干すまで私を絶対部屋に入れなかった。 その時私は別のお医者様で働いていて苦労があり、時には胸にすがり泣きたい
時もあったから、気持ちなくはなかった正直。
「大切な人には手はだせんかった。 いつもお母さんに言われていたし」結婚するまで律儀に、母の言葉を守った夫だった。
そんな2人は昭和48年10月10日、第2の人生のスタート、今年は49周年を迎えた。
ながかったようで今になれば早かったかなぁ、今でもあるけど、色々色々あったもんねぇ。 ない人なんてない、それが人生。
結婚記念日の朝必ずかかる母からのおめでとうの電話。
そして家から花嫁衣裳を身につけ会場へ向かうバスに向かう道すがら、ご近所さんに植えられている金木製が満開で
あたり一面に漂っていたことを話す、それは必ず。 2年後の10月10日、妹も結婚式、私の次には母は妹におめでとうの電話。
亡くなる10年前くらいまではかかった。 もうおめでとうは聞けない。
孫達が通っていた小学校の前の道路には、今・・金木犀の甘い香りが辺り一面に漂う、マスクをしていてもとてもいい香りである。
今日、家はイベントでバタバタしていた。 ツイン21で3年振りに大阪メチャハッピー祭りがある。
中1からダンス部だった高1の孫娘の高校も出場した。
ヒップホップのダンスはさすが、迫力あり勢いといい、良く揃い、成長した。 過呼吸で救急車、ひざのあざ、朝練、昼漣、放課後過酷な練習
良く乗り越えた、好きならばこそ、涙が出る。
あいにくお昼過ぎまで雨が降り、満月は無理かと思ったが夕方晴れてきた!
帰りの車でお寿司をネット注文。 前回の注文の履歴一覧があった、そこに加え注文、便利だね~。 長女がケーキを。 賑やかなお祝いの夜だった。
少し濃いダンスメイクをした孫娘が「結婚記念日おめでとう、すごいよね! 半世紀を一緒に夫婦で過ごしてきたんだもんね!」
満月見えた!
まだこれと言った50周年に向けての決意、目標は定かではないけど、とりあえず夫婦は持病と向き合いながらなんとかがんばろう!
仲よく楽しく暮らそうね、みんな宜しく!