日々雑感 ~写真と思い~

今日と言う日は、二度と来ない。 
だから今日を大切に・・そんな私のデジカメ散歩 

* 我が家のさくらも開花をはじめた *

2022年03月31日 | 花や木


ソメイヨシノが八分咲きのころ、我が家の桜が開花を始めた。 
朝いちばんにカーテンを開けるとき、必ず確認する。 いくつ咲いているかなと楽しみに朝を迎える。
今年は今までで一番蕾を付けている気がする。 家族にもそう言ってある。

毎年必ず咲いていると言いたいところだが、10個位の時もあったり、その年によって違う、何かしらまるで占いのよう。
まったく一輪も咲かなかった年があって、なんか良くない年なのかと思ったりした。
だけどその年がどうだったか、気にしながら関連づけたことはない、確か。

この桜は10年以上も前に、長女夫婦が和歌山の梅林へ撮影に行った帰り、お土産にもらった鉢植えの八重桜である。

一度だけ植え替えをした。 今、40㎝の鉢で60cmくらいの高さになっている。
いずれにしても私は、思いやりある二人の記念樹のような気がして、沢山咲きます様に・・と、毎年楽しみにしている。

『南殿桜(なでんざくら』 名前の由来を調べたら南殿とは京都御所紫宸殿の別称だそうで。 
何年か前京都御所公開の時、夫の友人のチテイジンさんに案内されて行った。右近の橘、左近の桜とかで古木を眺めた記憶が。
下向きで淡いピンク、優しさや気品を感じている。 

花言葉を調べたが、桜・・・・優れた美人・純潔・優雅な女性・精神の美・心の美
           八重桜・・おしとやか・豊かな教養・理知に富んだ教育

いずれにしても、高値の花言葉である。   
今年はいいことになりそうな・・。 ピンチもチャンス・・そして、チェンジ!

 

 たのしみは 南殿桜に思い馳せ 花を数える 朝を迎えるとき 

        4月12日記 10日まで今まで最高の102個の花をつけた南殿桜、家族を楽しませ短き花の命を終えた。


* アッシー君のお陰でご近所・・桜巡り *

2022年03月30日 | 花や木

 天保山公園 


買い物に出るついでに「桜・・回ろうよ」 私もいよいよとなったら、夫に自分から行こうよと言う。
「ええでー」 ご機嫌でOKである。
海遊館のある築港<天保山公園> 陽光桜は早いので、もう満開は過ぎていて・・。 
私撮る人、夫は車で待つ人、勝手なものである私。 行こうと言われても素直にハイ!と心躍らせもしないのに。

夫はブログに(家内画像)と書いて、一枚一枚アップしていたが、私は自信がないので記録にと掲載。 だからコラージュ。


帰りに・・大阪メトロ朝潮橋駅そば

 八幡屋公園 


大勢の人たちが命短し桜の下で楽しむ、二年間コロナ禍を頑張って乗り越えてきたご褒美だ・・と思っている。
ここへ来ると、8年前鹿児島へ引っ越す長男家族との30日はお別れお花見、翌日関空で見送った時の事を思いだす。


右上は丸善インテックアリーナ大阪(以前の大阪市立中央体育館) 体育館の上は円形で頂上へ上る歩道があり公園になっている。
恰好のウォーキング。 6月には世界三大花木、日本では中々育ちにくいジャカランダの花が咲く並木がある。
左下は、大阪プール、その右はジンベイザメの形した滑り台、小さい子供に人気。


最後は・・我が町の

 桜通り 


出不精の私も、陽気と桜に心惹かれ楽しむことが出来た。 コロナ禍の宣言下の二年間、土日とか雨が多かった。
せっかくの桜も、天の采配・・雨が人流を止めた。 不思議だった。 桜祭りも中止だった、nihonnno それは三年目の今年もである。
どうか気を付け乍ら楽しみましょう・・せめて日本の花・・桜を。 そんな気持ちで眺める今年である。

 

  たのしみは 夫に頼みし花めぐり 出不精の私が 写真撮るとき     

                           4月11日記 時遅し花は散りかけであるが記録! 


* 一枚の写真より * 

2022年03月27日 | 雑感


更新さえままならない私は、中々人様のブログを訪問しコメントを残すまでに至らなくて、コメント欄を
閉じさせていただいている。
本来なら見て頂いている方のお声聞けるので、以前は更新以上にそれさえ楽しかったのだけど、何しろ
パソコンに座るとあっと言う間に時間が経過する。 一日中でも座っているのが好きな私だけど、
時計を見ては・・あ!! 自分のお仕事に戻らなくっちゃ・・。 そんな後は家の中、小走りである。

先達ていつも訪問下さっている方の足あと拝見し、訪問させて頂いた。
私のコメントのお返事は・・(勝手に載せてごめんなさい)
 
「みくさんの、桜の木の下で老夫婦が佇んでいるお写真が、いつまでも心に残っておりました。
たぶん、私がブログを始めたばかりの頃かと思います。

カメラもまだ始めたばかりでした。 いつか、人の心に残る写真が撮りたい・・そんな思いで写真を撮り
続けています。
(まだその域に達していませんが・・)
みくさんがブログに戻られたのを知り、思わず自分のブログに載せてしまいました。みくさんに私の思いを
届けてくださった神様に感謝です!

拙いブログへお越し頂き、お褒めのコメントを頂き、これ以上嬉しい事はありません。

そうなんだ・・写真に共感して下さったんですね、もったいない! それ以上に嬉しい。 
その域に・・なんてとんでもない、素晴らしい、素敵な写真のお部屋です。

2012年4月12日の一枚である。 
自分ながらその光景を目にしたとき、表情は見えないけれどとてもご夫婦の労わりや寄り添い、支え合う
そんな日常が見えた気がして・・(ごめんなさい、撮らせて頂きますね)とつぶやきながらシャッターを押した。
なんか自分たちの近い将来が重なって・・そして、こうありたいなぁとそんな事を思いながら撮らせて頂いた。
自分でもお気に入りの一枚なのである。 

何年も写真を撮っていなかったので、久しぶりにカメラを持ちだせばバッテリー入れたまま・・二機とも電源はいらないし、
動きもどうもしない、故障・・当然。 それさえ考えなかった私のショックは、今かなりなものである。
あの頃の写真には勢いがあった気がする、ファインダーをのぞく私はわくわくしていた・・どこを切り撮ろうかと。
毎日歩き回る自分がいた。 恥ずかしげなく撮り回った。撮る為に出かけた。 ブログに引き込んだ夫と出かけた。
今はできるだけ家に・・デブ症の私になった。

一度だけ、お気に入りの先生のカルチャースクールがあって、ある金額を出して初めて勉強に行ったことがあった。
「機種だの、レンズだの、技とか磨くよりも、感性を磨きなさい」と言われた言葉が私の心を射止めた。
私には、ただの趣味でお金をかけるのは贅沢だし夫に申し訳ないし、撮っていることが楽しいんだから、感性、そう感性。
やはり写真には心が見える。 今は恥ずかしながら、全く勢いのかけらもない。 写真は心を映す。
”心象風景”そんな一枚が撮りたいと、今・・少しづつその気になろうとしている私である。

 たのしみは 被写体の 端っこに そっと夫を 入れて撮る時 


 * 出会いは・・必然 *

2022年03月26日 | 雑感

  

                                              (過去写真)

 私は、早寝早起きである、子供の頃から。  ラジオがTVに代わっても8時くらいには眠くて、宿題は5時頃起きてしていた気がする。 
 大人になってもそれは変わらず、朝、3,4時には目覚めれば起きる。 リビングへ上がる7時までは、身支度しながら画期的な自分時間である。
 だから昔から夫が夜中3時に釣りに行くと言っても1時間前に起き、お弁当を作り夫に食事をしてもらうし、5時にゴルフと言っても、
 必ず朝食を作り、お迎えの友人を外で待ち二人を笑顔で見送る。 (いえ、元気で留守が・・)
 
 そんなわけで今ドラマを見ても、夜は1時間とてまともに観ることがない。 それだし録画してまで観ない。  
 映画大好きな夫に、しおらしくたまには一緒に楽しんであげようと座るが、肝心なところを見逃したり必ずと言っていいほど寝てしまう。
 夫も良く分かっていて「今日は一緒に観るわ」と言っても「寝る癖に」と笑いながら、あるいは冷ややかに寂しげに返事が返る、必ず。

 今年になって見ているドラマは、「ミステリと言う勿れ」「ドクターホワイト」「ゴシップ」「妻、小学生になる。」
 最初から見てるのはこれだけ。 あとは、その時の気分とつまみぐい。
 「ミステリ・・」は菅田将暉さんの人、役柄、演技が好きで観ている。 面白かったのに、私的には苦手な方向性、だけど彼が見たいので観ている。
 
 昨夜は「妻、小学生になる。」の最終回だった。 あり得ない話だが、なんか気になり最後まで追ってきてしまった。
 (どんなドラマか、観ている人には分かるが、見ていない人にはなんのこっちゃ・・だが、それはそれで)詳しくはWevで。
 「今日は最終回やからリアルタイムで観るわ!」 皆の前で堂々宣言した。 皆黙っていたが(また・・口だけや)そんな目線を感じた。
 案の定、いつの間にか寝てしまったようだ。 そんな私に家族はどんなコメントを発していたであろうか。

 2時過ぎ目が覚めた。 (やってまった・・) 即、ティーバーで観た。 続きから、多分。  
 ドラマのクライマックス、10年前愛妻病気で亡き後、中々立ち直れないでいる夫に向けて、小学生になって家に帰って来た妻の言葉。

 「ああ この人と作る家庭は温かいんだろうなぁって思ったの その通りだった」 「あなたがとなりにいてくれて 本当に幸せだった」
 しょぼくれている夫に「どうせいつかお迎えが来るんだし それまでは美味しく楽しく暮らしなさい」料理人だった妻ゆえ。
 ずしんときた。 涙が出てきた。 止まらなかった。 
 「あなたがとなりにいてくれて 本当に幸せだった」これは私がそう言えるかと言うより、夫は私にそう思えるだろうかであろうと思う。  
 そして落ち込んでいた娘さんには「生まれてきてくれた瞬間から いっぱいいっぱい幸せにしてくれた」「ありがとう ママの娘でいてくれて」
 私は三人の子供に恵まれたが、本当にいつも心からどれほど大切に感謝して生きて来たであろうか・・子供たちに対して。 
 
私ははっとした。 妻としての、そして母親としての私に・・見直す為に。 
 これだったんだ・・これを聞くためにドラマに出会い、ここまで観ていたんだ・・偶然では無い・・そう思った。
 
 娘時代京都のお医者様の家で働いていた私は、個性豊かな生き生き過ごしている素晴らしい奥さまを見ながらの三年間、
 その影響からか、”出会いは必然”と言うのが、私の生きるテーマになっている気がしている。
 
 私は子供の頃から苦労はあっても、いい人との出会いの中で色んな場所でいいポジションにいたりして来た。
 親戚であってもうまくいかない人たちもいる中で、我が家の事よりも人のことを優先してきた両親の生き方でそのお蔭で恵まれていた気がしている。 
 それと長きの人生の中で様々な出来事に遭って来た、良くも悪くも。
 しかしそれらは決して恨むべきことではなく、反省であったり結果的には良いことへ繋がる足がかりのようなものだった気がしている、後になって気付く。
 全てを受け容れて行くこと、向き合うと言う事である。 
 同居にしても然り・・この事がきっと良きことへ繋がっていくのだと。 いや、繋がって行かなくては、一緒に暮らす意味がない。

 誰もが寝ている夜中の静けさのなかで、しみじみと自分を考えてみた。 あとどれだけ夫婦で一緒に過ごせるのであろうか。
 今、軽々しく夫とこんな話はしないが、ここらで自分を掘り下げてみないか私。 反省はすぐする、サルでもできる反省は。
 いかに自分を変えるか、変えていくか、分かっているのにその努力をやりきらない、目の前の相手の言動につい心癖が邪魔をする。
 世の中半分は女性だろうに、たった一人の妻で辛抱してくれている夫に、本当に申し訳ない。 
 ほかの人だったらもっと違ったいい人生だったかも知れない、そう思ったときは何度かあるが、今更思っても仕方ない。
 いつまで変わらなければ・・と何度そう思って来ただろうか。 この先どれだけの夫婦時間があると言うのか。

 娘は「お母さんが見送らなければ、私は家のこと出来ないお父さんの面倒よう見ないよ」と笑いながら言う。 本当だ。
 真面目な夫は日常、細やかに自分を鍛えようと身体を動かしている、ちょっと私は自分の方が危うい! 
 そんな夫を横目に見ながら気持ち焦っている。 思いついたらやるが、私には継続性がない。
 夫婦お互いに、痛みやきしみがあちこちあるもの同士、このままでは夫に追い越されてしまう!

 「あなたがとなりにいてくれて 本当に幸せだった」そんなセリフ、上手でもいい・・夫にそう思ってもらえる私でないと・・。
 中学へ入学した時、出席番号16番の隣同士、五人兄弟が同じ年生まれ、男・女・男・男・男 そして、女・男・女・女・女・・。
 こんな出会い、偶然では無い・・必然な出会いなのだ、私たちは。

 お昼前友達との約束がある孫娘が「ばぁば昨日 ドラマ始まってすぐ寝てたよ」と笑いながら出かけた。

   
 変る・・五段活用 言い聞かせ 今度こそ 心入れ替えるか 私よ

 変わらない 変わります 変わる 変わるとき 変われば 変われ!


  たのしみは 昔話を広島弁で わざと話して 笑いあうとき 

   記録として残す記事が滞っていますが ぼちぼち振り返りながら 追いついて行こうと思っています。


* キンセンカは・・ *

2022年03月13日 | 雑感

いつもの日曜の朝の、ピンポーン~

夫の友人から届いた花束の中に、鮮やかなオレンジ色の”キンセンカ”の花があった。 キンセンカは初めてだった。
立杭焼の瓶に挿しながら(おばあちゃんが好きやった花やわ)と思った。 一気に思い出が甦った。

私は、姉、兄、妹二人の五人兄弟だけど、年齢もあると思うけれど、大のおばあちゃん子だった。 
昔の事だ、何処へ行くのでも歩いていたが、祖母が出かける時は「行くー!」と必ずと言っていいほどついて行っていたと思う。

妹達の子守もしていたのに、祖母が出かける時は、郵便局であろうが、親戚の家であろうがついて行っていた。
時に祖母は私にわからないように、そっと隠れて家を出て出かける時も、それを見つけては、泣きながら走って追いかけて行った記憶もある。

門司の親戚へ汽車で行くときも、連れて行ってもらった。 仕方ないと、母を困らせた記憶が。
初めての祖母との旅、トンネルを通るときは窓をしめた気がする、煤で・・。もう、嬉しくて嬉しくて親戚へ行く坂道を覚えている。

祖母は用事以外は奥のお仏壇のある隠居部屋にいて、桐のタンスのいくつもの小引き出しには色んなものがあった。 ニッケや駄菓子やゴム風船や色々。
魔法のような隠居部屋に入るのは、子供の大の楽しみだった。 仏さんにお供えものをこそっと食べる楽しみもあったのだ。
私の右目の上の傷は、仏さんのお菓子を取ろうとしてガラスが割れて怪我したときの傷だと母に言われたことがあるが、気にしたことは全くない。
祖母はいっぱい、楽しい話をしてくれた。 それに、祖母はとても手先が器用で、孫達が劇をするとき等の衣装はなんで上手に作った。 誇らしかった。
麦藁細工や藁細工も、教えてくれ楽しんで作った記憶がある。 どこの家でもそうだが、親子三世代の家族形態・・古き良き時代の出来事である。

小学二年生の時だったと思う、祖母が病気で亡くなる前の日から、みんなが布団のそばに集まって見守っていた。 
その朝、「千光寺の桜がみたいのう」と言いながら眠ったので、みんなが大丈夫だろうと寝床を離れた。 私は祖母のそばから離れずに、ずっとついていた。 
本当に眠っているのかなと鼻に手をあてた。 息をしてないような気がして台所の母を呼びに行った。 チリ紙を鼻に持って行ったが、動かなかった。
その時の光景は覚えている。 亡くなったその夜、旅立つ白装束の祖母が夢枕に出てきた、額に三角のあれをつけて。 子供心に不思議で忘れられない記憶。
あの頃は土蔵だった。 親戚の人たちが囲む中で埋もれて行く祖母を、しゃがんで見ながら泣いた。埋めないで・と思った。

母が言っていた、「おばあちゃんはキンセンカが好きじゃった」 そうだったかなぁ。 田舎ではどこのうちでも庭にあったが、私は仏さんに備える花かと思った。
母は季節には良くお墓に供えていたなぁ。 器用で心が広くて人を想う優しい・・大好きだった祖母。
朝頂いたキンセンカで、懐かしく嬉しく思いだした。 花を頂かなかったら、きっと思い出の引き出しに収めたままだったに違いない。

そんな祖母の好きだったキンセンカ・・花言葉を検索してみた。 「別れの悲しみ」「寂しさ」「悲嘆」「失望」「悲恋」 なんだかなぁ・・。 

 楽しみは 懐かし祖母の キンセンカ みっちゃんと声が 聞こえたとき