3月になったけれど、2月の締めをしていない。 草稿中だった記事投稿。
27日の月曜は整形だった。 11時予約で2時間はゆうにかかるからと娘に言っていたので、
お昼を食べに帰る娘に夫の食事を頼んでおいた。
珍しく少し早く終わったけれど、お昼は頼んでいるからまいっか・・。
自転車なので病院近くの市岡元町公園に寄った。 まだ咲いているかなぁと気になっていて。
山茶花を知った時こんな公園が近くにあるなんてと嬉しく思った。
大阪マラソンの折り返し地点のそば。
あの時の往来を走る人応援の人賑わい、何事もなかったような景色が何か不思議な気がした。。
やはり花はほとんど終わっていて、10枚くらい花びらの綺麗なのを撮った、つもりだった。
載せたのは最初の1枚だけ。 後は、ブログにも載せている過去写真。
山茶花か椿か八重は見分けがつかなくなった。
陽ざしが暖かくて、自販機で暖かいカフェオレを買ってベンチに座った。
さぁ、私。 2月をどんな色に染めようか、しっかりしないと逃げるぞ、2月、と
1年前の記事を引用して意気込んだけれど、2月は本当に早々と逃げるように終わった。
気持ちの上で焦らない・・深呼吸。 「自分が思うほど人は思ってない、気にしてないぞ、
なんかいつも焦っている」と夫に言われ、本当にそう思い反省した。 少し楽になった。
同居から2年8ケ月になる。 なんとかいいペースで1日を過ごせるようになった。
自分さえ(パソコンに向かう時間が欲しい!)と叫びたいこともあるが、まぁまぁ。
私だってストレス全くないと言えば嘘になる、コントロールしているだけで。
家が暗くなるのは嫌と、気持ちをすぐ転換して明るい娘から教えられることも多い。
2人暮らしなら世の移ろい、考えも古いままで暮らしていたかも知れないし、
時代の変化にも、変えてはいけない部分、変えていかなければいけない部分がある。
有難いなぁと思う、特に娘達がいると。 そんな時代の変化を教え、見せられるから。
それでも思いや考えが違うことがある。 言えば簡単だが、気まずい思いはしたくない
穏やかに行こうと思えば、「そうやね」こちらが受け入れることである。
老いては子に従え。 どうあってもお世話になる身、介護は行く道であるから。
夫に言わせれば、「黙っとけ、いつか分かるときがくる」 そう信じて言い聞かせている。
この気持ちになれるのは、母のお陰である。
46年間兄嫁さんの愚痴を言ったことが無かった。 言えば小姑4人、お姉さんへの見方が変わる。
お姉さんにはいつも有難いと、感謝の言葉ばかりを私達に言った母の作戦。 すごいと思う。
そんな母の思いをお姉さんも感じとり、娘にも出来ないくらい愛情いっぱいで細やかに
母に尽くしてくれた。 まさに待つ、見守り、寄り添ってきた母だろうと思う。
私は夫に聞いてもらえるが、58歳で逝った父、母は言える人がいなかった、54歳の母には。
元総理の小泉さんではないが、姉妹4人 母とお姉さんには「感動した!」
娘はお嫁さんとは違う、その点やりやすい、ツーカー(古い?)の仲でもある、そこは親子である。
娘にもあるだろうが、私も言いたいことがある、時がある。 しかし母を思い出すのだ。
(全部・・受け入れて来たんだろうなぁ、葛藤もあっただろうに)そう思うと越えられる。
結婚した時「私はお姉さんのお世話になる、女4人いてもいざとなったら役に立たない。
だからお嫁さんを大事にする、陰で悪口言ったら承知しないよ」と釘をさされた。
やられた、母に。
私だって言いたくなる時がある、そんな時は母を思う。 黙って受け入れて来た母を。
自分の思いを言わずに「有難い、感謝」どれだけ口にしてきた事だろう。
夫が言った。 「どんな事でも感謝感謝だった、お陰さん、有難い、そんな毎日の積み重ねで
お母さんは年とるほど幸せな人生を送れたんやなぁ」
亡くなる1年半前認知症が増して施設に入り、尽くしてくれた優しい息子夫婦も仲の良い
5人兄弟さえも分からなくなった、お義母さん。
やりきれない測り知れない寂しさと無念、羨ましくも母を讃えてくれたのだろう。
2月は1月よりも、焦らない・・のお陰で、少し変われたかな、よしとしよう。
さぁ3月も!