しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

木綿橋

2014年12月14日 | 昭和元年~10年
(父の話)

茂平の若い者は交代で福山まで船に果物を積んで出荷していた。
福山までは4~5時間かかっていた。

船に荷を積み夜に福山港に着く。
木綿橋には船をつなぎ、簡単な屋形が付いた船宿に寝泊まりしていた。
活動写真やこをみていた。
橋の右手には遊郭が並び(笠岡の伏越とは比べにならない数の)そっちに行く人もいた。

多いときは二日に一回くらい。

ちぃたら揚げにゃあいけん。ほれで二三人じゃあのうて三四人行きょうた。
船からよいしょ、よいしょ、と揚げて、指定の店屋に持って行く。市場のもんも取りにきょうた。



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陸軍特別大演習

2014年12月14日 | 昭和元年~10年
昭和5年11月陸軍特別大演習が岡山・広島県下で行われた。
大本営は岡山後楽園、第5師団と第10師団による3万人の大演習だった。
福山市には今も「御幸町」が町名に残り、金光町には八重山に「八重御野立所趾碑」が建っている。

(父の話)
陸軍大演習は金光の八重山であった。
このほう(城見)もとおった。
岡山の東軍と、福山の西軍が八重山で決戦をした。
兵隊が行軍していくのを旗を持って見物した。
そりゃ、大勢軍人が来てみぃ、見るだけで娯楽じゃ。
西軍は城見を歩いて通ってから、笠岡で隊を整え金光の決戦場へ行った。
天皇陛下は金光にある八重山という高い山のうえで(決戦を)見物した。


なお、陸軍大演習地の金光に出発しようとしたライオン宰相・浜口雄幸首相が東京駅で撃たれた(翌年死亡)。

その2年後には犬養木堂が撃たれた。


・・・・・・・・・・・・・・

「笠岡商業90年史」

陸軍大演習

昭和5年11月15日 特別大演習を見学する(金光付近)


(なお昭和4年には史書に載る人物が学校に来ている。
5月24日 宇垣大将来校し検閲を受ける
5月25日 本庄中将視察のため来校す)


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昭和3年、初めて普通選挙が実施された。

2014年12月14日 | 昭和元年~10年
第16回衆議院議員選挙は25歳以上男子全員が投票できる最初の選挙であった。(併せて岡山の選挙区域が1区2区の完全中選挙になっている。)

現在の選挙制度に比べると、
男性・・・20~24才は選挙権なし。
女性・・・選挙権も被選挙権もなし。国民というよりは準国民。
なお、大日本帝国の全領土が対象なので朝鮮・台湾にも適用された。


城見村有権者数      511(増加率225.1%)
投票者数          356
投票率            69.6%
         
城見村の投票結果

犬養毅 政友会 庭瀬 1 ○ 引退予定の犬養は担ぎ出され最下位当選した。翌昭和4年田中義一の死により政友会総裁。昭和6年首相。昭和7年5月15日77歳で死亡。
西村丹次郎  民政党 秦 13 ○
星島二朗   政友会 藤戸  1 ○
小川郷太郎  民政党 里庄 216 ○
高草美代蔵 政友会 矢掛 121 ×
難波秀夫 労農党 2 ×
小谷節夫 政友会 正田 1 ○
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新川の工事

2014年12月14日 | 大正
大正12年新川が完成した。

父の話


新川で工事をしょうたのは覚えとる。
子供じゃった。子供じゃ。
新しゅうつけた。それまでは新川は無かった。
それまでは、高うなっとる、観音堂の畑がある、ゆきちゃんかたの水門のところに、(大池の水が)池の水がいきようたんじゃ。
はたがいちから出た水やこで切れ取った。
切れたりしたら、沼りょうたんじゃ。

土手が砂が出るんで、ねじりあぎようてけれるんじゃ。それでまっすぐうにした。まっすぐうにしたら切れん。

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ドンガメの味

2014年12月14日 | 暮らし
小学時代の夏休み、
海で遊ぶと腹が減り、それが苫無であれば家までが遠い。
それで漁師の船からカブトガニを失敬して、浜で焼いて食べていた。

空き腹に通すのが目的だったが、
あのにおいは何年経っても忘れられない(旨いと思ったことは一度も無い)

(父の話)

おいしかったが。
牝は腹いうか頭に肉が多かった。
網にかかるドンガメは船に入れといて、焼いて食うか、隣近所に分けていた。
処分に困るほど、とれてはおらなんだ。
くせいけど、おいしかった。
ほかに食うもんがねぃけえ。
魚はおかずになるけど、ありゃあ合間にくようた。
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屋根の葺き替え

2014年12月14日 | 暮らし
父の話

屋根の葺き替えは十年ごとくらいじゃろうか。
新しゅういれたところは職人でねえとけっこうにならん。そこのところは職人がしとった。
屋根職人が三人くらいで、あとは近所のひとを含めて手伝いだ。

屋根の麦わらは小麦でないといけん。小麦はそんなにない。裸麦じゃあいけん。
で、麦わらは大事に長屋の天井に保管しておく。

麦わら屋根の葺き替えは、そういうことでお金のことだけでなく原料があまりないので、全部新品に葺き替えということはない。
わらの間に新しいわらを突っ込んでいく。という作業である。

その手伝いは家のひとだけでは足りんので近所の人が応援する。
刺し藁ゆうて、刺す締める。わりあいメンドくさい作業じゃ。みんなテゴをしおうてしょうた。
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観音堂の盆踊り

2014年12月14日 | 暮らし
茂平銅山の観音堂の前で、盆踊りをしていたが
いつの間にか、すたれて茂平で盆踊りは見ないようになった。(中止になったのは昭和32年頃か?)


父の話①
そこの観音さまで、(番屋の隣り、小学校とかでなく)踊るのは観音様のとこ。
盆は死んだもんの祭りじゃけぃ、あそこで太鼓を叩いて踊りょうた。
皆来て踊りょうた。
今頃はなんと、踊らんようになった。
若いもんが中心になってしょうたんが、せぃがせんようになった。
じゃけい年よりもせんようになった。
子供のころから、あそこでやりょうた。せにゃあいけんのじゃ。ああゆうことを。
のうなってしまう。
(残念そうであった)

 
②観音堂は茂平中で建てた、ほれで毎年あそこで茂平の盆踊りをしょうた。
昔は若いもんも年寄りもみんなしょうた。
青年団がやる、婦人会がやる、年よりがやる。
店屋も来ようた
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煤取り(すすとり)

2014年12月14日 | 暮らし
昭和30年頃までは、日本中がほぼ農村だった。
農家は藁葺(または茅葺)屋根の家だった。

父の話
年中行事じゃった。大騒動じゃった。
秋じゃ。
笹の、竹箒で天井やこをしようた。
みんなおおちゃくになってせんようになった。
年に一回はしたほうがエエのう、ゆうだけで。

母の話
畳をあげて、(下に敷く)新聞紙を変えて。
さっぱりするけい。
せいから、味噌と醤油をせにゃぁ秋が終わらんゆうてようた。
それが終わりゃなあ、秋がすまんように思ようた。
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茂平のイナ取り

2014年12月14日 | 暮らし
いな取りは茂平の子供にとって夏休み後の最大の娯楽であった。
いな取りに来る人にとってもこの季節の楽しみである。
内海はポンプ場から海に水を吐き出し普段よりいくらか水深を浅くする。・・・水深は20cm~50cmくらいか・・・。

竹篭(ウダと呼ぶ)を自転車や自動二輪車につんで茂平に来る。(車社会の前)。茂平の1週間後が野々浜。(で、その後が引野か?吉浜?・・・そうでないとほかに使いようの無い籠・ウダを持たない。)
9月の第一日曜日、茂平の土手は見物と参加者であふれる。
消防団は制服すがたで見回りする。
土手には婦人会が模擬店を出す。そこでラムネなどを販売する。

いちばんの見所はヨーイ・ドンで一斉に内海に入っていくときである。
2時間前後で参加者は思い思いに終了していた。
堤防の向かい側の外海(ソトウミ)で汚れを落としたり、泳いだり(およいで落とす)していた


(父の話)

ワシの子供の頃にゃもうやりょうた。(昭和ひとけた、または大正には)
やりかたは変わった。
(主催者が変わった)最初のうちは土地をもっとったひとがやっとった。(主催していた)
そのうちの一人に責任持ってやらしょうた。

途中から消防団が(主催)するようになった。
消防がして(その利益を)消防のものを買うようにしだした。
そりゃぁ、ワシが消防におる時からしだした。(昭和20年代の時期と思える・作者)
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茂平の龍王さま

2014年12月14日 | 暮らし

笠岡市史Ⅲ・信仰と行事より
笠岡地方ほど竜王にちなむ地名の多いところはない。そして雨乞い・祈祷がこの地方ほどおこなわれた所はない。
茂平では旱魃のとき、麦藁、小麦藁などを持ち上がり雨乞いをしたが、りおう(竜王)様は以前は満潮には海中に没する所に祀ってあったといい、今でもりおう様の祭りを毎年している。

(父の話)

りおうさまは、浜のあきらさんの前にある。
雨乞いをする行事で、近所の神主さんを呼んでからにぎやかに雨を祈るもの。

今でもつづいている。この頃は雨がよう降るのか回数は減った。

神主さんは決まった日に呼んでいたが、雨が欲しいときは茂平の村の人だけで時々に行う。

めいとし(毎年)する祭りじゃった。
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