しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

【未完】茂平の電話の普及

2014年12月08日 | 昭和41年~50年
昭和30年頃は農協の茂平支所のみ。昭和35年頃は吉本商店と電電公社勤務のN家にあった。

昭和44年頃農集電話が家庭に入った。
家庭電話として一挙に茂平に普及したが、5~6軒が共同で一つにの回線のため、話し中が多いのが難点だった。
1~2年以内に農集電話から脱退して個別電話に変わっていった。
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買出し・ヤミ市

2014年12月08日 | 昭和21年~25年
田舎には「食べる」ものがあった。
町の人々には食べ物が無く、ヤミ市か買出しで調達した。

大正6年生・男性談

茂平にも買出しに来ていた。
(親類とかツテでなく)来る人はぜんぜん知らん人じゃった。
物物交換でもってくるのは衣類がほとんどであった。
こっちは、米麦、芋、なんば、なんきんなどを渡していた。
米はこっちの分も無いので渡す事は無かった。
芋が主であった。

衣類は貴重品で手に入りにくいので助かった。
それは2~3年くらいつづいていただろうか、次第に交換はお金とするようになり、そして買出し者は消えていった。


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満洲からの引き揚げ

2014年12月08日 | 昭和21年~25年
終戦時700万人の日本人が海外にいた。軍人350万人、一般人350万人。一般邦人は旧満州に120万人、混乱のなかの引揚だった。

(大正12年生・女性の話)


葫蘆島(引揚を代表する港)まではゴットン車ででた。
ゴットン車なので雨が降ればびしゃ濡れ。
食事は日に一食。
高粱のお汁のようなお粥。金(かね)の皿で二人に一つ、じゃから夫婦で一つ。
汽車が止まるのは一日一回。止ったとこは(駅でなく)何処ゆうもんじゃない。野宿。

一度だけ、焼けて屋根も半分ないような家か工場へ寝ることがあった。その時は病人や、子供や、年寄りがその中で寝た。
コロ島では荷物を全部検査した。
髪の毛から、上着も脱ぎ、リュックの中まで。荷物は全部調べられた。

知人で岡山県の出身で大きな商売をしていた人、向うへ渡り何年もかけて店をおおきくして財産がある人。
そういう人も最後は3000円。最後は一人3000円。全部置いてきた。

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【未完】昭和21年4月戦後初の総選挙

2014年12月08日 | 昭和21年~25年

初めて女性が投票に行った。初めて女性が立候補した。
男性は既に25才以上は「普通選挙」であったが、初めて20歳から適用された。

GHQは昭和18年の翼賛会推薦を受けた人は立候補できなくした。その結果当選のたいはんが新人候補が(うち女性39人)候補だった。政党数は258あった。

茂平では番屋の隣が投票所だった。終戦の生活難で選挙権獲得の高騰感はなかったが、全国の投票率は男性79%、女性67%だった。

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