しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

国道2号線の工事が始まった

2014年12月17日 | 昭和31年~35年
昭和33年頃、現在の国道2号線の建設工事が始まった。

ショベルやブルドーザーを初めて見た、名を覚えた。
大の児童はトンネル工事を自慢していた。

二号線の作業員宿舎は元隔離病棟の建物を使用した。
毎日学校への行き帰り、作業員宿舎を見ながら通った。
そこは歌の「浪曲子守唄」を思わす光景が見えていた。

(父の話)

(PTAなどでは二号線の工事では工事人夫などで風紀上の問題などはなかったのか?)
あった。
よその人間じゃけい、生徒は個人行動をせんようにしてくれ。親が監視する、いうことで。
親が気をつける。


追記・しかし親が監視するのを見たことは無い。
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茂平にバスが来る!

2014年12月17日 | 昭和31年~35年

それまで茂平にバスはなかった。笠岡に行くにも、福山に行くにも山を越えて大門駅から汽車で。
または用之江のアメリカ屋まで行ってそこで切符を買ってバスを待っていた。
新国道は工事が始まるか、始まっていた頃の事。


茂平に来だした井笠バスは朝~夕方まで日に2~4便だった。
笠岡駅発茂平行で農協茂平で折り返していた。切符売りは番屋がしていた。冬の朝は晩屋のおばさんが火を焚いて、運転手にサービスをしていた。


(父の話)

バスは茂平住民の誘致、頼んで会社のほうにいっていた。

茂平住民が市をとおさず、直接依頼して実現した。
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城見小の校庭に忠魂碑ができた

2014年12月17日 | 昭和31年~35年

(父の話)

(忠魂碑が戦後になって平和教育の校庭できる事が遅すぎたのではないのか?)


音頭を取る人いなかった。
音頭を取る人は軍人に関係している人だ。
のと、学校につくるからには学校の理解がいる。

その時は作ろうと言う事で城見小学校の校庭に創った。


学校にはつくっちゃぁいけんという時代じゃったが、ほかに・・・学校以外に・・作る場所も無く戦前に奉安殿があったところに作った。

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しょうやんの話

2014年12月17日 | 昭和26年~30年

しょうやんはいつも大きな自転車で魚を売りに来ていた。
しょうやんは金浦から来ていた。茂平でも銅山は最後で、売れ残りが回ってきていたようだ。
しょうやんの自転車の魚の木箱には氷がまだ残っていて、うろこの匂いのついた氷を一つ二つ失敬するのが楽しみだった。
親はよく鯨肉を買っていたような記憶がある。
しょうやんは子のみのるさんといっしょに来だしてそれから2~3年後には来ないようになった。みのるさんが一人で来るようになる頃になってしばらくして、車での魚売りになった。

(父の話)

しょうやんは、親の代から茂平にきとった。

今はミーさんの子がきょうる。
宮の下の辺で夕方仕事から帰る人にうっとる。

今は好きな物を好きなだけに買うんで、皆大門のウエルマートやそわぁな店でこうてくるけぃのお。

(しょうやんの時代は家からざるや器を持って買いに出ていた)

魚屋は近辺で捕れるものを持って来ようた。笠岡(笠岡魚市場)のが主じゃった。

それと「送り」があらぁの。よそから氷詰めで持って来るのが。
笠岡の市場で分けて。せぇもきょうた。


時々、うたせがきょうた。
夜、うたせ網をしたのが朝売りにきょうた。

戦前から来ようた。



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城見消防団の話

2014年12月17日 | 昭和31年~35年
(父の話)

ガソリンの消防ポンプになったのは昭和16年ごろじゃったろうか?
高こうてなかなか買えなかった。

それまでは手押しのポンプじゃった。

ポンプ車はそこまで押して引っ張って行き、そこでエンジンをかける。

その時には城見で3台買うて茂平・用之江・大宣に一台づつにした。


車は手押しで運ぶ。ワシらが1番遠くまでひっぱっていったのは金浦までじゃ。


消防訓練

エンジンをかけることだけじゃ。イザという時エンジンがかからんとどうにもならん。エンジンさえかかれば水はひとりでに出る。

消防車が自動車になったのは、笠岡市になった頃が同時に購入した。

大きな火事

それは笠岡にゃあなかった。島であったくれぃ
じゃ。


天野団長のこと

(天野団長は県議会議員で、県議会の大物としてさまざまな役職も多々あった。)

天野さんは議会もあり、あんまり(消防に)でてこん。ほれで、ぜんぶこっちでやりょうた。

副団長は二人おった。署長が職員で、あとは(団長・分団長など)職員でねえ。

合併して(笠岡市発足)から地区団長が分団長いうことになった。分団長を統括するのが団長。団長はみんなで決ょうた。

本職がおるようになって火事もすぐ行くようになった。

それまでは分団が消防車をもってかけりょうた。
本職(消防職員)がおるようになって、せいからは直ぐ飛び出すようになった。

(笠岡市が合併して出来た頃、本職の職員は)あわんな者はおりゃぁせん。ほれで、わしらがしていた頃こしらえたんじゃ。
ほれで別途に「消防署」ゆんが出来たんじゃ。

それが出来たら。”いざ”ゆうたら一番に来るようになりだした。
いつもおるんじゃものう。


それがおらん時は(消防署ができる以前は)サイレン鳴らしても人が寄りょうらなんだ。


消防団の役割は大きい

(消防署が本職をかかえる以前、消防団の役割は非常におおきかった。)

大きかった。今(すぐ署の消防車が発車する)とは比べもんにならん。


(市から貰うものは?)

年一回旅行しょうた。
それは市が出してくりょうた。




(母の話)
初代の会長は番屋のおばさん、次に大本の産婆さんが・・・しとった、ように思う。

(実際の火事への出動は?)
炊き出しに出とった。握り飯やこつくりに。

(ポンプ車での火事の消化活動は?)
したことはない。

(訓練は月に一度くらい?)
会合はあったが、訓練はなかった。

大会・儀式のときに隊を組んででるだけ。
出初式やこの時、笠岡高やこに行きょうた。

(隊員構成は?)

今といっしょ。婦人会はみんな。
会合におうちゃくな人が出ないだけ。

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記事のDDTは頭から

2014年12月17日 | 昭和26年~30年
頭の髪にはシラミがいて、着物にはノミが何匹もいた時代。
小学生女子にはシラミ退治のため、まっ白い粉を頭からふりかけられていた。

男子は坊主頭で対象外、女子がやられる(?)のを見ていた。


(姉の話)

イヤダネェ!!!
運動場で。
一列に並んでね。
掻けてもらったんよ。気持ちわるぃ。
くしゃみは出るし。真っ白にはなるし。
粉をかけまくるんよ。
おじさんはどうしてこんな事を。と、憎らしゅうてね。
きゃーきゃー言いながら。
パタパタ粉を叩いて(服の粉を落としていた)
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茂平の堤防をトロッコが走る

2014年12月17日 | 昭和26年~30年
昭和20年代の末頃、茂平の堤防(内海側)には
高丸から水門付近まで一直線のトロッコが走った。


(父の話)


苫無から茂平の水門までの堤防工事は八百万円で行った。
工事作業者は主に茂平・用之江などからであった。

高丸からトロッコを使用して、堤防の内側を補強する工事であった。
目的は台風・高潮などで茂平の堤防が決壊の心配が常にあったから。
ポンプ場も併せて新しくした。

(民間建設会社ではなく)村の直営工事でした。

高丸の上からトロッコで(土を積んで)降ろしょうた。
上からと~~んと降ろしょうた。若い人は平気で。
大怪我をしゃあせんか、言うくらい。危ない事をすんじゃ。
ほとんど助成でやっとった。国の助成金で。
それだけ運動して国から取りょうた。港湾関係はほとんど国の助成じゃった。
村であわんな大きな仕事は出来ん。
内海側を補強して(堤防自体を)強うした。
幅もちいと広げての。
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城見村は笠岡市になった。

2014年12月17日 | 昭和26年~30年
昭和28年10月城見村は笠岡市と合併した。

(父の話)

名義を変更するのが主であった。
城見小学校・村道そして茂平で言えば山があった。
城見村の場合大宣は、大宣の更に小単位での協同所有地が多く市への名義移管は少なく、茂平にあった村有地の笠岡市への移管が一番多かった。
茂平から多かった見返りとして茂平に道路工事をしてもらった。

合併はまず住民に説明会を開いた。
茂平はばんやのとなりの公民館で、用之江と大宣もそれぞれ公民館で住民に説明会をした。
説明は村長が主にした。
合併に対する意見(質問)や、反対意見もなく、ただの説明会であった。
反対意見はなんもありゃぁせん。
城見村議会での合併決議は全員賛成で可決された。
(合併に対して祝いの行事は、城見村は何かしたか ?の問いに)
なんもしとらん。なんも、ありゃへん。

市会議員の改選までは「協議会委員」という名目じゃった。
村会議員の時と同じように、城見地区で問題があれば(旧)村会議員で相談して。ということで、だいしょう(お金・手当てを)くりょうた。
最初の市会議員のときまで。それは陶山も城見も同じ。


のぼるさんは村長辞めて引退した。
村長は終戦後選挙で選ばれた。
選挙で選ばれたのはのぼるさんだけじゃ。
後は(戦前は)村会議員が談合して、決めっしまようた。


施設状況(昭和28年9月30日現在)
役場 延200平方米
小学校 1
保育所 1
伝染病隔離病舎 1
漁港 1

歴代村長
初代 大本苦楽一 M22・7・24~M25・4・10
二代 藤井偵太 M25・4・28~M29・4・27
三・四代 藤井偵太 M29・5・9~M37・5・8
五~八代 松浦亀寿 M37・5・17~T9・5・16
九・十代 松浦亀寿 T9・5・21~S3・5・16
十一~十三代 藤井益一 S3・5・21~S15・3・27
十四代 藤井久我太 S15・10・01~S19・9・30
十五代 加藤円ニ S19・10・01~S21・7・18
十六代 松浦昇 S22・4・5~S26・4・4
十七代 松浦昇 S26・4・23~S28・9・30

歴代村議会議長 初代 鳥越義夫 昭和22年5月10日~昭和24年4月25日
二代 山本武男 昭和24年4月26日~昭和26年4月29日
三代 山本武男 昭和26年5月8日~昭和28年9月30日



なお、「岡山県合併史」には下記の記述がある。
第三次合併 昭和28年10月1日 近接6村(小田郡城見村・陶山村・大井村・神島内村・吉田村・新山村と合併
近接2町7村(小田郡城見村・陶山村・大井村・神島内村・神島外町・吉田村・新山村、浅口郡大島村・里庄町)と昭和28年10月1日を目標の基本計画であった。
大島村・里庄町は郡を異としていて時期尚早で、神島外町は赤痢発生の対に追われ参加体制とれず見送った。
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城見村議会議員

2014年12月17日 | 昭和26年~30年

シャウプ改革以降市長村民税は「市長村民税」と「固定資産税」を中心の税体系となった。1950年度で両者の合計は80%を占めていた。
歳出の高いものでは、約20%を占める教育費とこれにつづく役場費があり、続いて土木費、産業経済費、社会および労働費などの順になっている。人件費をふくむ役場費が1955年度18.5%と高水準を維持している。

(父の話)

議会の報酬は年間100円ほどもらっていただけ。
いまでいうボランティアみたいなもんだった。
それと名誉職のようなもの。金もつこうとらん。
今は手当ても多いが、出る(出馬する時)時に金がいる。金持ちしかでれん。

予算は教育費。(突出して大)
次が産業経済費。
村役場費と続く。
何処の村の予算の構成も同じ。
城見村の議会の日数は?

飛び飛びで(年間累計)一ヶ月くれぃ。月に2~3日役場に行って(助役などから)相談受きょうた。
(その頃の城見村議はみんな百性だったのだろうか?)
みんな農業じゃった。おりゃあせん。
(百性仕事をしながら、行政・議案の勉強は出来ていたのだろうか?)
分からんのじゃ。年寄りはわからんのじゃ。
提案するんでもコッチが(自分が)若かったので作って(役場の人と打合わせ)議案を出していた。
ほれで、こうこうこうじゃ言うと(議員も)、ああそうか、それでええ言うてようた。分かるもんか爺さん議員ばっかりで。

ワシは役場に勤めとったし、数字もわかるし。そういうことで、なんやかんや皆こっちが(年寄り議員に説明を)しちゃりょうた。

(村の権限は限られていたのではないか?)
村の役人の給料、学校の先生の給料。
県が助成してくれても村が決定せんと、なんもきめられん。
じゃけい議員は強かった。
ワシは教育委員と土木委員と両方もっとった

(当時、城見村の上部は県になるが陳情等はどのようにしていたのか?)

岡山県小田郡城見村ようた。
西の浜の土木事務所、やこに行きょうた。
港湾やこ(県の出先では)むずかしい時にゃあ、県庁まで行きょうた。
県庁へ行く時にゃぁ、「何を持っていくか?」いうて。
(茂平の漁師が捕り立ての)いちばんエエ魚をくくんで持って行きょうた。
それをもって係長の机のほとりに置きょうた。「おお、すまん。すまんのう。」ようた。
そうやってしちゃらにゃあ、してくりょうらなんだ。
持って行ってやりゃあ、ようしてくりょうた。持っていかにゃあしてくれん。

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祝・日本の独立

2014年12月17日 | 昭和26年~30年
昭和26年9月サンフランシスコで講和条約が結ばれ、翌
昭和27年4月28日
日本は被占領国家から独立国家に復帰した。


小田郡城見村の祝いの行事について。


(父の話)


(城見村ではどのような祝賀行事をしたのか)

これいうのは無い。

村としては別にしてない。





という事で、まだ生活することに精一杯の状態の城見村。それと、国民にとってマッカーサーの日本支配は関節統治であったために実際には国民生活になんの変化もなかった。
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