しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

武徳さんが衆院議員に立候補した

2014年12月16日 | 昭和21年~25年
昭和24年1月23日第24回総選挙に用之江の武徳さんが立候補した。
地域民は選挙法も知らず・考えず、応援に歩いた。、

(父の話)


「アレは城見からきたやつど」とよその目がみようた。
はじめてなんで皆、選挙の法についてわかななかった。
しちゃあいけん・・・ことはいちおう聞いていたが、活動にあるいているとそうはいうちゃおれん。
自転車であるく、または単車で歩く。車を運転できる者は活動員を運ぶ。降ろす。でひとを運んでいた。
(妻の実家のある)井原には、よく行った。



そわあなことはしちゃあいけんと思う取ったが「いろいろ(選挙活動で)世話になったんでやらにゃ。」で飲み食いの会をした。
(用之江の武徳さん自宅近く民家)
中には密通したのがいる。
多くの違反者がでた。
違反者はだれとだれが出席したというのを白状しとった。
用之江や大宣のものはようけいさばられた。

ワシは消防団長をしていたが、その頃警察と消防はいっしょに飲み食いすることがあり「あんたの写真も背中がうつっていた。(が証拠となる顔は写ってない。)」ということで逮捕されなかった。
最初の選挙の時じゃった。



○ 犬養健 78638
○ 近藤鶴代 45911
○ 橋本龍伍 41370
○ 星島ニ郎 37264
○ 中原健次 31541
× 加藤武徳 29475
× 豊田秀男 26193
× 多賀安郎 20797


なお、武徳さんは次の参議院選に立候補。30才で一番若い当選者となった。


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伝染病

2014年12月16日 | 昭和21年~25年
(母の話)

あんなに伝染病いうのが怖いもんかという事を知った。

ウチではおばあさんと、りさぶろーじいさんがなった。その頃保険所は無いんで役場から二~三人きて土間や便所や畳に粉を撒いた。

長女を背おって隔離所までいきょうた。お腹には長男がいた。

出何処は隣のカーさんじゃったが、カーさんは直った。
茂平だけでなく大宣では長女の同級生の○○さんのお母さんがなって、死んだ。
○○さんは一番勉強がよおできていて、いいところに嫁にいった。今でも会うことがある。



(父の話)

新林池の前に隔離所があった。戦前からあった。
終戦後伝染病がはやり、隔離していた。
当時うちでも伝染病でりさぶろーお爺さんが死んだ。
隔離所はしんばやしがもりをしていた。
要らんようになって、市に合併した頃、市に移管した。


城見村の施設としてあった隔離所はウチでもおばあちゃんが一時はいっていた。
赤痢や疫痢になった人は普通家で看病していたが隔離するよううるさく指導され、連れて行くようになった。
軍隊にいるとき家に(一時)帰宅する場合”家に伝染病のひとはいない”ことを確認してからでないと帰れなかった。

施設はいつも人が隔離されているというのでなく、多い年、また季節により(冬はいない)変わっていた。
看護婦・・といっても見習いにけのはえた程度の・・・もその際は常駐していて医者は適時にきて帰っていた。
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戦後の食糧難 (井原市史・鴨方町史より)

2014年12月16日 | 昭和21年~25年
井原市史

「井原市は農村であったので食糧にはあまり困らなかった方だが、それでも農家1人1日約3合の保有米。
非農家1人約二合配給米ではどうしてもやっていけず、ぬかぱん、いもずるなどを食べる家庭もかなり見受けられた。

食糧不足もさることながら戦時中特に困ったことは応召による人手不足。軍需品生産優先による生活必需品の欠乏であった。
砂糖は一斤約30銭であったが、ほとんど店売りも配給もなかったといってよく、戦後は格農家とも3坪程度、サトウキビを植えて砂糖を絞っていたが、中には一反くらいトウキビを植えても受けた農家もかなりあった。

塩・魚・衣料・油・酒・石鹸などの不足は特にはなはだしく、中にはしようがないので笠岡市の海まで大八車に樽を積んで海水を汲みに行き、たこ村の坂まで帰ると樽のせんが抜けて海水がこぼれ落ちてしまったという笑えない話もある。

衣料店に行っても衣料はなく、魚店に行っても魚がない、酒屋に行っても酒がないのが実情であった。

酒や魚は冠婚葬祭の時、役場でもらった切符によってわずかに手に入る程度であった。

タバコも1日3本程度の配給しかなく、しかも巻いていないので自分で巻いて吸はねばならなかった。
タバコは1箱朝日17銭、バット8銭、光10銭、さくら18銭であったが40~50銭のヤミ値がしていた。

衣料も点数制で買うようになっており、晒木綿1ヤール約20銭、キャラコ1ヤール42銭、麻洋服地1ヤール1円62銭。であったが普段はもちろんカーキ色の国民服で背広などを着用することは皆無であった。

政府は物資物価の統制を行い配給制にしたが、絶対量の不足はおおうべくもなく、都市の食糧不足はいよいよ深刻の度を強い、やみ取引が横行した。
井笠鉄道や井笠バスは車両も少なかったのであるか、井原市への食糧買い出しの都会人で満員であった。
しかも石炭不足石油不足で鉄道もバスも木炭を燃料としていたため、30分や1時間の、延着は珍しくなかった。

自動車やトラックは徴用されてしまい、大衆はほとんど自転車を利用したが、その自転車もチューブやタイヤが不足でノーパンというダンゴゴムのタイヤを使った。

これらの買い出し人はイリコ(干魚)衣料・石鹸・砂糖などを持ってきて、米や麦にも豆などと交換して帰るのが通例であったが。時には米1升、20~30円くらいの高い闇値で買って帰ることもあった。

しかもや闇値ならいくらでも品物が手に入るかというと、なかなかそんなわけにはいかなかった。また各家庭からは金火鉢・扇風機はもちろん蚊帳のつり手に至るまで金具という金具はほとんど供出し、お寺の釣り鐘や、日芳橋・新橋などの手すりまで、撤去して銃器や弾丸の製作にあてるまでに至った。

またどの家庭も1人や2人の応しゅう者や徴用者を出しているので労働力の不足に悩み、小さい子供にまで重労働をさせる有様で、小学校の児童、特に高等科の児童は重用がられ、これらは学校命令で人手不足の家庭のため田植え、稲刈りなどの手伝いに出かけた。


戦争の打撃は中学校教育にも及び興譲館中学校は三菱水島航空機製作所や倉敷倉紡万寿工場に、井原高等女学校は倉敷倉紡万寿工場や三和被服工場に学徒動員によりそれぞれ業をやめて軍需品の生産に従事し、小学校は小学校で実習田の耕作に力をいれたのである。


実習他の耕作に力を入れたので、学習時間が不足し、学用品の不足とあいまって学力の低下はおおうべくもなかった。都市の児童は児童で、毎日空襲に悩まされた学習も落ち着いてできず、親元を離れて集団疎開をすることになった。井原市へも兵庫県神戸市麻耶小学校などの疎開があり井原町疎開寮・西江原町法泉寺・高屋町天理教会に分散止宿して井原小学校・西江原小学校・高屋第一小学校に通学していた。」


鴨方町史

「外出する時は、なるべく家にて小便を済ませ、見苦しい立小便をしないで、肥料の散逸を防ぎ、また、衛生的に考えても、貯蔵されたい。
夏季は特に窒素を損失し易いので、水にてニ~三倍に希釈して貯蔵し、肥料不足をわずかでも補い、食糧の増産に協力せられたい(人糞尿”窒素0.54%燐酸0.13%加里0.27%)。」

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結核で死ぬ話

2014年12月16日 | 昭和26年~30年
結核は長く日本の死亡率一位の「死の病」だった。


(母の話)

結核では大勢死んだ。
早い人は女学校の五年くらいで死にょうた。

薬が無かったんじゃけい。

(従兄弟は)学校の先生しょうたけぃ健康診断があった。それで、ひっかかった。結核がわかった。
嫁さん探すようたやさきに、そしたら結核じゃゆうてわかった。

「養生せにゃあいけん」ゆうてようたが、食べモンがなかろう。
へいで、鶏を飼おて『卵をたべぇ、たべぇ』ゆうてようた。せぃくれなことじゃ。

栄養食べて遊ぶしかねぃ。昔から結核はそうようた。「栄養とって遊べぇ」ようた。せぃだけのことじゃ。

めじろを獲って遊んでばぁ歩きょうた。
卵、卵ゆんで、「もう卵ばぁ、ほしゅうねぃ」いいだした。

ほれで、薬がねぇんでしでぃに弱ってな、・・・・かえぇそうにあった。・・・しめぃにゃ二十四・五で死んだ。

死ぬる時分に、・・・なんか肋骨を切りゃあ直る。ゆうていいだした。
じゃけどすすんどるけぃ、それもできなんだ。

ちいと早ようなけりゃいけんそうな。

結局しめいにゃ、どうにもどうもならんようになった。


ほれで早島の療養所にいった。このへんでは小平井にもあったが、岡山県では早島が一番大きかった。
おじいさんが見舞いに行った。

まだ若いけぃ気はしゃんとしとる。「かわいそうにあった」ゆうたが、・・・ほんとに。
「かわいそうにばぁあった。行かにゃぁえかった。」ゆうてようた。

直らん病気じゃった。へぃで恐ろしかった。

意識だけはしゃんとして、それで、死んでいく病気じゃった。薬が無かったんじゃけい。

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「人命を救ったペニシリン」講談社・昭和より

2014年12月16日 | 昭和26年~30年
ペニシリンは、肺炎・中耳炎・破傷風・結膜炎・性病など細菌類の病気に効き、副作用もほとんどない「夢の万能薬」といわれた。
20年天皇の「人間宣言」を執筆中の幣原喜重郎首相が肺炎となりGHQの軍医長がペニシリンを射った。その効果は強力だった。
値段は昭和21年3930円から23年には513円まで下がった。


(父の話)

ペニシリンは万能じゃった。よう効きょうた。

肺炎なってもペニシリンを注射すりぁいっぺんに直りょうた。

戦前はなかった。

戦後は病気のひとも多く、なにぃでも効くんでなんでもペニシリンじゃった。
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人糞船が神戸から来る

2014年12月16日 | 昭和21年~25年

(父の話)


肥えを積んだ船が茂平に来ていた。

神戸から来とった。
船の真中辺に肥えを積んどった。

それを金を出して買おとった。
浜に入った船に荷車にコエタゴ積んでしんがいの畑の野つぼに移し、せえから、また船に行って買おて今度は他の畑にうつす。


そわあなのは戦中から戦後まで3~4年続いたじゃろうか。


(人糞肥料はどんな野菜や果物に適していたのか?)
何ににも効きょうた。
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