しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

千人針

2014年12月15日 | 昭和16年~19年
千人針は1000人の女性が、白布に一針ずつ「武運長久」の文字を縫い付ける。兵士の戦場での幸運(弾除け)を祈るお守り。


(母の話)

戦争が激しゅうなると(千人針を)しつきょうた。
(国防婦人会のような)集会の時、そこで次から次へ(何人分も)針をいりょうた。

虎年の人は強いゆうて何針でもいりょうた。
今でも虎年のひとはみな元気じゃ。
駅や役場の前にはどこへ行っても並んで女性に頼んでいた。
すぐ終わるんで針をいれとった。

赤紙で召集の人はすぐ野戦へ行く人が多く、(気の毒な意味を含め)今で言う共同募金のようにして協力しょうた。
乙で徴収の人も同じじゃった。
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出征兵士の見送り

2014年12月15日 | 昭和16年~19年
父の話

茂平の人たちは用之江の県境まで送ってくれる。
そこでお礼の挨拶をして別れ、大門駅に行く。

県境では同日に出征するする人も同じ、で早くきた人は待っていた。
大門駅には身近な人のみが付いてきてくれて見送りをしてくれた。
県境まで見送りに来た人はそこで次の汽車がくるまで待っている。

出征軍人は大門駅で汽車にのり、窓から手を振り県境にいる見送りの人に知らせる。
県境の見送りの人も一生懸命旗を振っている。

そうしてはじめて見送りの人は帰る。

兵隊は死にに行くようなもんじゃったけい、そのようにしてくれていた。
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旧軍物資

2014年12月15日 | 昭和20年(戦後)
「旧軍物資は膨大な数量に達していた。冬衣422万着、夏衣377万着、その他、軍靴、食料など。
正規なルートで放出されたのはその一部で、大部分は横流しされ、ヤミ市へ回った。」
研秀「昭和史」より

父の話

軍隊には帳簿上処分されたことになっている(簿外の)品物が多くあり、持ち帰れないので
賀山の兄貴と岩倉の兄貴にも声をかけたら自転車に乗って取りに来た。

軍靴・服を出してやったらみな持って帰った、よろこんで毛布・コートなども持って帰った。軍隊の生地はよかった。自転車に積めるだけ積んで。
ぶら下げて。(その格好が面白かったのか、笑いながら)

軍の物は焼けた事になっていた。
あの時分は何んも無かったんじゃけいのう。


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玉音放送

2014年12月15日 | 昭和20年(終戦まで)

朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ・・・・・・。


戦争は負けた。




父・岡山の陸軍病院
陸軍病院の庭に全員集合して聞いた。

ワンワンようたが、
聞き取りにくかったが意味するところはよく分かった。
「日本は負けん、これからじゃ!」と勇ましいのを言うのもいたがすぐ収まった。

(勇ましい事を言う人は、それが一週間くらいはつづいたのだろうか?
2~3日だったのだろうか?
それとも一晩寝ると収まったのだろうか?)

『決起する』といっていたのは・・若い・・兵である。(将校でも下士官でもない)
終戦で「ほっと・・した」のが・・ホンネ・・大部分なので、勇ましいことをいうのは不思議でもないがその時点で既に少数意見(というくらい敗戦の状態の現実と、厭戦気分であった)であった。
いさましいのはとても一週間はつづいていない。いってみれば一晩寝ればおしまいの『決起する』であった。


母・茂平

(その放送があることは「隣組・回覧版で知ったのか?」)
回覧も何もありぁあせん。
「重大放送がある」と繰り返し、ラジオがしつきょうた。
家でラジオで聞いた。
もう戦争が負けるんじゃけえ、そりょを言うんじゃろう思うとった。

(茂平みたいな)田舎の人でも、「そりょう言うんじゃ」言ゆうてようた。
じゃけいわかっとった。


おば(満洲・吉林市)

玉音放送は聞いた。
社宅の前にみんな集まって、いっしょにラジオを聞いた。
あれはほんとに天皇の声じゃった。

「おおお~」いう声だったが、わかったのは『日本が降伏した』ということ。
内容ははっきり聞き取れなかった、だがその意味(降伏・敗戦)だけは聞いてる人、みんなわかった。

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城見の空襲警報

2014年12月15日 | 昭和20年(終戦まで)
沖縄戦が終わり、いよいよ本土決戦が現実味を帯びるころ
城見の空にも、空襲警報が幾度となく鳴った。


父の話

ラジオの情報が主。
朝も昼もなかった。

(茂平?)あの時分、6月や7月頃じゃ、桃や梨の袋掛けをしょうる。
鳴っても・・入るも逃げるも・・・ナンもできゃあせん。し、(忙しくて)それどころじゃあねぃ。

人間を見ると機関銃で撃つってくら。危ねいけえ隠れぇ、ゆうて木の陰に行くくらい。

空襲警報・警戒警報は今の半鐘、警報台からサイレンが鳴りょうた。
せえだけじゃ。

「鳴りょうるのう。」、言うてようた。
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日本初・茂平婦人消防団

2014年12月15日 | 昭和16年~19年
山陽新聞社から発行されている「岡山県戦後の50年」という、分厚い報道写真集の本がある。
この本に「茂平」が登場するのは一ヶ所だけ。それは昭和30年の茂平婦人消防隊の訓練である。

戦時下の昭和16年、日本で初めて「婦人消防隊」が既婚女性90名で発足した。
どうして、茂平にだけ婦人消防隊ができたのだろうか?

父の話

それはのう、みんな若いのは戦争へ行って消防の団員がおらんようになった。少のうなった。
それとのう、あの頃古いポンプがあった。いらんようになったのが、それを婦人消防隊にやった。
古い(手漕ぎの)ポンプ車で始めた。

(それだけの理由では弱い。何処の村も町も似たような状態。 茂平に火事が特別多かったのか?)

茂平に火事が多いんじゃあない。
用之江や大宣には山に囲まれ坂があるし、イザという時(応援の消防が)来るのが遅い。
茂平は山に囲まれ、まとまっとった。「おい」言えばみんな集まりょうた。村の人間が、すぐ集まるまとまりがあったんじゃ。
男がそうじゃけい、女もそうじゃった。

おじいちゃんが兵隊から帰って、こっちへ帰っとる時にこしらえた。ださあの親父が消防の親分をしとる時じゃった。

(母の話・結成の1年後に母は茂平に嫁いできた)

嫁入りと同時に「国防婦人会」と「消防」には・・・当然のように・・・入った。
大本の産婆さんが役というか世話をされていた。
(できたのが)早かったので、めずらしかった。
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大政翼賛会

2014年12月15日 | 昭和16年~19年

昭和15年10月近衛内閣時、「大政翼賛会」が発足した。
以後歴代の首相が代表を務め、国家総動員の旗振り組織となった。



父の話

その頃、役場に行っていたのでつくった。
本部を役場に置き、一般人から会長をだす。
まつうらはるおさんを大将にしてつくった。
一般人の意識を軍に染めるのが目的であった。
皆入らなければいけない時代だった。
軍が言ってくることを伝達していたが、特にこれをしたということはない。政治的な団体であった。


戦時中の唯一の昭和17年の衆院選挙は”翼賛選挙”と呼ばれる。
当選者466人中推薦人が381人、非推薦人が85人いた。
岡山2区では星島二郎氏が非推薦人で当選。
この選挙で当選と落選を問わず、非推薦人が戦後の政界をリードした。




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満洲開拓団

2014年12月15日 | 昭和16年~19年
国策として「満州移民団」が各県に割り当てられた。
岡山県には昭和12年~昭和16年の5年間に1670戸の募集計画が作られた。

(父の話)

茂平からは誰も行っていない。
多分城見からもいかなかった。
百姓の次男坊・三男坊にいったらどうかといことじゃった。
満州に行けば広い土地があるのでそっちへいったらどうか。という、とおりいっぺんの募集をしただけ。(城見では)が山に囲まれた大島では募集をするほうも本気で、結局(現・笠岡市では)大島からは何人かが行った。
「家族ぐるみで満州へ行けぃ」いうことじゃった。
大島は山ばっかりで、満州に行けば土地がいっぱいある。ゆうことで宣伝。進め方で、県の方針じゃった。
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【未完成】皇紀2600年の祝い

2014年12月15日 | 昭和11年~15年
20世紀で最大の国家イベントであったであろう「紀元二千六百年記念行事」が昭和15年11月10日から14日まで盛大に開催された。
終了と同時に大政翼賛会は「祝ひ終つた さあ働かう!」のポスターで引き締めた。実態は「祝ひ終つた さあ戦おう!」の状況となり、祝いの1年後日米開戦となった。



父(当時・東京の陸軍病院)
その時は東京にいた。
傷痍軍人であったが大きな会社から車で宴会場に招かれご馳走になった。
電車という電車は全部花電車であった。
東京の街中がきれいに飾っている感じであった

母(当時・後月郡西江原村)
もう戦争に入とった。
にぎやかに祝うた。
「時は、にせんろっぴゃくねん・・・・・・」
旗を持って歩いた。
今は西暦で言うんで、ようわかりぁあせん。
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隣組制度・興亜奉公日 笠岡市史Ⅲ

2014年12月15日 | 昭和11年~15年
昭和12年7月7日、日中戦争勃発に伴い、政府は国民を急速に戦時体制に動員するため、挙国一致、尽忠報国、堅忍持久を三目標とする国民精神総動員運動を始めた。

昭和14年時局はますます緊迫の度を加えてきた。政府は内閣告諭を発して「興亜奉公日」を設定し、「毎月1日を国民挙って戦場の労苦をしのび、自粛自制の気持ちを実際の生活に具現する」一日とした。
岡山県もこれを受け、各市町村、小・中等・青年学校、警察署長たてに通牒を発し、一億一心奉公の誠を尽くし、強力日本建設の源泉となる一日になるよう指示した。

市町村は管内の官公庁、神社、寺院、銀行、会社、工場、各種団体に対して、興亜奉公日の趣旨徹底のため、印刷物の配布掲示を要請し、毎月一日は各戸国旗を掲げ、神社参拝ををして皇軍勇士の武運長久を祈り、前線に慰問袋を送るよう奨励するとともに、華美なる化粧、服装を廃止し、質素なる食事などさまざまな規制をした。(笠岡市文書)
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