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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

満洲帝国②帝国の崩壊

2014年12月11日 | 昭和16年~19年
昭和20年8月8日ソ連は満洲に侵攻してきた。
ロシア兵による殺戮、暴行、強姦、強奪が始まった。

大正12年生・女性談(吉林市)

天皇の玉音放送を聞いたら、もう日本人は全員殺される思った。

ロシアが明日やってくる。ロ坊主(ろぼうず)ゆうてようた。
ロシアがきたら、女性は全員出ていったらいけん。
頭は坊主にして、顔に炭を塗って。
社宅をくりぬいて、一部屋にして。
畳をあげて下に隠りょうた。
あるものは全部盗られた。
腕時計まで取られた。

ロシア兵の下っ端がそういう事をした。
石炭箱に隠れたり、下っ端が怖かったけぃなぁ。


社宅から近いところに大きな病院があった。
そこのお嬢さんが大学にいきょうちゃった。
綺麗な娘じゃった。
その娘を(ロシア兵が)連れていんだ。
連れさられても、どうすることもできんし。見るだけじゃった。

遊ばされたんか?それから殺されたんか?・・・・



ある時、自分の部屋に八路軍が入ってきた。なんか悪いことをされたらいけん思い、とっさに台所に行き庖丁をもって前に向いた。
もう、その頃、命は惜しゅうない思ようた。自然にとっさに(そういう行為に)でた。
そしたら向うが恐れた。ピストル持っとるのに。
手を上げて向こうが出ていった・・・こともある。



馬車が、マーチョと呼んでいたが。
それが、家の前を死体を山ほど積んで何台も、何台も通りょうた。
死体じゃいう事は(荷台の)上に隠すように布を掛けていたが、馬車の下へ血がぽっとぽっと落ちょうた。
日本人の死体を焼きに運びょうる。
ありゃぁ軍隊の兵隊じゃ思ようた。
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満洲帝国①五族協和の「王道楽土」へ渡る

2014年12月11日 | 昭和16年~19年
満洲帝国は日本の支配下であったが、産業の近代化が急速に進んだ。

大正12年生・女性談(嫁いで吉林市に行く)

吉林では農産公社の社宅へおった。
朝は起きたらもう、スチームがシユウーと入りょうた。

ドアを開けたら手の皮がひっつく。それで手袋をはめだした。
買い物に行くと。滑って、こきょうた。

外へ出るときは。寒いのでマスクをする。
すると、マスクの上から息がでで、その息が目に係り、こんどは睫毛が凍る。
まばたきもできん、(上と、下の睫毛がひっつくので)

寒くて鼻水がでると。鼻水が凍る。

すごい寒いとこ。


日本人ばっかしの所に住んどった。
会社の上の人は全部日本人で、下っ端は全部満人。

日本人は「タイジン・タイジン」偉い人じゃった。
日本人はいばりょうた。
向うの人をコマ使いのように思ようたんじゃろ。

じゃけい戦争にまけたら、それがひっくり返った。
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ないないづくしの「タケノコ生活」

2014年12月11日 | 昭和21年~25年
衣食住、すべてないないづくしの耐乏生活で1000万人が餓死すると言われた。
衣料価格は食料以上に値上がりした。

大正6年生・男性談

タバコ
知人から苗をわけてもらいそれを植えていた。
葉っぱを陰に干してからもんでそれを紙に巻いて吸っていた。
ポンポンの葉っぱもそのようにして吸っていた。

どちらも同じようなもので煙が出る程度じゃった。



薬局をしている弟からアルコールをもらい、それを水で薄めて飲んでいた。
各家によってルートはさまざまだがそうしてアルコール類を皆それぞれ入手していた。
大津野の飛行場の辺に朝鮮人がありそこに買いにいくこともあった。
朝鮮人がつくるのは芋でつくるとか言っていたが、焼酎を造っていた。
その焼酎は匂いがあった。

砂糖
(薬局の)弟の家からサッカリンではないが似たようなものを分けてもらっていた。
正月の餅の・・・今で言うアンコロ餅・・・アンコは芋のアンコじゃったが、芋にそれをいれて甘味を出していた。

(ささげ・あずきは作っていたのでは ?との問いに)
それは売るためじゃった。
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干しいちじく③改良研究実施方法

2014年12月11日 | 昭和36年~40年
(1)燻蒸室を改良して温度を80度以上に上昇し、硫黄を少量して燻蒸乾燥する方法(扇風機使用)
(2)生果を砂糖水(20%)で五日間、30%で五日間、40%の砂糖水で五日間浸漬した後取り出し陰で乾燥する方法。
(3)生果を40%の砂糖水煮沸後天日乾燥する方法。
(4)その他化学薬品による方法等。

 以上いずれも乾燥方法製造方法に日数を要し、人件費、材料費が高くつき、品質でも色が紫黒色化して自然食品とは思われず、そのうえ生産コストが高く、組合として製造改良の研究を中止する。
 昭和39年このままの製造では食品衛生法に抵触した場合の対応に責任がもてないので製造販売を中止する。
 昭和40年に生食ようとして市場出荷、食品加工会社へ生果原料等として販売したが、単価が安く収支が合わないので、各自に生木を切り倒して在来種のいちじくに改植を行う。 
 以上昭和40年産より特産珍菓干いちじくは市場より姿は消え去った。

資料「高梁川」昭和63年12月20日発行・干しいちじくの今昔

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干しいちじく②製造方法について

2014年12月11日 | 昭和36年~40年
八月~十月に生果を穫り、燻蒸室に入れ、温室六十度以上硫黄でむし、一週間天日乾燥を行い、手作業で平たくする。

十一月より集荷検査小箱詰を行い、翌年五月迄に笠岡特産干いちじくとして各地に出荷する。栽培面積五ヘクタール。


昭和三十五年頃より食品衛生法に依る検査がきびしくなり、干いちじくも硫黄分の含有量が検出され、組合として岡山県農業試験場、岡山工業試験場、大阪府立園芸試験場の諸先生を講師として現地において製造乾燥法の研究を重ねる。



資料「高梁川」昭和63年12月20日発行・干しいちじくの今昔
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干しいちじく①干いちじくの変遷

2014年12月11日 | 昭和36年~40年
いちじくは高温な気候を好み、笠岡市茂平に古くより生食用として栽培され、葉及び果実は整腸剤としての薬効があり、品種は在来種(蓬莱柿)を栽植していた。

 明治の中期に糖度の高い西洋種ホワイトゼノアが導入され、地元の大本幸太が干菓製法を考案(完熟した生果を硫黄でむし、天日乾燥を行い果を平たくし一週間で製品となる)製菓会社へ販売していた。

大正時代~昭和の初期には栽培者も増加し、乾燥方法も研究改良を加え、各戸に燻蒸室を作り、練炭火力と硫黄でむし、天日乾燥一週間で良質な製品が出来るようになり、栽培も盛んにとなる。

 昭和七年茂平干いちじく組合を結成、干果の協同集荷、検査、販売を行い箱詰(五〆目入)にして神戸、大阪、横浜へ協同出荷するようになる。

 昭和十三年、納屋を改良、小箱詰(二十五~三十ケ)を一箱とし、”珍菓ほしいちじく”として県内及び県外の市場へ出荷販売する。

 昭和二十年、戦中・戦後の食糧難時代には手作り自然食品として、岡山鉄道弘済会を中心に全国に販路を広げ、笠岡特産干いちじくとして広く愛用された。

 昭和二十七年、農村加工優良組合として山陽新聞社より表彰を受ける。

 昭和二十八年、農村加工推進補助事業として、国の補助をいただき、組合加工場、集荷場の新築を行った。


資料「高梁川」昭和63年12月20日発行・干しいちじくの今昔
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【未完】一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル

2014年12月11日 | 昭和20年(終戦まで)
終戦の日、阿南陸軍大臣は割腹自殺をした。
敗戦とともに多くの軍人が命を断った。みずから死を選んだ人は600人いると言われる。

城見村で復員後割腹自殺した海軍の尉官がいた。
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