しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

前浜掩体群

2021年02月01日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・高知県南国市前浜   南国市史跡「前浜掩体群」
訪問日・2018年3月24日


高知空港、今スターアライアンスの飛行機が着陸する。

その手前に掩体壕が見える、
それが前浜掩体壕の3号。
県道のすぐそば。


(前浜公民館から見る、高知空港と3号掩体壕)


「続しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2003年発行

高知海軍航空隊

現在の高知空港とその周辺には、アジア太平洋戦争当時、
高知海軍航空隊が置かれていた。

「高知空港史」によると、飛行場建設は1941年1月、用地買収と同時に開始され、45年の敗戦まで続いていいる。
用地買収・家屋移転は高知県、
建設工事は内務省神戸土木事務所、
重要施設は海軍設営隊によって進められた。

飛行場建設には兵隊の他に、各地域からの勤労奉仕や中学校生徒や女学校生徒、朝鮮人、さらには受刑者までが動員されたのである。
1944年3月15日に開隊。
偵察搭乗員の養成を主要任務とし、4月から練習機白菊を用いての実技教育が実施された。
主として甲飛13期予科練卒業生の飛練生であった。


1945年3月頃より飛行場への空襲が激しくなり、飛行機や兵舎がその他の施設が破壊され、周辺の民家学校も被害を受けた。

沖縄戦が激しくなると、神風特別攻撃隊菊水部隊が「白菊」隊が編成され、
高知から鹿児島県鹿屋を経て沖縄へ、
「白菊」練習機に250kg爆弾を二個付て26機が出撃し、52名が戦死した。





5号掩体は、「5号掩体公園」。
唯一公園で自由に見学できる。








大きな4号、
幅44m、奥行き23m、高さ8.5m。







南国市は平和学習教材として史跡に指定して保存管理を行っている。
この看板↓は前浜公民館に建っていて、公民館に駐車場もある。







7号掩体壕。南国の田植え準備は早い。





前浜掩体壕群

戦後飛行場は民間の空港として残され、兵舎は高知大学農学部となった。

滑走路南側の用地と誘導路は元の農家に返還された。
しかし50cmもの厚さのカマボコ型の巨大な掩体は引き取り手がなく、前浜村に返還された。
9基のうち2基は壊され、現在は7基が残っている。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

野怱那島監視哨(呉海軍防備隊監視哨)

2021年02月01日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・ 愛媛県松山市野怱那  (野怱那島)
訪問日・2015年9月25日  


野怱那(のぐつな)島はミカンが盛んな小さな島。

島の最高峰の皿山(標高73m)に登ると、美しい野忽那島と忽那諸島が望める。







皿山には監視哨跡が残っている。
空襲が始まってから設置され、学徒動員で監視作業はしていたのだろう。






中島町では他にも、
中島、由利島にも監視哨があったようだが、詳細は不明。現地には看板がほしいところだ。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

グァム島の横井庄一さん洞穴

2021年02月01日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・米領グヮム島
訪問日・2006年10月14日


「恥ずかしながら帰って参りました」で有名な大日本帝国の歩兵第38聯隊の横井伍長。






歴史の現場 毎日新聞社 2000年発行

横井さんは1972年1月24日、ジャングルの川に仕掛けた網を見に行く途中、
現地の漁民2人に見つかり保護された。
終戦から28年、56歳になっていた。













グヮム島にある観光用の洞穴。






歴史の現場 毎日新聞社 2000年発行

横井
日本軍が再び攻め返してくる。
その時は、また奉公しなければと思っておりました。

記者
戦争が終って日本は平和になっているのです。

横井
平和?平和。

・・・


祖国の地を踏んだ第一声。
「グァム島の様子を報告するため、恥ずかしながら、帰ってまいりました」


・・・


1997年、死去の4ケ月前に会ったのが最後になった。
「まだカエルと野ネズミとデンデンムシの慰霊塔を建てていない。
この小さな命を奪って生き延びることができた」
横井さんの最後の言葉だ。






庶民的で人間臭さが人気で、全国を耐乏生活を講演して歩いた。


(この穴の下で生活をしていた)


奉公が長すぎて、生きて帰れたが人生は戦争の犠牲の人だった。


コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

海軍・高茂術所(高茂岬)

2021年02月01日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・愛媛県南宇和郡愛南町  「高茂岬」    
訪問日・2018年10月3日  


高茂岬に来てみたら、
それはそれは絶景の場所だった。






現地看板(まだ西海町当時のもの)

足摺宇和海国立公園
高茂岬(こうもみさき)

愛媛県の最南端に位置する西海町
豊後水道に突出した高茂岬は昔から航海の難所として知られ100mもあるこの断崖から
宇和海・高知の島々はるか九州の山並みの展望は、海岸景勝の極地致である。

ここには戦時中海軍呉鎮守府所属の高茂術所がありこの跡地は、ほぼ原形をとどめている。
術所は昭和16年(1941)太平洋戦争が始まる直前に三棟の兵舎が完成して
約40名の兵士が勤務、
豊後水道に侵入する敵艦船に備え海中に600キロの設置機雷71個を敷設、
終戦前は60キロの接触機
雷4.800個も投入し海底には6基の水中聴音機を備え付けして日夜、
海の監視にあたっていた

時を回想しながらここ
「つわものどもの夢のあと」地より眺める落日の夕景は筆舌につくしがたい。








きれいな場所だけに、簡単には行けない。
城辺町から小さな半島や岬を何度も越えてやっと着く。
途中の眺めも素晴らしい。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

下関要塞・古城山砲台

2021年02月01日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・福岡県北九州市門司区 和布刈公園・古城山 公園
訪問日・2015.2.20


古城山砲台は城跡にある。
門司城の跡に砲台が築かれた。








敵艦発見が目的のため、遠方まで見渡せ、
瀬戸内海・関門海峡・日本海。
それに眼下に関門大橋が見え、すばらしい景観の場所。




「続しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2003年発行

下関要塞
下関海峡は明治6年、海上防御法の審議にて
1・東京湾海門
2・大阪湾紀淡海峡
3・下関海峡
4・対馬と決定した。

下関海峡は敵艦の通過阻止、港湾防御、敵兵の上陸阻止の目的で明治20年、
砲台の建設を始めた。

下関側5か所
門司側6か所(古城山含む)
彦島3か所、の砲台が建設された。

明治23年塞砲兵第4連隊が創設された。
1895年下関要塞司令部が創設された。

1904年日露開戦で戦時下令され戦闘配備につき、
下関要塞砲兵聯隊は各地を転戦した。












弾薬庫か。










「続しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2003年発行

昭和に入ると要塞の性格も変わり、敵艦艇、特にソ連海軍の潜水艦対策が講じられた。
1937年になると北九州地区に高射砲陣地が構築され、1944年にはさらに高射砲が増強された。


観測所




しかし
B29には全く無力で、北九州地区に対する空爆、下関海峡に対する機雷封鎖作戦阻止には全く役に立たなかった。
1945年9月に下関要塞は解散し、兵員は復員した。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

芸予要塞・大久野島砲台

2021年02月01日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県竹原市忠海町
訪問日・2006年9月26日  


エデンの丘から「エデンの海」を見る。
正面が愛媛県大三島、その手前・東洋一の大鉄塔が建つのが広島県大久野島。
その大久野島に行く。







大久野島には周回する歩道が整備されている。

その歩道の脇に砲台が遺る。

明治時代~大正時代に芸予要塞・大久野島砲台。
そのうち北部砲台跡。








これが東洋一の大鉄塔付近から見る芸予諸島と瀬戸内海。瀬戸には渦が巻いている。





島の南部に南部砲台跡。




他に中部砲台もあった。

なお芸予砲台自体は大久野島・小島・来島の三島と忠海を合わせ編成されていた。





「続しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2003年発行
芸予要塞・大久野島砲台

のちに毒ガスの製造を行った大久野島に、3ヶ所の砲台が築かれたのは1901年であった。
島の北端の海岸に近い北部砲台には26口径24cmカノン砲4門とクルップ式25口径12cmカノン砲を併設。
中部砲台は島の中央から南寄りに28cm榴弾砲6門を据えた。
南部砲台は北部と同じ備砲であるが、別にスカ式9cm速射カノン砲4門も据え付けた。

1904年開戦の日露戦争で、旅順のロシア軍要塞攻撃のため、この島の巨砲を運んで使った。






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京湾要塞(東京湾防衛砲台群跡)第二海堡

2021年02月01日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・東京湾・富津岬沖の海上
訪問日・2018.3.8



東京湾海堡とは


「戦争遺跡の辞典」柏書房

東京湾要塞は、東京湾に侵入しようとする敵戦艦の通行を阻止し、かつ海上からの敵の攻撃に対し、帝都東京および横須賀軍港を護る目的で建設された。
海堡は、海上に築島して、その上に砲台を築いたものである。





「旧軍史跡」現代に遺された戦争遺産より

海堡とは砲台のために海に造った人口島のことである。
2.5キロ間隔で第一・第二・第三海堡が、当時の最先端の技術で造られた。
第二海堡は明治22年から25年の歳月をかけて完成した。
世界的にも最大級の海上要塞。
戦後米軍の爆砕による割れや、
地盤崩壊や浸食などで倒壊が進み、原形を留めない個所もある。
現在入口のほとんどが塞がれている。




この↓写真は伊豆大島への旅客船から撮った。
激しい雨が降っていたが、それでも海上に浮かぶ第二海堡は迫力満点に見えた。






「日本の軍事遺跡」 飯田則夫著 河出書房新社 2004年発行 
東京湾要塞跡
浦賀水道を固め帝都を守った砲台群


砲艦外交によって開国を余儀なくされた日本にとっては、海防は最重要事項だった。
列強から国土を守るため、明治新政府は全国各地の要所に砲台を設けざるを得ず、近代的な要塞の整備が陸軍築城部によって開始される。
なかでも帝都の玄関口、東京湾の防備が特に急がれた。

東京湾要塞は、湾口がもっとも狭まる富津岬と観音崎を結ぶ防衛ラインに沿って内房と三浦半島。
それに大砲の射程距離をカバーするため海上に三つの東京湾海堡を築いた。

全部合わせると200近い砲が一帯に備えられた。
その後、火砲の性能向上や航空機の時代に変わったことで、莫大な国費と労力をかけた要塞の存在意義は急速に失われていった。


第二・第三海堡は完成後ほどなくして関東大震災で被害を被り、すぐに廃止になってしまった。
ちなみに、
東京湾のただ中に造られた、これら海堡は航行の障害となって多くの海難事故の誘因となり、
第三海堡は近年になって撤去されている。

要塞は一度も実戦で使われることなく短期間で、その生命を終えた。
しかし艦船侵入の抑止力の役割はになったといえよう。
現在は公園化され、第二海堡へは船で渡ることができる。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする