しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

金風呂空襲

2021年02月04日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・岡山県笠岡市北木島町金風呂 
日時・2007年4月30日


昭和20年8月8日午後10時頃から始まった福山空襲は国宝・福山城天守閣が焼け落ち、死者354人負傷者864人の被害を受けた。
爆撃機B29は総数91機、そのうちの何機かが帰路北木島金風呂を空襲した。現笠岡市区域で唯一の空襲犠牲者となっている。

北木島小学校前の護岸に手をあてて休んでいるお婆さんに当日の様子を聞いてみよう。








「あそこの山のところです。」
お婆さんが指差したのは金風呂のほぼ中央の背後の山だった。

「山でなく、いちばん上の家です。
電灯をつけていたので家がやられた。」

お婆さんの、その言葉表現は”国民の義務を怠る家”が空襲を受けた、という感じだった。







「アメリカは豊浦にいた鋼船を狙った。
船を狙って攻撃してきた、

それで私らはいそいで豊浦に見に(見物に)行きょうた(笑)。」








笠岡市史には以下記述されている。

笠岡市史・第三巻

空襲の様子・談
数機のB29から突然に焼夷弾が落とされ、みるまに西の山とバックリ山が燃え上がり、
尺玉の花火が真近ではじけるような音。
生木のバリバリ焼き避ける音にまじって民家からも火の手が上がり始めた。
辺りは大騒ぎとなり、平素の訓練もなす術もなかった。





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田町橋

2021年02月04日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・岡山市北区田町ほか  西川緑道公園
訪問日・2016.6.26

水と緑の公園、「西川緑道公園」。

西川といえば、”岡山空襲”の記憶と記録で、必ず登場する場所。






昭和20年6月29日未明の岡山大空襲、
田町橋周辺は特に大きな被害を受けた。

父が見たのは
「西川には多くの死体が重なって浮かんでいたが、
年寄りと小さな子供がほとんど」だったそうだ。
今でいう”社会的弱者”とか、”健常者でない人”が空襲の犠牲者になったようだ。







その西川に架かる「田町橋」、
今は岡山市内の中心部の現役の橋であると同時に、戦争遺産
さらに「土木遺産」になっている。

岡山県のホームページから、↓


「おかやまの歴史土木資産」岡山県土木部

田町橋
岡山大空襲を乗り越えて、現在も利用されているんだよ

田町橋は、石造の親柱上部に宝珠を模したものや、
有機的に波打った高欄など表現主義的なデザインを持つ鉄筋コンクリート造(RC造)の桁橋で、全長8mです。
岡山大空襲の後、
両脇に並行するように親柱と高欄が新しく作られ、
修復された部分と破損した部分が混在しているものの、現在も利用されています。











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甲山防空監視哨

2021年02月04日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県世羅郡世羅町甲山 
訪問日・2013年5月6日


紅葉の名所・今高野山の背後の山に、天守閣が聳える。





天守閣は「城山展望台」と呼ばれ、世羅盆地が見渡せる。









天守閣の下に監視哨が残る。







監視哨の前に、甲山町時代の説明看板が建っている。

甲山防空監視哨

太平洋戦争(昭和十六年~昭和二十年:1941~1945)のとき、
空襲にそなえて県内の要所に防空監視哨がつくられた。
この監視哨は、「尾道防空監視隊第十三番甲山防空監視哨」と称し、
昭和十七年(1942)夏、設置された。
毎日八名が詰め、二名ずつ二時間交代で昼夜通して監視した。
昭和二十年(1945)広島に原爆が投下されたときは、飛来機をいちはやく発見通報しており、爆発時のものすごい閃光も目撃している。
監視哨が戦後四十年を経て、なお当時のままの姿で残っているのは県内でもめずらしい。
戦争は静かな農村地帯までも巻き込むことを語り継ぎ、平和の貴さを知り平和を願う貴重な資料として保存するものである。
昭和六十三年(1988)七月十五日
甲山町教育委員会








防空監視哨は岡山県では20か所ほど存在した。
でも、この甲山のように「当時のままの姿で残っているのは」、岡山県内には一か所もない。




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