しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

内海町横島の「岩国陸軍燃料廠横島出張所・陸軍燃料廠航空燃料貯油」

2021年02月05日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県福山市内海町横島
訪問日・2011年7月23日


初めて横島に来た人は二度驚く。
美しい海と砂浜に驚き、次に道の狭さに驚く。(道にガードレールはなく、車が脱輪したら海へドボン)









横島の西端付近の山中に石油タンクが残る。





現地の人に聞くと、

「タンクは陸軍がつくった。
桟橋に船をつけて、そこからはパイプラインのようなものでタンクに給油していた。
戦後は丸善石油が買い取った。
その後、所有者が変わり(タンクも減り)現在に至っている」

という話だった。







このタンクのことが載っている本を見つけた。


「岡山の記憶 第9号」2007年

岩国陸軍燃料廠横島出張所・陸軍燃料廠航空燃料貯油所
昭和15年燃料廠が発足。
同時に陸軍により航空燃料貯油建設を開始する。
今もタンク防護壁と桟橋が残り、付近の山間部には機銃座も最近確認された。
朝鮮戦争時には米軍が接収した。





切石山から麓の横島海水浴場を望む。
横島は、美しいのは海岸だけでなく切石山からの眺めも素晴らしい。








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正戸山(昭和5年陸軍特別大演習)

2021年02月05日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県福山市御幸町岩成 正戸山公園
訪問日・2016年11月25日   

この時(2016年)の正戸山は2度目だった。
前回(2010年)にくらべて、見違えるような綺麗な公園に変わっていた。
「正戸山を愛する会」の会員さんや、地元の小学校・中学校の生徒さんで年に何度か清掃活動をしている。

2010年は草ぼうぼう、雑木は幹も枝も伸び放題だった。




蘇った正戸山に建つ「御統監之趾」の記念碑。







正戸山からは神辺平野が一望できる。

福塩線に車両が写っているが、あの付近に臨時駅ができた。
そこから昭和天皇は白馬に乗って正戸山に登った。


天皇の行幸から8年後、
福安郡上岩成村・下岩成村・中津村が合併することになり、
町名は行幸(御幸)にちなみ「御幸町」となった。
その後、深安郡御幸村は昭和31年福山市御幸町になった。







昭和5年陸軍大演習には関連する出来事があった。

ライオン宰相・浜口雄幸首相が大演習に出発する際、東京駅で右翼に撃たれた。
川崎の紡績工場にエントツ男が現れ、天皇に見せられないと男に妥協した。エントツ男は、その後ヤミに葬られた。





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八重山(昭和5年陸軍特別大演習)

2021年02月05日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・岡山県浅口市金光町八重  八重山
訪問日・2010年12月24日  


今はもう、すっかり道も荒れたけど、
昭和の5年浅口郡金光町は天皇が行幸という名誉をむかえる、という時があった。


(八重山)



「金光町史」

特別大演習にともなう天皇の行幸を迎えるため県・金光町などは大掛かりな準備に追われた。
当時の金光町にとって天皇の「八重山御野立所」への「行幸」は「無上ノ光栄ニ欲スルヲ持ッテ感激其極ニ達シ」た。


この時天皇は、金光町の特産品の一つである麦稈真田の組合事務所に侍従を差遣わされ、
また、
町内の高齢者(60才以上)、傷痍軍人、孝子、軍人遺族に紋章付きの御菓子が下賜された。
いっぽう、
町内からは金光町果物組合が「梨晩三吉」を、佐方産業組合が鶏卵を献上した。




(八重山)




昭和天皇は11月15日午前10時15分金光駅に着かれて直ちに八重山へ行幸された。
当日町は御影橋付近に奉拝所を設けて諸団体の代表が多数出迎え、奉拝した。


そうして午前11時55分に金光駅を出発され、岡山市の大本営に向かわれた。
八重山の御野立所跡の処置については永久に「御隆徳ヲ偲」目的で記念碑建立の計画を立て土地の買い入れ準備を始めた。






(八重山)


また、八重山の御野立所跡の処理については、
永久に「御盛徳ヲ偲」ぶ目的で記念碑建立の計画を立て、すでに二畝余りの土地を買い入れ準備を始めた。

このようにして、昭和6年4月29日、八重山山頂の記念碑の除幕式が行われた。
当日は、県知事代理、県会議員、玉島警察署長、郡内町村長、小中学校長、軍人会長、教育会長、婦人会長、金光教幹部、町内名誉職等200余名が出席した。
この建碑費は郡内小中学校生徒職員、町村民の寄付によった。(山陽新報昭和7年5月1日)

なお、昭和16年12月この土地は、八重山の渡辺〇〇氏から町に寄付された。




ところで、八重山の大演習はどの方向で行われたのだろうか?
図書館員に尋ねると、古い資料の本をひろげたが戦場は明記していなかった。



・・・

笠岡商業90年史
陸軍大演習

昭和5年11月15日 特別大演習を見学する(金光付近)

(なお昭和4年には史書に載る人物が学校に来ている。
5月24日 宇垣大将来校し検閲を受ける
5月25日 本庄中将視察のため来校す)


・・・

天皇陛下は
金光町史によれば

11月14日・神辺平野
11月15日・八重山
11月16日・吉備郡服部村(総社市)を行幸している。



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一本松古墳の高射砲陣地跡

2021年02月05日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・岡山市北区法界院    半田山植物園  
訪問日・2015.4.4


半田山植物園に前方後円墳がある。
これから後円部へ登る。








古墳の名称は「一本松古墳」で、後円部に戦時中高射砲が据えられていた。






説明板に、
「第二次大戦の末期、高射砲陣地が作られ、後円部の竪穴式石室が大きく破壊された」

と書かれている。




古墳の石室も、大戦中の高射砲陣地跡も、
後円部にくぼみがあるだけで、どちらも想像をふくらませるのが苦しい。





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二葉山の高射機銃陣地跡

2021年02月05日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県広島市東区牛田
訪問日・2018年5月3日  


広島市は市街地や郊外にハイキングの山が多い。低山ハイキングのメッカのような都市。
広島駅から歩いていけるのが比治山と二葉山。


二葉山は駅の裏山。
眺めもばっちし。







軍都広島は明治の初め広島湾要塞から昭和の大戦まで防衛施設があった。
これは太平洋戦争の高射機銃陣地の説明看板。







昭和20年8月6日は白昼堂々と、しかもたった2~3機くらいで米軍機に攻められた。
それでいて、戦闘機が飛び立つ訳でなく、高射砲が撃ち落とす訳でもなかった。
(他都市が夜間に60~200機程度で侵攻されたのとは比較にならない)

日本が負けたのは原爆が原因でなく、8月6日にはすでに対抗する体力がなくなっていた。”とどめ”だった。









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紫電改

2021年02月05日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・愛媛県南宇和郡御荘町平城703 (南レク御荘公園)
訪問日・2005年5月2日


昭和20年7月24日、
豊後水道上空で撃墜された紫電改1機が、昭和53年に南宇和の海底から引揚げられた。

そして戦闘があった空と、沈んだ海の両方が見渡せる山に保存されている。
それがココ「紫電改記念館」。

日本では唯一の紫電改だそうだ。(米国に3機保管)








紫電改は、

川西航空機が制作の戦闘機。
1万機以上造られた傑作機「零戦」に比べ
わずか400機程度しか生産されなかった。

本や話では大戦末期の名機と紹介されている。

乗員:1名
全幅:11.99m
全長:9.346m
全高:3.96m
全備重量:4,200kg
エンジン:誉21型
離昇出力:2,000馬力
最大速度:594km/h(高度5,600m)
武装:20mm機銃×4










源田実の第343海軍松山航空隊が有名。

昭和20年3月19日、四国松山上空で来襲した
F6F、F4U、SB2Cのアメリカ海軍艦載機を紫電改54機が
上空制空中の紫電7機とともに迎え撃ち、52機撃墜という戦果をあげ、紫電改の優秀性を実証した。
・・・というが、
大戦末期のこの話は、はいそうですか、とは信じられない。




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ガンビーチ(グァム島)

2021年02月05日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
2006年10月15日
グアム島


ホテル・ニッコーグアムから恋人岬への海岸線に”ガンビーチ”という砂浜がある。





20.000人の日本兵が死んだグァム島。

島内の海岸やジャングルに錆びたままの砲が残っている。



「しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2002年発行

1944年6月15日、アメリカ軍はサイパン島に上陸し、
日本兵は7月7日に全滅した。
7月21日、アメリカ軍は600の艦船と2.000の飛行機、約300.000の兵力を
グアム島沖に集中し、約50.000余を上陸させた。

日本軍は陸軍第29師団(名古屋)を中心とした約20.000の兵力で対抗した。
本来アメリカの領土であったグアム島攻撃は、
占領された領土を日本から取り返すという意地とメンツの意味を持ち、
それが一層の激戦を呼んだ。
守備していた歩兵第38聯隊は、初日で約8割の兵士が死傷したと言われている。

海岸の水際作戦が崩壊した日本軍は、マタグアク山や自然洞窟に立てこもって抵抗した。
しかし動けぬ負傷兵は手榴弾を支給されて自爆した。
弾丸も食料や医薬品の補給もなかった。
残存将兵は武器弾薬を持たずに敵陣に白兵戦を挑んだが、
あまりにも非力で悲しい抵抗でしかなかった。
グアム島からの生還者は1.250人。
8月11日、師団長は自決した。

グアム島の悲劇は軍人だけではなかった。
日本人約300人、
現地住民が約24.000人。
彼等も玉砕戦争に引き込まれてしまった。
断崖上から飛降りを命じられたり、手榴弾を投げつけられて、頼みの友軍にやられた。








戦後17年ほどたち、皆川さん・伊藤さんと2人の元兵士が保護され、その10年後横井さんが見つかった。
太平洋戦争で南の島に行った兵士は、特に悲惨な目に遭いお気の毒だ。


・・・・


「日本軍事史」 吉川弘文館 2006年発行

捕虜になることを禁じた日本の体質が悲劇をもたらせた。
「玉砕」の連続で陥落後、
東条内閣はサイパン失陥の責任をとって総辞職。
11月から同地を飛び立ったB-29が連日日本本土を空襲、以後多くの都市が焼き尽くされていくことになる。




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