場所・広島県福山市大門町津之下 JFE福山構内(駐車場)
訪問日・2016.5.8 「2016 JFE西日本フェスタ in ふくやま」
津之下の飛行場が予備隊の病院だった時、小学校の遠足で歩いていった。
終戦で兵隊が復員した後、朝鮮人がその付近であやしい酒(カストリ)を造って売っていたようで、父も何度か買って飲んだそうだ。
経済成長期に日本鋼管が進出し、海に囲まれた飛行所跡から、海が消えて、建物もすべて消え、飛行場跡の面影は今まったくない。

「野々浜むかし語り」 野々浜公民館 1991年発行
水上飛行場
大津野に水上機の飛行場があり、村の上空を飛行機が飛び回っていた時代がある。
しかしそれは昭和18年から20年までのほんの僅かな短い期間でしかなった。
昭和16年、牛ノ首の山を崩してその土で海を埋め、飛行場を建設する工事が始まった。
昭和18年には、飛行場はほぼ完成して4月に飛行機がきた。
ここの飛行機は複葉単発で、フロートのついた二人乗りの水上機だ。
黄色の帆布張で、その色から「赤トンボ」と呼ばれていた。
これが当初は16~17機が配備され、毎日のように飛行訓練をする。
天気のよい風のない日には、赤トンボがブルブル爆音を響かせながら、上がったり下りたりを繰り返す。
降りるときは、大津野湾にザーッと水煙を上げながら着水する。
戦争が激しくなってきてアメリアの飛行機が飛んでくるようになると、飛行機をあちこちの島に持って行き、隠すようになった。
やがて飛行場の飛行機も実戦に使われるようになった。
練習機だから爆弾を付ける装置はない。
そこで夜間にそれを付け、次の日壮行の式が行われた。
飛行場は2回の空襲を受けた。
真昼間に単発の艦載機が、
1回目は4~5機、
2回目は2機が東や北の方から飛んできた。
沖山の上空でくるりと反転すると、飛行場に降下してバリバリと銃撃を加え、箕島の方へ飛んで行った。
銃弾が格納庫の鉄骨に当たると、真昼間なのに火花が上がるのが見えた。
当時の飛行場の山腹には、防空壕が3つも4つも掘られていたし、山の上には対空機銃もあった。
いかし撃ちあったらやられるとうことで、敵機が飛び去る頃に射ち始めたという事だ。

戦後まもなく大津野の航空隊は解散し、代わって進駐軍が飛行場に進駐してくる。
進駐軍の後、広島大学の水畜産学部が置かれた。
今度は自衛隊の駐屯地となる。
そして日本鋼管がくると製鉄所の一部となり、前面の海は埋め立てられて陸地となり、
水上飛行場の痕跡は全く消えてしまった。

(「野々浜むかし語り」)
「特攻」 ふくろうの本・河出書房新社 2003年発行
全機特攻
フィリピン特攻が終わったあと、
「陸海軍のすべての飛行機を特攻として使用する」
全機特攻化が1945年3月26日陸海軍局部長会議で決定した。
3月初め、連合艦隊に所属する航空部隊の指揮官など300人以上が木更津に集められた。
「航空燃料が底をつき、
今後は一機当たり一ヶ月に15時間しかない。
そこで赤トンボの4.000機を含め、全航空兵力を特攻とする」と訓示した。
「敵の速力は300ノット(時速540km)です。
100~150ノットの赤トンボは、バッタのように落とされます」
拒否する指揮官もいた。2名だが。
「要するに死ねばいいんだ」
と思わなければ、特攻には飛びたてない状況も生まれてきていた。
大津野飛行場からは9人が九州の基地を経由して沖縄へ出撃し、死んだ。
訪問日・2016.5.8 「2016 JFE西日本フェスタ in ふくやま」
津之下の飛行場が予備隊の病院だった時、小学校の遠足で歩いていった。
終戦で兵隊が復員した後、朝鮮人がその付近であやしい酒(カストリ)を造って売っていたようで、父も何度か買って飲んだそうだ。
経済成長期に日本鋼管が進出し、海に囲まれた飛行所跡から、海が消えて、建物もすべて消え、飛行場跡の面影は今まったくない。

「野々浜むかし語り」 野々浜公民館 1991年発行
水上飛行場
大津野に水上機の飛行場があり、村の上空を飛行機が飛び回っていた時代がある。
しかしそれは昭和18年から20年までのほんの僅かな短い期間でしかなった。
昭和16年、牛ノ首の山を崩してその土で海を埋め、飛行場を建設する工事が始まった。
昭和18年には、飛行場はほぼ完成して4月に飛行機がきた。
ここの飛行機は複葉単発で、フロートのついた二人乗りの水上機だ。
黄色の帆布張で、その色から「赤トンボ」と呼ばれていた。
これが当初は16~17機が配備され、毎日のように飛行訓練をする。
天気のよい風のない日には、赤トンボがブルブル爆音を響かせながら、上がったり下りたりを繰り返す。
降りるときは、大津野湾にザーッと水煙を上げながら着水する。
戦争が激しくなってきてアメリアの飛行機が飛んでくるようになると、飛行機をあちこちの島に持って行き、隠すようになった。
やがて飛行場の飛行機も実戦に使われるようになった。
練習機だから爆弾を付ける装置はない。
そこで夜間にそれを付け、次の日壮行の式が行われた。
飛行場は2回の空襲を受けた。
真昼間に単発の艦載機が、
1回目は4~5機、
2回目は2機が東や北の方から飛んできた。
沖山の上空でくるりと反転すると、飛行場に降下してバリバリと銃撃を加え、箕島の方へ飛んで行った。
銃弾が格納庫の鉄骨に当たると、真昼間なのに火花が上がるのが見えた。
当時の飛行場の山腹には、防空壕が3つも4つも掘られていたし、山の上には対空機銃もあった。
いかし撃ちあったらやられるとうことで、敵機が飛び去る頃に射ち始めたという事だ。

戦後まもなく大津野の航空隊は解散し、代わって進駐軍が飛行場に進駐してくる。
進駐軍の後、広島大学の水畜産学部が置かれた。
今度は自衛隊の駐屯地となる。
そして日本鋼管がくると製鉄所の一部となり、前面の海は埋め立てられて陸地となり、
水上飛行場の痕跡は全く消えてしまった。

(「野々浜むかし語り」)
「特攻」 ふくろうの本・河出書房新社 2003年発行
全機特攻
フィリピン特攻が終わったあと、
「陸海軍のすべての飛行機を特攻として使用する」
全機特攻化が1945年3月26日陸海軍局部長会議で決定した。
3月初め、連合艦隊に所属する航空部隊の指揮官など300人以上が木更津に集められた。
「航空燃料が底をつき、
今後は一機当たり一ヶ月に15時間しかない。
そこで赤トンボの4.000機を含め、全航空兵力を特攻とする」と訓示した。
「敵の速力は300ノット(時速540km)です。
100~150ノットの赤トンボは、バッタのように落とされます」
拒否する指揮官もいた。2名だが。
「要するに死ねばいいんだ」
と思わなければ、特攻には飛びたてない状況も生まれてきていた。
大津野飛行場からは9人が九州の基地を経由して沖縄へ出撃し、死んだ。