しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

海軍大津野飛行場

2021年02月08日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・広島県福山市大門町津之下  JFE福山構内(駐車場)
訪問日・2016.5.8  「2016 JFE西日本フェスタ in ふくやま」


津之下の飛行場が予備隊の病院だった時、小学校の遠足で歩いていった。
終戦で兵隊が復員した後、朝鮮人がその付近であやしい酒(カストリ)を造って売っていたようで、父も何度か買って飲んだそうだ。



経済成長期に日本鋼管が進出し、海に囲まれた飛行所跡から、海が消えて、建物もすべて消え、飛行場跡の面影は今まったくない。







「野々浜むかし語り」 野々浜公民館 1991年発行

水上飛行場

大津野に水上機の飛行場があり、村の上空を飛行機が飛び回っていた時代がある。
しかしそれは昭和18年から20年までのほんの僅かな短い期間でしかなった。

昭和16年、牛ノ首の山を崩してその土で海を埋め、飛行場を建設する工事が始まった。
昭和18年には、飛行場はほぼ完成して4月に飛行機がきた。

ここの飛行機は複葉単発で、フロートのついた二人乗りの水上機だ。
黄色の帆布張で、その色から「赤トンボ」と呼ばれていた。
これが当初は16~17機が配備され、毎日のように飛行訓練をする。

天気のよい風のない日には、赤トンボがブルブル爆音を響かせながら、上がったり下りたりを繰り返す。
降りるときは、大津野湾にザーッと水煙を上げながら着水する。

戦争が激しくなってきてアメリアの飛行機が飛んでくるようになると、飛行機をあちこちの島に持って行き、隠すようになった。
やがて飛行場の飛行機も実戦に使われるようになった。
練習機だから爆弾を付ける装置はない。
そこで夜間にそれを付け、次の日壮行の式が行われた。

飛行場は2回の空襲を受けた。
真昼間に単発の艦載機が、
1回目は4~5機、
2回目は2機が東や北の方から飛んできた。
沖山の上空でくるりと反転すると、飛行場に降下してバリバリと銃撃を加え、箕島の方へ飛んで行った。
銃弾が格納庫の鉄骨に当たると、真昼間なのに火花が上がるのが見えた。

当時の飛行場の山腹には、防空壕が3つも4つも掘られていたし、山の上には対空機銃もあった。
いかし撃ちあったらやられるとうことで、敵機が飛び去る頃に射ち始めたという事だ。












戦後まもなく大津野の航空隊は解散し、代わって進駐軍が飛行場に進駐してくる。
進駐軍の後、広島大学の水畜産学部が置かれた。
今度は自衛隊の駐屯地となる。
そして日本鋼管がくると製鉄所の一部となり、前面の海は埋め立てられて陸地となり、
水上飛行場の痕跡は全く消えてしまった。






(「野々浜むかし語り」)




「特攻」 ふくろうの本・河出書房新社  2003年発行

全機特攻

フィリピン特攻が終わったあと、
「陸海軍のすべての飛行機を特攻として使用する」
全機特攻化が1945年3月26日陸海軍局部長会議で決定した。

3月初め、連合艦隊に所属する航空部隊の指揮官など300人以上が木更津に集められた。
「航空燃料が底をつき、
今後は一機当たり一ヶ月に15時間しかない。
そこで赤トンボの4.000機を含め、全航空兵力を特攻とする」と訓示した。

「敵の速力は300ノット(時速540km)です。
100~150ノットの赤トンボは、バッタのように落とされます」
拒否する指揮官もいた。2名だが。

「要するに死ねばいいんだ」
と思わなければ、特攻には飛びたてない状況も生まれてきていた。



大津野飛行場からは9人が九州の基地を経由して沖縄へ出撃し、死んだ。






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昭忠碑ほか(青葉城跡)

2021年02月08日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・宮城県仙台市青葉区川内   陸軍第二師団・青葉城跡
訪問日・2018.8.6


仙台の観光名所・青葉城。
一番人気の独眼竜正宗の騎馬像。







その独眼竜の銅像近くに、もっと大きな記念碑が建っている。

お城のガイドさんがいたので聞いてみた。
「明治35年、日清戦争の慰霊碑として建てられました。
建設に明治天皇がからんでいるので、(昭和の)戦争中も金属類供出の対象となりませんでした」とのことだった。






続しらべる戦争遺跡の辞典」柏書房 より転記

昭忠碑

仙台市内観光の中心地・仙台城の真ん中にそびえている。
1899(明治32)年、地方の有志と第二師団有志が「昭忠会」を組織し、昭忠標(金鵄塔)を建設した。
仙台の街々からよくみられるように設計された石碑で、天皇への忠義をあらわした碑である。

前面のパネルには「昭忠」「元帥大勲位功二級彰仁親王書」とあり、高さ20mもある碑の上部には翼の幅6.7m、重さ17.5tの羽を広げた青銅製の「金鵄」(金の鵄)の像が置かれている。

「金色の鵄(とび)」は明治天皇の「神格化」政策のもとで象徴化されたものである。

経費総計2万3200円、うち9.000円は鋳銅金鵄等の金属部分であった。
碑の脇に明治天皇からの「金一封下賜」の碑があり「金百円」と記されている。


金属供出を免れている。招魂社完成までこの場所で毎年慰霊祭が行われた。






これも城内にある記念碑。

「満州事変軍馬戦没之碑」、陸軍第二師団は満州事変へ出兵。人も馬も戦没した。






青葉城の跡地は「城址」「神社」「文化施設」「東北大学」」等が現在使用している。
護国神社の占める場所や影響が強すぎるように感じた。




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宿毛海軍航空隊・第21突撃隊特攻基地本部

2021年02月08日 | 「戦争遺跡」を訪ねる
場所・高知県宿毛市宇須々木  宿毛海軍航空隊・第21突撃隊特攻基地本部
訪問日・2018年10月2日

宿毛市史
宇須々木の海軍基地
宇須々木の海軍基地については当時軍の機密保持が厳しかった為、資料はほとんどない。
聯合艦隊がひんぱんに宿毛湾に投碇しはじめたのは、昭和7年頃からである。
宇須々木の基地使用は昭和8年頃からで兵舎2棟の完成は昭和11年で、司令は海軍大佐が来ており兵員約200名。

おもに艦載機の寄港基地として利用され陸揚げ、給油、整備をしていた。
昭和13年頃より艦隊の入港も少なくなり、入港しても小艦艇が主であった。
訓練は定期的でなく、訓練日程も知らされず、実戦が主になったもようである。



もともと海軍基地だったが、特攻基地化していった。

昭和20年日本敗戦が必至頃になるころ、
米軍の上陸が予想される地域は”竹槍訓練”に励んだ。
宿毛湾には、ベニヤで造った爆弾付き一人乗りのボートが配置され、16~17歳の少年兵が特攻隊員として必死の攻撃を待っていた。
べニヤボートは”震洋”と呼ばれ、上陸阻止のための日本海軍の最大戦力だった。
高知県内には数カ所にわたり震洋基地があった。
岩穴に隠れ、上陸用舟艇が陸に向かってきたら爆弾抱えた小船で体当たり攻撃をして死ぬべニヤボート。
終戦時には高知県や千葉県などに5.000艇程度配置されていた。







「しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2002年発行

海軍航空隊宿毛基地
四国西南端に置かれた海軍航空隊と特攻基地


豊後水道に向かって開口する宿毛湾は、天然の良港として知られている。
須々木にはアジア太平洋戦争時、海軍航空隊が置かれ、
戦争末期には特攻基地となり司令部が置かれていた。

海岸部は戦後埋め立てが行われ、周囲の景観はかなり変貌しているが、
海軍の諸施設が遺構として数多く残っている。






(弾薬庫跡)







もともと宿毛湾は自然条件がよいのと、場所的に瀬戸内海の玄関口になるので軍事基地が設けられた。
宿毛湾は水深もあり、大正より日本海軍の艦隊基地の一つとなり
昭和8年には海軍航空隊も設置された。
宿毛沖の沖の島~鵜来島間は戦艦大和の試験航行に使われた。
昭和20年3月、第21突撃隊特攻基地本部となった。

(宇須々木公民館にある宿毛教育委員会の説明版より)







(1)海軍航空隊以前の遺構
宿毛湾はしばしば連合艦隊の寄港地となっていた。
1933年頃からは艦載機の訓練や補給、搭乗員の休養のために頻繁に利用されるようになった。
1936年頃には小学校を含む周囲一帯を海軍用地として買収して本格的な基地整備が急速に進むのである。
桟橋が残っており、今も利用されている。

(2)海軍航空隊の遺構
宿毛湾航空隊は、1943年4月1日に開隊し、44年1月に指宿に移動するまで水偵搭乗員の練成教育が行われた。
隊員250名を有し、滑走台(地元ではスベリと呼んでいる)の残存状況は良好で、
岸壁から5.5度で傾斜して海面下に延びている。
駐機場には水上機を固縛するためのアンカーも随所に認められ、中には鉄製のリングがそのまま付いているのもある。
弾薬庫は延長57m、奥行10m以上、高さ3.3m、厚さ23cmのコンクリート製の外壁が巡り、内側には赤煉瓦の建物がある。


(3)特攻基地の遺構
航空隊が移動した後、須々木は水上・水中特攻訓練のための訓練基地、宿毛派遣隊となる。
45年3月に特攻戦隊が編成され、呉鎮守府突撃隊に編入される。
45年7月30日には第八特攻戦隊司令部が須々木に置かれた。
震洋や回天などが配置され土佐湾と豊後水道の守りについた。
ほとんど岩盤に掘られた横穴である。












海軍跡地は宿毛市街地から数キロ離れている。
住民はここで見た、
兵器や兵隊や訓練を、話すことは禁じられていた。
極力見ないようにした。

戦後、開発等で各地の軍事遺蹟がなくなったが、
ここ宿毛市宇須々木は地理的にも大きな変化がなく遺構は残った。
配置された震洋は終戦ににより出撃(=死)を免れた。


宇須々木は静かな漁師町。
当時の面影を偲べる宇須々木だった。




(水上機のスベリ跡)




宿毛市史

昭和20年5月初旬頃における第2総軍の情勢判断では、
敵は南部九州と共に南部四国に対し、同時又は相前後して作戦する公算が大であるとした。
宿毛湾に一個兵団を配備して持久する計画であった。

また高知、須崎、宿毛、小松島等には海軍特攻部隊が配置された。
6月上旬に編成完結、陣地構築もなく部隊を配置したばかりで市内の各学校を兵舎に使用、学校はお寺や神社等で分散授業をするというような状態であり、
小銃等も数が不足して歩兵全員に支給できず、
竹光の銃剣、竹製の水筒等その装備は極めて劣っていた。





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