場所・愛知県岡崎市 岡崎城
有名な「しかみ像」(『徳川家康三方ヶ原戦役画像』)を石像化したもの、岡崎城にある。
三方ヶ原の合戦
武田信玄は元亀3年(1572)10月、風林火山の軍旗をひるがえして、ついに天下統一の戦旅に立った。
目指すは京都。そこから天下に号令しようというのである。
従うは歴戦の騎馬軍団3万。
その戦国最強ともいうべき軍の行手に第一番に立ちふさがったのは、浜松に居城をもつ青年武将徳川家康だった。
戦いの非は戦う前に明白だったが、家康は決然、1万余の兵をもってこれを浜松城北方の三方ヶ原に迎撃した。
12月22日夕刻、戦闘は開始されたが、しょせんは信玄の敵ではなかった。
家康も死を覚悟したほどの大敗北の末、命からがら浜松城に逃げ帰った。
家康側の死者1千余、
死者は頭を武田側に向けて倒れている者はすべてうつむきになっており、
浜松城の方を向いて倒れている者はすべて仰向けになっていたという。
文芸春秋デラックス「戦国日本合戦譚」8月号 文芸春秋 昭和49年発行
撮影日・2014年10月10日
有名な「しかみ像」(『徳川家康三方ヶ原戦役画像』)を石像化したもの、岡崎城にある。
三方ヶ原の合戦
武田信玄は元亀3年(1572)10月、風林火山の軍旗をひるがえして、ついに天下統一の戦旅に立った。
目指すは京都。そこから天下に号令しようというのである。
従うは歴戦の騎馬軍団3万。
その戦国最強ともいうべき軍の行手に第一番に立ちふさがったのは、浜松に居城をもつ青年武将徳川家康だった。
戦いの非は戦う前に明白だったが、家康は決然、1万余の兵をもってこれを浜松城北方の三方ヶ原に迎撃した。
12月22日夕刻、戦闘は開始されたが、しょせんは信玄の敵ではなかった。
家康も死を覚悟したほどの大敗北の末、命からがら浜松城に逃げ帰った。
家康側の死者1千余、
死者は頭を武田側に向けて倒れている者はすべてうつむきになっており、
浜松城の方を向いて倒れている者はすべて仰向けになっていたという。
文芸春秋デラックス「戦国日本合戦譚」8月号 文芸春秋 昭和49年発行
撮影日・2014年10月10日