場所・長崎県長崎市銀屋町
長崎名所のひとつ、眼鏡橋のたもと近く銅像が立っている。
右の人は坂本龍馬で、写真機を挟み、左の人が上野彦馬。
日本初の写真家だった人。
横浜で有名な下岡蓮杖と同時期の人。
(Wikipedia)
上野彦馬
幕末期から明治時代にかけて活動した日本の写真家(写真師)。日本における最初期の写真家で、日本最初の戦場カメラマン(従軍カメラマン)としても知られる。
号は季渓。家紋は桔梗の二引。
生涯
天保9年(1838年)、長崎銀屋町で蘭学者・上野俊之丞の次男として生まれる。
広瀬淡窓の私塾、咸宜園で2年間学び、後の安政5年(1858年)にはオランダ軍医を教官とする医学伝習所の中に新設された
舎密試験所に入り、舎密学(化学)を学んだ。
同僚の堀江鍬次郎らとともに蘭書を頼りにその技術を習得、感光剤に用いられる化学薬品の自製に成功するなど、化学の視点から写真術の研究を深める。
また、ちょうど来日したプロの写真家であるピエール・ロシエにも学んだ。
その後、堀江とともに江戸に出て数々の写真を撮影して耳目を開き、文久2年(1862年)には堀江と共同で化学解説書『舎密局必携』を執筆する。
同年、故郷の長崎に戻り中島河畔で上野撮影局を開業した。
日本における最初期の写真館であり(ほぼ同時代に鵜飼玉川や下岡蓮杖が開業)、彦馬は日本における最初期の職業写真師である。
同撮影局では坂本龍馬、高杉晋作ら幕末に活躍した若き志士や明治時代の高官、名士の肖像写真を数多く撮影した。
維新後の明治7年(1874年)には金星の太陽面通過の観測写真を撮影(日本初の天体写真)、
明治10年(1877年)には西南戦争の戦跡を撮影(日本初の戦跡写真)、
同年に開催された第1回内国勧業博覧会で受賞するなど、その写真は歴史的、文化的にも高く評価されている。
一方で海外に支店を持つ(ウラジオストク、上海、香港)など写真業繁栄の傍ら後進の指導にもあたり、
明治37年(1904年)、長崎で死去。享年67。
撮影日・2012年5月9日
長崎名所のひとつ、眼鏡橋のたもと近く銅像が立っている。
右の人は坂本龍馬で、写真機を挟み、左の人が上野彦馬。
日本初の写真家だった人。
横浜で有名な下岡蓮杖と同時期の人。
(Wikipedia)
上野彦馬
幕末期から明治時代にかけて活動した日本の写真家(写真師)。日本における最初期の写真家で、日本最初の戦場カメラマン(従軍カメラマン)としても知られる。
号は季渓。家紋は桔梗の二引。
生涯
天保9年(1838年)、長崎銀屋町で蘭学者・上野俊之丞の次男として生まれる。
広瀬淡窓の私塾、咸宜園で2年間学び、後の安政5年(1858年)にはオランダ軍医を教官とする医学伝習所の中に新設された
舎密試験所に入り、舎密学(化学)を学んだ。
同僚の堀江鍬次郎らとともに蘭書を頼りにその技術を習得、感光剤に用いられる化学薬品の自製に成功するなど、化学の視点から写真術の研究を深める。
また、ちょうど来日したプロの写真家であるピエール・ロシエにも学んだ。
その後、堀江とともに江戸に出て数々の写真を撮影して耳目を開き、文久2年(1862年)には堀江と共同で化学解説書『舎密局必携』を執筆する。
同年、故郷の長崎に戻り中島河畔で上野撮影局を開業した。
日本における最初期の写真館であり(ほぼ同時代に鵜飼玉川や下岡蓮杖が開業)、彦馬は日本における最初期の職業写真師である。
同撮影局では坂本龍馬、高杉晋作ら幕末に活躍した若き志士や明治時代の高官、名士の肖像写真を数多く撮影した。
維新後の明治7年(1874年)には金星の太陽面通過の観測写真を撮影(日本初の天体写真)、
明治10年(1877年)には西南戦争の戦跡を撮影(日本初の戦跡写真)、
同年に開催された第1回内国勧業博覧会で受賞するなど、その写真は歴史的、文化的にも高く評価されている。
一方で海外に支店を持つ(ウラジオストク、上海、香港)など写真業繁栄の傍ら後進の指導にもあたり、
明治37年(1904年)、長崎で死去。享年67。
撮影日・2012年5月9日