しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

アーサー像

2021年06月09日 | 銅像の人
場所・兵庫県神戸市灘区六甲山町


この像は「アーサー像」と呼ばれ、
英国人「アーサー・ヘスケス・グルーム氏之像」が正式名の像。





アーサー・ヘスケス・グルーム氏は”六甲山を開いた開祖”とか、日本にゴルフを始めて持ち込んだ人と紹介される。
神戸市では、市の功労にちなんで毎年”グルーム祭り”を開催しているそうだ






(Wikipedia)

アーサー・ヘスケス・グルーム
1846~1918
は、幕末から明治にかけて日本で活躍したイングランド出身の実業家。
六甲山の開発と景観保護に力を注いだ。





にぎわう六甲山、ゴルフ場ふきん。





2016年12月3日   




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函館四天王像

2021年06月09日 | 銅像の人
場所・北海道函館市元町


函館の旧市街地の高台に”元町公園”があり、
そこにはペリー提督によって、函館が開港し、北海道の開発と、国際都市化の新しい時代の開拓者4人の像がある。



(Wikipedia)

元町公園

函館山山麓にある基坂の突当りに位置し、函館港を一望することができる。
1869年(明治2年)に蝦夷地が北海道と改称し、箱館も「函館」となった。
江戸幕府が箱館奉行所を設置した場所であり、
旧北海道庁函館支庁庁舎には開拓使函館支庁、函館県庁、北海道庁函館支庁が置かれ、政治の中心地であった場所でもある。

元町公園を含む函館西部地区の町並みは
「重要伝統的建造物群保存地区」
「函館市西部地区歴史的まちなみ保存環境美化促進地区」に選定されている。









【函館市公式観光情報】
(向かって左から)

今井市右衛門
(石川県能登出身)1836~1887
1864(元治元)年、函館最初の洋物店(西洋雑貨店)を開業。
箱館戦争後の資材、用品不足に助けられ大いに繁盛し、函館屈指の大商人となりました。
明治に入ると北海道最初の新聞社「北溟社」を渡辺熊四郎・平田文右衛門らと設立。
医師と共同で福祉事業の育児会社や恵まれない人のために鶴岡学校を運営しました。

平田文右衛門
(函館出身)1849~1901
呉服太物商を営み、他の四天王とともに造船所、器機製作所、学校、病院、新聞社の設立等を主唱し、計画・実行。
函館の将来のためには港湾の整備、船渠の完成、奥地に通ずる鉄道の敷設が急務であると考え、
函館・小樽を結ぶ函樽鉄道株式会社(現在のJR函館本線のうち、函館~小樽間)の創設に努力したことでも知られています。

初代・渡邊熊四郎
(大分県竹田出身)1840~1907
1869(明治2)年に金森洋物店を開業し、のちに書店や船具店、海運業、倉庫業などを展開。
函館病院の再建に尽力しました。
2019(平成31)年に閉店した棒二森屋デパートは、末広町で開いた金森森屋百貨店が前身。
現在は観光スポットとして知られる金森赤レンガ倉庫も、初代・渡邊熊四郎の設立した金森商船が建てた倉庫をリノベーションしたものです。

平塚時蔵

(青森県田名部〈現・むつ市〉出身)1836~1922
呉服太物、西洋雑貨の販売を業とし、1875(明治8)年には渡邊熊四郎、平田文右衛門、今井市右衛門等と協力して
書店・新聞閲覧所を設けたほか、1878(明治11)年には函館新聞社を創立。
函館公園の開設にも関わり、第一公立病院の創立、弥生小学校の大火からの再建など、慈善事業にも貢献しました。






撮影日・2017年7月30日



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一松 定吉

2021年06月09日 | 銅像の人
場所・大分県杵築市大字南杵築  一松会館


城下町・杵築は坂・海・城・川の街並みが素晴らしい。
武家屋敷が並ぶ高台に旧一松(ひとつまつ)邸がある。








一松定吉先生は、大阪で法曹・政治を長くつづけた。
昭和17年の、いわゆる”翼賛選挙”では、非推薦の当選者になった。





(Wikipedia)

一松 定吉

1875年、大分県西国東郡美和村(現・豊後高田市)に生まれる。
明治法律学校(現・明治大学)を卒業し長崎、大分、横浜、大阪などでの検事を経て、大審院検事をつとめる。
1920年、弁護士に転じる。
1928年、大阪1区から第16回衆議院議員総選挙に立憲民政党公認で出馬し初当選、
1947年の第23回衆議院議員総選挙まで連続8回当選を果す。
第1次吉田内閣の国務・逓信大臣、片山内閣の厚生大臣、芦田内閣の建設大臣、日本進歩党の幹事長等を歴任した。
1949年の第24回衆議院議員総選挙には落選し、翌年の参議院議員選挙に国民民主党公認で出馬し当選、参院議員に転身して2期務めた。
所属政党
立憲民政党→日本進歩党→民主党→国民民主党→改進党→日本民主党→自由民主党



(杵築市HP)

一松 定吉(ひとつまつ さだよし)

鬼検事の異名をもつ法曹家・政治家 一松 定吉
明治8(1875)年~昭和48(1973)年
豊後高田市出身で、一松家の養子となる。
判事・検事・弁護士として活躍。
鬼検事の異名。
昭和3(1928)年に衆議院議員当選、以後衆・参両院議員に当選。
逓信・厚生・建設の各大臣を歴任。
私邸を市に寄贈(現一松邸)、杵築市名誉市民。






撮影日・2013年2月22日


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帆足萬里

2021年06月09日 | 銅像の人
場所・大分県速見郡日出町  日出城跡

大分県には江戸時代、小藩が多くあり、2万5千国の日出藩から帆足万里という傑出した人が出た。




(ひじまち観光情報公式サイト)

豊後三賢のひとり

帆足萬里(1778~1852)
帆足萬里(ほあしばんり)は、
三浦梅園(みうらばいえん)・廣瀬淡窓(ひろせたんそう)とともに「豊後の三賢」と称された日出藩時代の儒学者で、
教育者として多くの子弟を育て、また政治家としても大いに手腕をふるいました。
彼は、安永7年(1778)、日出藩の家老・帆足通文の三男として、日出城下三の丸に生まれました。
豊岡小浦の脇蘭室の門に入り、ほとんど日出の地 を出ることなく独学で研鑽に努め、十数部の蘭書を読みこなすなどして、経済、物理、医学、天文などの各分野に通じていました。
萬里の学識は西欧の諸学者に 比肩するも のであったといわれます。
天保3年(1832)、13代藩主・木下俊敦に請われて家老職につき、藩財政の再建にも功績を残しました。
天保13年(1842)には私塾「西崦精舎(せいえんせいしゃ)」を開き、多くの子弟を教育しました。塾生は多い時は130人余りいたといわれています。
西崦精舎があった場所(現・南畑地区)には、現在は記念碑が建てられており、これは明治時代に地元の人々が萬里を讃えて建立したものです。







嘉永5年(1852)、75歳で亡くなり、日出町佐尾に「文簡帆足萬里先生墓」と刻まれた墓碑が、日出城に向けて建てられています。
墓碑を見ると所々が欠けているのが確認できます。
これは萬里の学識にあやかるため、お守りとして持ち帰る者が後を絶たなかったためといわれています。
墓は昭和33年(1958)に大分県史跡に指定されました。
毎年6月14日の命日には、萬里の墓所にて忌辰祭が行われ、「萬里先生讃歌」が合唱されます。
代表的な著書に、天文・物理から生物、人種・言語に及ぶ科学の体系書『窮理通(きゅうりつう)』をはじめ、
政治や社会体制を論じた政治書で、吉田松陰も目を通したといわれる『東潜夫論(とうせんぷろん)』など多数の著書があります。





撮影日・2013年2月22日

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