お家断絶 津山藩森家
改易日・元禄10年(1697)
美作津山藩と備後福山藩は、ほぼ同時期にお家断絶となった。
幕府が末期養子(大名が危篤になってから養子を願い出ること)を禁止している制度を、だいぶ大目にみて認めたが、
それでも、その子がまた早世したのがよく似ている。(津山の場合は狂乱)
また両藩とも10万石以上の格式高い大名で、改易は大半が小藩が占める中で異彩なのも似ている。
「加茂町史」
森家津山藩改易と収公
四代長成は元禄10年(1697)6月20日江戸で没し、実子がなかったので2代の24子の子で関家の養子になっていた
25歳の衆利を、長成の遺言による末期の養子として承認を求めた。
早速老中から衆利に出府の命があったので、かれは7月4日津山を発って東上したが、桑名近傍の縄生村で高熱を発して狂乱状態に陥った。
治癒の見込みも立たないので、幕府は8月2日末期の養子として認められない旨を以って領国収公を申し渡した。
森の美作領知は4代95年で、近世的美作創出の役割を果たしながら、悲劇的な幕を閉じたのである。
幕府の城地受け取りの上使陸奥一の関の藩主田村3万石以下が総勢19.500人の軍兵を以って城を囲み、10月11日日本丸で収公の行事が行われた。
収公後の美作には4人の代官が津山に陣屋をもって分割支配した。
城番は広島藩主が手勢をもって務めた。
城地収公当日、津山城下には上使田村と幕府からの目附水谷勝信(備中小坂部3.000石旗本)の連著で浪人した津山藩士を対象に高札が掲げられた。
浪人して30日以内に城下を立ち退いた約2.700人のうちには他藩に再仕官できた者もあったが、
大部分の者は縁故をたどって帰農したり、特技を持つ者はそれで業をたてた。
森家改易後の美作は、一時幕府代官の支配となったが5ヶ月で終わり、元禄11年1月には10万石の親藩である松平家津山藩が置かれた。
「江戸大名のお引っ越し」 白峰旬 新人物ブックス 2010年発行
元禄10年の津山藩城受け取り
元禄10年8月2日・津山藩主が改易された。
元禄10年8月3日・老中より田村が上使に命じられる
元禄10年8月3日・城の受け取りは明石藩主と福山藩主が命じられる
元禄10年8月5日・目付添目付が命じられる。代官が命じられる。広島藩主が在番を命じられる。
元禄10年8月14日・田村が津山藩家老を私邸へ呼び、城の地図をみながら詳しく聞く。
元禄10年8月15日・田村へ津山へ赴くため閑が出される。
元禄10年9月19日・目付が津山へ出発。
元禄10年9月23日・田村が江戸を出発。
元禄10年9月6日・明石藩主が津山へ出発。
元禄10年10月10日頃・上使、目付、添目付、受け取り大名が津山に集まる。
元禄10年10月11日・辰の刻(午前8時ごろ)に津山城受け取り。
元禄10年10月14日・城受け取り大名の明石藩・小浜藩と、在番大名の広島藩とが交代。
元禄10年10月16日・田村が津山を出る。
元禄10年11月7日・田村が5人の老中の前で状況を報告。
元禄10年11月18日・田村が将軍に御目見。
元禄10年12月22日・旧津山藩家臣がすべて城下を引き払った。
上使田村建顕の動向を中心として検討をおこなう。
上使は老中の指示を仰ぐ、結果を報告する。
城受け取りのスキームは田村が主導的に立案・実行する。
津山に向けて江戸を発足するまでの一月半、目付、添目付、代官と詳細なスケジュールをおこない、
城受け取り大名、在番大名とも連絡をとり指示し、
津山藩家老・用人に城絵図を提出させ城内の様子を聞く、
実施段階ではそのスキームを忠実に実行するだけの点であった。
城引き渡し・受け取りの監督が終わると、
江戸に帰って江戸城に登城して将軍への御目見をおこない、終了したことを復命する。
撮影日・2013年3月16日
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【つづく】お家断絶③備後福山藩水野家
改易日・元禄10年(1697)
美作津山藩と備後福山藩は、ほぼ同時期にお家断絶となった。
幕府が末期養子(大名が危篤になってから養子を願い出ること)を禁止している制度を、だいぶ大目にみて認めたが、
それでも、その子がまた早世したのがよく似ている。(津山の場合は狂乱)
また両藩とも10万石以上の格式高い大名で、改易は大半が小藩が占める中で異彩なのも似ている。
「加茂町史」
森家津山藩改易と収公
四代長成は元禄10年(1697)6月20日江戸で没し、実子がなかったので2代の24子の子で関家の養子になっていた
25歳の衆利を、長成の遺言による末期の養子として承認を求めた。
早速老中から衆利に出府の命があったので、かれは7月4日津山を発って東上したが、桑名近傍の縄生村で高熱を発して狂乱状態に陥った。
治癒の見込みも立たないので、幕府は8月2日末期の養子として認められない旨を以って領国収公を申し渡した。
森の美作領知は4代95年で、近世的美作創出の役割を果たしながら、悲劇的な幕を閉じたのである。
幕府の城地受け取りの上使陸奥一の関の藩主田村3万石以下が総勢19.500人の軍兵を以って城を囲み、10月11日日本丸で収公の行事が行われた。
収公後の美作には4人の代官が津山に陣屋をもって分割支配した。
城番は広島藩主が手勢をもって務めた。
城地収公当日、津山城下には上使田村と幕府からの目附水谷勝信(備中小坂部3.000石旗本)の連著で浪人した津山藩士を対象に高札が掲げられた。
浪人して30日以内に城下を立ち退いた約2.700人のうちには他藩に再仕官できた者もあったが、
大部分の者は縁故をたどって帰農したり、特技を持つ者はそれで業をたてた。
森家改易後の美作は、一時幕府代官の支配となったが5ヶ月で終わり、元禄11年1月には10万石の親藩である松平家津山藩が置かれた。
「江戸大名のお引っ越し」 白峰旬 新人物ブックス 2010年発行
元禄10年の津山藩城受け取り
元禄10年8月2日・津山藩主が改易された。
元禄10年8月3日・老中より田村が上使に命じられる
元禄10年8月3日・城の受け取りは明石藩主と福山藩主が命じられる
元禄10年8月5日・目付添目付が命じられる。代官が命じられる。広島藩主が在番を命じられる。
元禄10年8月14日・田村が津山藩家老を私邸へ呼び、城の地図をみながら詳しく聞く。
元禄10年8月15日・田村へ津山へ赴くため閑が出される。
元禄10年9月19日・目付が津山へ出発。
元禄10年9月23日・田村が江戸を出発。
元禄10年9月6日・明石藩主が津山へ出発。
元禄10年10月10日頃・上使、目付、添目付、受け取り大名が津山に集まる。
元禄10年10月11日・辰の刻(午前8時ごろ)に津山城受け取り。
元禄10年10月14日・城受け取り大名の明石藩・小浜藩と、在番大名の広島藩とが交代。
元禄10年10月16日・田村が津山を出る。
元禄10年11月7日・田村が5人の老中の前で状況を報告。
元禄10年11月18日・田村が将軍に御目見。
元禄10年12月22日・旧津山藩家臣がすべて城下を引き払った。
上使田村建顕の動向を中心として検討をおこなう。
上使は老中の指示を仰ぐ、結果を報告する。
城受け取りのスキームは田村が主導的に立案・実行する。
津山に向けて江戸を発足するまでの一月半、目付、添目付、代官と詳細なスケジュールをおこない、
城受け取り大名、在番大名とも連絡をとり指示し、
津山藩家老・用人に城絵図を提出させ城内の様子を聞く、
実施段階ではそのスキームを忠実に実行するだけの点であった。
城引き渡し・受け取りの監督が終わると、
江戸に帰って江戸城に登城して将軍への御目見をおこない、終了したことを復命する。
撮影日・2013年3月16日
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【つづく】お家断絶③備後福山藩水野家