加茂町史
昭和12年(1937)7月7日、北京郊外盧溝橋において日本軍は中国抗日民族統一戦線を率いる蒋介石軍に攻撃を開始した。
この事件は、いわゆる盧溝橋事件といわれ、日中全面戦争の口火となるものであった。
近衛内閣は戦争拡大のため軍隊を北京と天津周辺に集結させ、総攻撃を開始してこの年12月には南京を占領した。
この後、戦火は中国全土に広がり、ここに昭和6年の満州事変から数えて15年の長期にわたる日中戦争へ発展したのであった。
近衛首相は7月15日の地方官会議において訓辞を与えた。
この訓示を受け7月22日に岡山県市町村長会議では、
1・神社祈願の励行
2・動員準備の万全
3・出征軍人の歓送・慰問
4・軍事扶助、の4項項目をあげ、
近衛内閣の戦争政策に全面的に従うことを指示している。
「津山市史 第七巻」 津山市史編さん委員会 昭和60年発行
昭和12年7月7日夜、盧溝橋で中国軍との交戦が引き起こされた。
この事件が日中戦争の始まりである。
戦場は華北から華中へと広がり、日中両国は宣戦布告のないまま全面的な交戦状態になった。
中国国民政府は、中国共産党と組み、イギリス・アメリカの援助も得て、抗日をつづけた。
近衛内閣は、「国民政府を相手にせず。」と声明し、昭和15年、汪兆銘を推して中国に南京政府を樹立させた。
戦場が拡大するにつれて、応召者は数を増し、その都度に「祝出征」の幟を立て、日の丸の小旗を降って、
学校・町内会は総出の見送りをするようになった。
(街頭の千人針)
昭和12年9月25日、政府は、「国民精神総動員運動」を起こし、国を挙げて戦争遂行に当たることにした。
翌年4月1日には、「国家総動員法」が成立し、すべての物資・人的資源は、厳格な動員体制のもとにおかれた。
昭和14年4月、従来の防護団は警防団と改めた。
同年7月には国民徴用令が定められた。
下からも協力する組織として、昭和15年10月「大政翼賛会」を結成した。
各政党はこれに合流するため次々に解散した。
昭和12年(1937)7月7日、北京郊外盧溝橋において日本軍は中国抗日民族統一戦線を率いる蒋介石軍に攻撃を開始した。
この事件は、いわゆる盧溝橋事件といわれ、日中全面戦争の口火となるものであった。
近衛内閣は戦争拡大のため軍隊を北京と天津周辺に集結させ、総攻撃を開始してこの年12月には南京を占領した。
この後、戦火は中国全土に広がり、ここに昭和6年の満州事変から数えて15年の長期にわたる日中戦争へ発展したのであった。
近衛首相は7月15日の地方官会議において訓辞を与えた。
この訓示を受け7月22日に岡山県市町村長会議では、
1・神社祈願の励行
2・動員準備の万全
3・出征軍人の歓送・慰問
4・軍事扶助、の4項項目をあげ、
近衛内閣の戦争政策に全面的に従うことを指示している。
「津山市史 第七巻」 津山市史編さん委員会 昭和60年発行
昭和12年7月7日夜、盧溝橋で中国軍との交戦が引き起こされた。
この事件が日中戦争の始まりである。
戦場は華北から華中へと広がり、日中両国は宣戦布告のないまま全面的な交戦状態になった。
中国国民政府は、中国共産党と組み、イギリス・アメリカの援助も得て、抗日をつづけた。
近衛内閣は、「国民政府を相手にせず。」と声明し、昭和15年、汪兆銘を推して中国に南京政府を樹立させた。
戦場が拡大するにつれて、応召者は数を増し、その都度に「祝出征」の幟を立て、日の丸の小旗を降って、
学校・町内会は総出の見送りをするようになった。
(街頭の千人針)
昭和12年9月25日、政府は、「国民精神総動員運動」を起こし、国を挙げて戦争遂行に当たることにした。
翌年4月1日には、「国家総動員法」が成立し、すべての物資・人的資源は、厳格な動員体制のもとにおかれた。
昭和14年4月、従来の防護団は警防団と改めた。
同年7月には国民徴用令が定められた。
下からも協力する組織として、昭和15年10月「大政翼賛会」を結成した。
各政党はこれに合流するため次々に解散した。