お家断絶 福山藩水野家
改易日・元禄11年(1698)
5代藩主勝岑は1歳で跡を継ぎ、翌年・元禄11年(1698年)に2歳で死去した。
家臣団は、ものの本には「帰農した」というのを見かけるが、
江戸初期の武士と違い、兵農が分離されて100年後の元禄の「お侍」が、簡単に帰農できたとは思えない。
江戸に出て、ひっそりと笠張り浪人にでもなったのだろうか?
お殿様の死(=藩士に何も咎はない)である時、突然の放浪は・・・辛い。悲惨だ。
水野家改易と武士の矜持
改易に際して武士の意地が試されます。
福島正則の改易では、神辺城主福島丹波は家臣と共に広島城に立て籠り、
城下から領民を批難させ、戦闘態勢に入りました。武勇が尊ばれる地代でした。
ところが、
大平の世におこなわれた水野家改易では事情が違いました。
処分される骨董品の入札で、大勢の商人が城内へ土足で踏み込み、
家臣たちは憤懣やるせなく城を去ってゆきました。
隠密たちの情報によれば福山城下はいたって平穏で、
福山を離れる家臣たちは包囲軍団に対して捨て台詞を吐く程度でまったく無抵抗でした。
福山城を包囲する軍団にも変化がみられ、行列の出て立ちランキングでは、
今治藩・尼崎藩・丸亀藩・三次藩という順番で、
備中松山城引き渡しのときと比べて不調法・不作法だと辛口の評価が下されています(池田家文庫)。
水野家側も包囲軍側も、武士としての矜持をうしないつつありました。
「福山市史 原始から現代まで」 福山市 2017年発行
「福山市史 中」 福山市史編纂会 昭和58年発行
水野勝岑
勝岑は七男として福山に生まれた。
兄たちがすべて早世したため家督を継ぐこととなり、このときわずか1歳の幼時であった。
元旦の行事も勝岑幼少との理由で名代をもってすませたり、略式で行われたのも多くある。
幼主を擁した藩政は当然家老たち重臣の責任に帰したが、幕府は福山に目付を派遣した。
かくして勝岑は、襲封のお礼言上のため11年(1698)3月、陸路福山を出発し、4月28日江戸に到着。
しかるに旅中病を発して、5月5日江戸において死去してしまった。
京都から医師二人を招致して看護に当てるなど万端の配慮が行われていたが、わずか2歳にして夭折したのである。
譜代の名家として重きをなした水野家は、継嗣断絶によって、大名の地位を失い改易となった。
改易は家臣団のすべてが家禄を離れることとなる。
まことに国の崩壊なのである。
幕府は水野氏の「先祖の筋目を被思召」て、特にその名跡を伝えるため、ふた従弟半に当たる水野数馬に一万石を給して跡を継がせることにした。
数馬はやがて八千石加増の上、下総結城城主となった。
城下の動揺
藩士たちの間には勝成が魂をこめて築城した福山城を明け渡すことを潔しとしないとする動きもあった。
80余人が連判し、足軽も同調して、草戸河原に集合して気勢をあげた。
領内の庄屋らが水野家の存続を愁訴に及ぶ動きもあり、城下は一時騒然となった。
福山城請取り
幕府は、上使として摂津尼崎の青山播磨守(5万石)、目付として別所孫右衛門を派遣。
城請取りは伊予今治の松平駿河守(4万石)、備後三次の浅野土佐守(5万石)に命じ、
在番として讃岐丸亀の京極縫殿(6万石)をして勤めさせた。
この時、幕府の代官として三人派遣している。
上使以下は8月11日神辺着、翌朝福山へ到着した。
この頃にはすでに城下の騒ぎも鎮まり、道筋も清掃されて、町民は高燈灯を掲げて迎えたという。
町中はすべて侍衆の宿として徴発され、人と馬でうずまったと伝えられる。
家中の人々は、各々の役職に従って残務整理のために福山に残り、だいたい9月中旬までの間に引き継ぎを完了、
各々落居していったといわれる。
「福山市史 中」 福山市史編纂会 昭和58年発行
藩札の回収
最も大きな社会問題は、水野家が発行していた藩札の処理と、
膨大な水野家臣団の身のふり方とをあげることができる。
領民の心にかかっていたことは、藩札をどのように処理してくれるかということであったろう。
藩札は原則として領内のみに通用するのがたてまえである。
家老たちも残務整理で、このことに最も心をくだいている。
この時福山城にあった金銀の総額は、大判20枚、小判19.581枚、
銀2.201貫他であった。
勘定所が3割引きで見積もっているので、この程度であったと思われる。
両替の終わった藩札はすべて焼却された。
家臣の身の振り方
封建家臣団にとって主君の改易は、禄を離れて、たちまち失職することである。
他家に召し抱えらるるか、
牢人か、
帰農するしかないのである。
大部分は牢人したものであろう。
藩としても、せいぜい旅費を与えて退散させるしか手のうちようがなかった。
家中の行方
城下を引き払う日限は8月13日から30日限りとされ、福山領に止まりたいものは調べたうえで心次第とし、
立退きたいものも路銀配分のすみ次第立退いたと思われる。
他家に仕官した者、わずか10~50人扶持の、いわば捨扶持同然で召し抱えられているのが大きな特色である。
領内への帰農
もともと領内の土豪が水野家家中として召し抱えられた者の多かった因縁によるものと思われる。
松平家が入封すると、農村における牢人の退去を命じているので、帰農しないで牢人として居住する者のいたことが察しられる。
「福山市引野町史」 福山市引野町史編纂委員会 ぎょうせい 昭和61年発行
水野浪人の入村
勝岑は「ハシカ」にかかり1年5ヶ月の幼い命を閉じた。
これにより勝成以来西国の鎮衛として西国の幕府拠点を築いた水野氏も以来80年にしてついに断絶、改易となった。
多くは領内外に浪人または帰農した。
水野浪人に対する取り締まりを、領内庄屋に厳しく通達し、
その所在の報告を命じた。
各浪人は、村内居住に関し前身分として居住することなし、百姓身分としてのみの誓約書を庄屋に提出し居住した。
前身分を捨てることを命じられた。
撮影日・2020年1月4日
改易日・元禄11年(1698)
5代藩主勝岑は1歳で跡を継ぎ、翌年・元禄11年(1698年)に2歳で死去した。
家臣団は、ものの本には「帰農した」というのを見かけるが、
江戸初期の武士と違い、兵農が分離されて100年後の元禄の「お侍」が、簡単に帰農できたとは思えない。
江戸に出て、ひっそりと笠張り浪人にでもなったのだろうか?
お殿様の死(=藩士に何も咎はない)である時、突然の放浪は・・・辛い。悲惨だ。
水野家改易と武士の矜持
改易に際して武士の意地が試されます。
福島正則の改易では、神辺城主福島丹波は家臣と共に広島城に立て籠り、
城下から領民を批難させ、戦闘態勢に入りました。武勇が尊ばれる地代でした。
ところが、
大平の世におこなわれた水野家改易では事情が違いました。
処分される骨董品の入札で、大勢の商人が城内へ土足で踏み込み、
家臣たちは憤懣やるせなく城を去ってゆきました。
隠密たちの情報によれば福山城下はいたって平穏で、
福山を離れる家臣たちは包囲軍団に対して捨て台詞を吐く程度でまったく無抵抗でした。
福山城を包囲する軍団にも変化がみられ、行列の出て立ちランキングでは、
今治藩・尼崎藩・丸亀藩・三次藩という順番で、
備中松山城引き渡しのときと比べて不調法・不作法だと辛口の評価が下されています(池田家文庫)。
水野家側も包囲軍側も、武士としての矜持をうしないつつありました。
「福山市史 原始から現代まで」 福山市 2017年発行
「福山市史 中」 福山市史編纂会 昭和58年発行
水野勝岑
勝岑は七男として福山に生まれた。
兄たちがすべて早世したため家督を継ぐこととなり、このときわずか1歳の幼時であった。
元旦の行事も勝岑幼少との理由で名代をもってすませたり、略式で行われたのも多くある。
幼主を擁した藩政は当然家老たち重臣の責任に帰したが、幕府は福山に目付を派遣した。
かくして勝岑は、襲封のお礼言上のため11年(1698)3月、陸路福山を出発し、4月28日江戸に到着。
しかるに旅中病を発して、5月5日江戸において死去してしまった。
京都から医師二人を招致して看護に当てるなど万端の配慮が行われていたが、わずか2歳にして夭折したのである。
譜代の名家として重きをなした水野家は、継嗣断絶によって、大名の地位を失い改易となった。
改易は家臣団のすべてが家禄を離れることとなる。
まことに国の崩壊なのである。
幕府は水野氏の「先祖の筋目を被思召」て、特にその名跡を伝えるため、ふた従弟半に当たる水野数馬に一万石を給して跡を継がせることにした。
数馬はやがて八千石加増の上、下総結城城主となった。
城下の動揺
藩士たちの間には勝成が魂をこめて築城した福山城を明け渡すことを潔しとしないとする動きもあった。
80余人が連判し、足軽も同調して、草戸河原に集合して気勢をあげた。
領内の庄屋らが水野家の存続を愁訴に及ぶ動きもあり、城下は一時騒然となった。
福山城請取り
幕府は、上使として摂津尼崎の青山播磨守(5万石)、目付として別所孫右衛門を派遣。
城請取りは伊予今治の松平駿河守(4万石)、備後三次の浅野土佐守(5万石)に命じ、
在番として讃岐丸亀の京極縫殿(6万石)をして勤めさせた。
この時、幕府の代官として三人派遣している。
上使以下は8月11日神辺着、翌朝福山へ到着した。
この頃にはすでに城下の騒ぎも鎮まり、道筋も清掃されて、町民は高燈灯を掲げて迎えたという。
町中はすべて侍衆の宿として徴発され、人と馬でうずまったと伝えられる。
家中の人々は、各々の役職に従って残務整理のために福山に残り、だいたい9月中旬までの間に引き継ぎを完了、
各々落居していったといわれる。
「福山市史 中」 福山市史編纂会 昭和58年発行
藩札の回収
最も大きな社会問題は、水野家が発行していた藩札の処理と、
膨大な水野家臣団の身のふり方とをあげることができる。
領民の心にかかっていたことは、藩札をどのように処理してくれるかということであったろう。
藩札は原則として領内のみに通用するのがたてまえである。
家老たちも残務整理で、このことに最も心をくだいている。
この時福山城にあった金銀の総額は、大判20枚、小判19.581枚、
銀2.201貫他であった。
勘定所が3割引きで見積もっているので、この程度であったと思われる。
両替の終わった藩札はすべて焼却された。
家臣の身の振り方
封建家臣団にとって主君の改易は、禄を離れて、たちまち失職することである。
他家に召し抱えらるるか、
牢人か、
帰農するしかないのである。
大部分は牢人したものであろう。
藩としても、せいぜい旅費を与えて退散させるしか手のうちようがなかった。
家中の行方
城下を引き払う日限は8月13日から30日限りとされ、福山領に止まりたいものは調べたうえで心次第とし、
立退きたいものも路銀配分のすみ次第立退いたと思われる。
他家に仕官した者、わずか10~50人扶持の、いわば捨扶持同然で召し抱えられているのが大きな特色である。
領内への帰農
もともと領内の土豪が水野家家中として召し抱えられた者の多かった因縁によるものと思われる。
松平家が入封すると、農村における牢人の退去を命じているので、帰農しないで牢人として居住する者のいたことが察しられる。
「福山市引野町史」 福山市引野町史編纂委員会 ぎょうせい 昭和61年発行
水野浪人の入村
勝岑は「ハシカ」にかかり1年5ヶ月の幼い命を閉じた。
これにより勝成以来西国の鎮衛として西国の幕府拠点を築いた水野氏も以来80年にしてついに断絶、改易となった。
多くは領内外に浪人または帰農した。
水野浪人に対する取り締まりを、領内庄屋に厳しく通達し、
その所在の報告を命じた。
各浪人は、村内居住に関し前身分として居住することなし、百姓身分としてのみの誓約書を庄屋に提出し居住した。
前身分を捨てることを命じられた。
撮影日・2020年1月4日