しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

芭蕉 (敦賀)

2021年07月02日 | 銅像の人
場所・福井県敦賀市 気比神宮


敦賀

8月14日の夕暮れ、
敦賀の宿に着いた。
あるじは玄流という俳人であった。
14日は待宵で、月はことに晴れていた。
十五夜の月見は敦賀でと、芭蕉は心づもりにしていたのである。
あるじに酒をすすめられ、その夜は気比の明神に参詣した。
翌日は、亭主の言葉にたがわず雨が降った。

名月の前後には、やはり月の句をよむことが、その土地の人たちに対する旅人の挨拶だったのである。


「日本の古典に親しむ・奥の細道」 山本健吉 世界文化社 2006年発行








15日、亭主の詞にたがはず、雨降。

名月や 北国日和 定めなく









社殿のあたりは神々しく、松の間から月光が洩れてきて、神前の白砂が霜を敷いたようである。
「その昔、遊行二世の他阿上人が、みずから草を刈り、土や石を荷い、悪龍の住む泥沼を乾かしたので、
参詣の行き来する人の煩いがなくなったのです。
その古事が今につづいて、代々の遊行上人が神前で砂をかつがれるのです。
これを遊行の砂持と申します」
と、亭主は語った。

月清し 遊行のもてる 砂の上



「日本の古典に親しむ・奥の細道」 山本健吉 世界文化社 2006年発行










「芭蕉物語」  麻生磯次  新潮社 昭和50年発行 

大垣の人々は芭蕉が近いうちにここに来ることを知った。
とりあえず敦賀まで迎えの人を出すことにした。
その選にえらばれたのは路通であった。
はじめ今度の旅の道ずれに予定されていた路通が、旅の終わりに、曾良に入れ代わって出迎えることになったのも、奇妙な因縁であった。

路通は芭蕉に会って、その無事を喜び、北の海を目の前にして、
「目にたつや 海青々と 北の秋」という句をよんだ。
路通の案内で、芭蕉は等栽と別れ、北国街道を南下した。
芭蕉は路通に導かれ、途中馬の背を借りなどしながら大垣に到着した。

人々はまるであの世から蘇った者にでも会うように芭蕉の無事を喜んだ。



撮影日・2015年8月4日


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