「福山市史 原始から現代まで」 福山市 2017年発行
昭和12年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに日中全面戦争へと発展しました。
入営中の現役兵だけでなく、現役を終えて通常の暮らしに戻っていた予備役・後備役あるいは補充兵役中の在郷軍人にも多数の動員がかけられました。
沼隈郡瀬戸村では7月15日の1人を皮切りに。7月28日には一挙に51人に召集令状が届きました。
出征兵士やその家族への同情、さらにはそれにむくいなければならないとの焦燥は、
各市町村毎に結成された銃後奉公会・軍人後援会・愛国婦人会・国防婦人会、あるいは青年団といった諸団体による「銃後」の援護活動となって展開されました。
たとえば瀬戸村の愛国婦人会では、昭和13年の1年間に
出征兵士の見送りに29回、
武運長久の祈願祭に18回、
戦傷者平癒祈願の百度詣りに9回、
村葬に3回参列したほか、
各種の慰問や労力奉仕などに日々追われています。
(福山城での南京陥落祝賀会)
「福山市史 下」 福山市史編纂会 昭和58年発行
日中戦争と41聯隊
昭和12年(1937)7月7日、いわゆる日中戦争が始まった。
27日第二次動員が第5師団にも下命され、41聯隊も応召することになり、31日夕刻福山駅から出発していった。
第5師団の先頭部隊であった41聯隊は、朝鮮を経由して8月11日天津に入った。
この後の転戦商況について、連隊長山田鉄二郎大佐の手記『支那事変の思い出』をもとに簡単にふれよう。
山田部隊3.000人はただちに臨戦態勢に入り、8月の長城戦、9月の涞源城戦争、11月杭州湾上陸作戦などをへて、
12月上旬から南京総攻撃に参加して中国軍に大損害(遺棄死1.500人、武器など多数押収)を与え、13日に南京を占領した。
いわゆる大虐殺事件はこのとき起こった。
このころの山田部隊はその進撃の素早さから「快足部隊」の異名をとったといわれる。
南京で新年を迎え、1月3日青島攻略の命を受け、4月まで滞在、
同月7日には泝州城攻略に向かった。いわゆる徐州作戦の開始。
徐州会戦は歌にも歌われ小説にも描かれているように、なかなかの苦戦であった。
5月19日ついにこれを占領した。
死傷者750人、馬145頭失う。
昭和13年7月山田は少将に昇進のうえ広島陸軍幼年学校長に転任し、後任に納見大佐が来任した。
こののち日中戦争は文字通り泥沼化したが、食糧難、武器不足、病気、中国軍のゲリラに悩まされながら、
軍の作戦がいわゆる北進論から南進論に転換しマレー作戦に投入される17年まで、
まったく勝つ見込みのないまま中国各地を転戦させられた。
福山では41聯隊勝利の報がもたらされるたびに、小中学生を中心とする旗行列が盛大に行われた。
夜に入ると大人たちによって提灯行列が行われた。
戦死者は
「男子の本懐、聖戦の死」、「護国の人柱」、「壮烈・名誉の戦死」などといわれ、
しかも遺族は
「本人も満足でせう」、「肩身が広い」、「家門の名誉」などと、夫や息子の戦死について語らされるようになった。
戦傷者は
「治ったらまた征く」と本人がいい、
家族は「傷くらいなんでもありません」といわざるをえなくなり、戦病死はごく小さな扱いしかされなくなった。
「福山市引野町史」 福山市引野町史編纂委員会 ぎょうせい 昭和61年発行
支那事変
昭和12年7月7日から昭和20年8月15日までの、日本と中国との戦争で、当時の日本側の呼び方は「支那事変」であった。
両国が全面的な戦争状態に入った、昭和12年の盧溝橋事件以後を一般に日中戦争と呼んでいる。
当時の日本政府は、第三国からの軍需物資の輸入が困難になることを恐れて、宣戦布告を行わず、
戦争ではなく事変だとのたてまえをとり、戦争が上海に拡大した昭和12年9月2日「支那事変」と呼ぶことに決定した。
なお、昭和16年12月8日太平洋戦争に拡大すると、
政府は12月12日「支那事変」を含めて、この戦争を「大東亜戦争」と呼ぶことにした。
大東亜戦争の開戦にともない、南方に兵力・資材を引き抜かれた中国戦線の日本軍の勢力は弱体し、
戦線は崩壊寸前となった状態で敗戦を迎えたのである。
昭和12年7月7日の盧溝橋事件をきっかけに日中全面戦争へと発展しました。
入営中の現役兵だけでなく、現役を終えて通常の暮らしに戻っていた予備役・後備役あるいは補充兵役中の在郷軍人にも多数の動員がかけられました。
沼隈郡瀬戸村では7月15日の1人を皮切りに。7月28日には一挙に51人に召集令状が届きました。
出征兵士やその家族への同情、さらにはそれにむくいなければならないとの焦燥は、
各市町村毎に結成された銃後奉公会・軍人後援会・愛国婦人会・国防婦人会、あるいは青年団といった諸団体による「銃後」の援護活動となって展開されました。
たとえば瀬戸村の愛国婦人会では、昭和13年の1年間に
出征兵士の見送りに29回、
武運長久の祈願祭に18回、
戦傷者平癒祈願の百度詣りに9回、
村葬に3回参列したほか、
各種の慰問や労力奉仕などに日々追われています。
(福山城での南京陥落祝賀会)
「福山市史 下」 福山市史編纂会 昭和58年発行
日中戦争と41聯隊
昭和12年(1937)7月7日、いわゆる日中戦争が始まった。
27日第二次動員が第5師団にも下命され、41聯隊も応召することになり、31日夕刻福山駅から出発していった。
第5師団の先頭部隊であった41聯隊は、朝鮮を経由して8月11日天津に入った。
この後の転戦商況について、連隊長山田鉄二郎大佐の手記『支那事変の思い出』をもとに簡単にふれよう。
山田部隊3.000人はただちに臨戦態勢に入り、8月の長城戦、9月の涞源城戦争、11月杭州湾上陸作戦などをへて、
12月上旬から南京総攻撃に参加して中国軍に大損害(遺棄死1.500人、武器など多数押収)を与え、13日に南京を占領した。
いわゆる大虐殺事件はこのとき起こった。
このころの山田部隊はその進撃の素早さから「快足部隊」の異名をとったといわれる。
南京で新年を迎え、1月3日青島攻略の命を受け、4月まで滞在、
同月7日には泝州城攻略に向かった。いわゆる徐州作戦の開始。
徐州会戦は歌にも歌われ小説にも描かれているように、なかなかの苦戦であった。
5月19日ついにこれを占領した。
死傷者750人、馬145頭失う。
昭和13年7月山田は少将に昇進のうえ広島陸軍幼年学校長に転任し、後任に納見大佐が来任した。
こののち日中戦争は文字通り泥沼化したが、食糧難、武器不足、病気、中国軍のゲリラに悩まされながら、
軍の作戦がいわゆる北進論から南進論に転換しマレー作戦に投入される17年まで、
まったく勝つ見込みのないまま中国各地を転戦させられた。
福山では41聯隊勝利の報がもたらされるたびに、小中学生を中心とする旗行列が盛大に行われた。
夜に入ると大人たちによって提灯行列が行われた。
戦死者は
「男子の本懐、聖戦の死」、「護国の人柱」、「壮烈・名誉の戦死」などといわれ、
しかも遺族は
「本人も満足でせう」、「肩身が広い」、「家門の名誉」などと、夫や息子の戦死について語らされるようになった。
戦傷者は
「治ったらまた征く」と本人がいい、
家族は「傷くらいなんでもありません」といわざるをえなくなり、戦病死はごく小さな扱いしかされなくなった。
「福山市引野町史」 福山市引野町史編纂委員会 ぎょうせい 昭和61年発行
支那事変
昭和12年7月7日から昭和20年8月15日までの、日本と中国との戦争で、当時の日本側の呼び方は「支那事変」であった。
両国が全面的な戦争状態に入った、昭和12年の盧溝橋事件以後を一般に日中戦争と呼んでいる。
当時の日本政府は、第三国からの軍需物資の輸入が困難になることを恐れて、宣戦布告を行わず、
戦争ではなく事変だとのたてまえをとり、戦争が上海に拡大した昭和12年9月2日「支那事変」と呼ぶことに決定した。
なお、昭和16年12月8日太平洋戦争に拡大すると、
政府は12月12日「支那事変」を含めて、この戦争を「大東亜戦争」と呼ぶことにした。
大東亜戦争の開戦にともない、南方に兵力・資材を引き抜かれた中国戦線の日本軍の勢力は弱体し、
戦線は崩壊寸前となった状態で敗戦を迎えたのである。