しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和12年7月7日・盧溝橋事件  広島県庄原市

2021年07月07日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「庄原市の歴史」  庄原市  ぎょうせい  平成17年発行

日中戦争

昭和12年7月7日、日中両軍は盧溝橋で衝突し日中戦争がはじまる。
同月後半から8月にかけて多数の兵員召集が行われた。

西日本各県では、早くは7月13日ごろから、赤紙の報のあるたびに町村民が集い、27.28.29日に至ってピークに達する。
たとえば、広島県比婆郡敷信村では人口三千人の小村だが、一度に44人に赤紙が配られ、7月29日奉告祭と送別式をおこなって庄原駅まで見送り、
福山41聯隊へ送り出した。

広島第5師団(広島・浜田・山口・福山)は太平洋戦争に至るまで戦死者の多い師団として知られていた。
将校の生き残りも少ない。

大量の兵員が広島駅に到着し、宇品港から中国大陸に向かうので、8月1日には広島駅北側の陸軍東練兵場に接して軍用ホームが二本増設され、
同日歩兵11聯隊(広島)歩兵41聯隊(福山)の主力部隊は宇品港から「北支」へ向かった。


大陸へ派遣される部隊は広島市の大通りを小旗を振る市民の間を勇壮に行進し、宇品港へ向かった。
軍歌にあるごとく「歓呼の声」と日の丸の旗に送られて前線に向かった。
それは日清戦争以来変わらぬ軍都広島の出陣風景であった。

12月には首都南京を占領し、「南京大虐殺」と呼ばれる世界を震撼させる大事件を起こし、
30万人を下らない中国人を虐殺したが、国民が知ったのは第二次大戦後のことであった。
いまだに「南京大虐殺」は存在しなかったと主張する人々もあり、なお「現在の問題」である。






(南京城壁)



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昭和12年7月7日・盧溝橋事件  岡山県都窪郡

2021年07月07日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)
「早島の歴史2」 早島町史編集委員会  1998年発行


昭和の幕開けは全国的な御大典祝賀行事で始まった。
しかし、そのお祭りムードの裏で戦争への準備も着々と進み、満州事変・上海事変を経て昭和12年には日中の全面戦争へと突入した。
そして昭和16年の真珠湾攻撃によって日本は世界を相手に戦争を行うこととなった。


昭和12年7月の盧溝橋事件を機に日中全面戦争にいった。
そして、人々の生活も軍事最優先とされた。
こうした時代の中で、早島からも数多くの人々が戦地へ赴いた。
早島町出征軍人後援会(会長=町長)は町や家族の近況などを掲載した『早島新報』を発行した。

男たちの多くが出征した後、地域や家庭の守りは女たちの役割となった。
そして、彼女たちは愛国婦人会・連合婦人会・大日本国防婦人会などの婦人団体に組織された。
婦人会員の実行すべき申し合わせ事項として、
一、非常時の国家に報いるために、はたまた一家の更生のために一層勤労努力致しましょう。
二、経済の組織化計画化を図り、之が実行を期しましょう。
三、分に応じ社会奉仕をしましょう。
四、経済生活と道徳生活を一致させましょう。

その下に数項目からなる細かな目標を定めている。
ととえば、
子女の教育に留意し御国に役立つ善良な第二の国民をつくろうとか、
非常時を自覚し一日のうち一時間長く働こうとか、
宅地を利用して野菜や鶏・兎を育てようとか、
日常生活の細部にわたって目標が掲げられていた。


昭和12年8月、大日本国防婦人会都窪郡早島町分会が組織された。
宣誓決議には

本町よりも勇士を多数戦場に送っていることは、ひそかに誇りとし歓びとするところでありまして、
本町民たるもの挙町一致、
常に皇軍の武運長久を祈り、不断に銃後の務に欠くることなきを念ひ、努力を続ける次第であります。

その後、三つの婦人団体は昭和17年全国的に統合され「大日本婦人会」として再発足した。
早島町でも、モンペ服装にて国防訓練に貯蓄に援護に会員一同団結して活動する会員数1779名の早島支部が発足した。

昭和12年8月、政府は全ての国民を戦争に協力させるために国民精神総動員実施要項を策定した。
早島町でもこれを受けて、10月13日から一週間を強調月間とし、
各戸ごとに国旗を掲揚して、
13日・時局生活の碑、
14日・出動将兵への感謝の日、
15日、非常時経済の日、
16日、銃後の守りの日、
17日、神社参詣殉国勇士を讃える日、
18日、勤労報国の日、
19日、非常時心身鍛錬の日、
と定め、行事の励行に努めさせた。


(倉敷高等女学校勤労奉仕隊 早島小学校)



思想防衛団

また、思想統制も強化され昭和13年10月には「早島町思想防衛団」が組織された。
共産主義や反国家思想による銃後錯乱に備えるものであった。
団長は町長、副団長には助役と小学校長が就任した。
町内を16の班に分けそれぞれに班長を置いた。
その活動は思想動向の調査にあり、人々は心の中まで監視されるようになった。





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