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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

空襲化の育児

2021年08月11日 | 昭和16年~19年
母は母乳がよく出る人だった。
管理人は5歳ころまで吸っていた。
母は子を3人産んだが、すぐ近所の赤ちゃん二人にも乳をあげていた。
しかし、その赤ちゃんは二人とも戦時中の物資・食糧不足の時代を生き抜くことができず死んでしまった。



「神国日本のトンデモ決戦生活」 早川タダノリ  合同出版2010年発行

空襲化の育児

乳児の栄養面について、「代用乳(無乳栄養)の作り方と与え方」(主婦之友・昭和19年10月号)、
丁寧に指南。炒った米・小麦・大豆などの粉に鰹節・魚・イナゴ・サナギなどのタンパク質と乾燥野菜、砂糖、塩をお湯で溶いたもの。
「戦時下妊婦の使命」「敵米英の母に勝て」と役にたたない精神論も遺憾なく発揮している。





空襲が本格的に始まる直前には、
「子供を被害から逃れさすことばかりが防空ではありあせん。
戦場に育った子供でなければ経験し得ない、生々しい戦いの体験を、将来国の強兵として戦場に立つ時の基礎に、立派に活かしていこうではありませんか。
戦争を怖がらせてはならない、盲目的な平和思想を抱いてはさらにならない。
空襲をも戦時下の精神鍛錬の鉄床として活用する、この母の心構えこそ『子供の防空』の根底をなすものであると信じます」(主婦之友・昭和19年8月号)
と無責任に説教してもいた。
もはや、負け惜しみを通り越して倒錯の域に達している。

こんな「空襲体験」をおしつけられた母親も赤ん坊もたまったものではなかったろう。

 
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「産むな 増やすな 国のため」

2021年08月11日 | 昭和16年~19年
「貧乏人の子だくさん」
明治、大正、昭和初期、日本人の大半が貧乏人だった。どこの家庭も子だくさんだった。
「産めよ増やせよ国のため」
戦時中は、未来の兵士を増やし、そして死んでもらうために、多くの子供(5人以上)を産むことが国民の義務とされた。
「ベビーブーム」(団塊の世代)
終戦後、食うや食わずで娯楽のない時代、夫婦の唯一の娯楽として性行為があり、日本中に妊婦の人があふれた。
世が落ち着くと、ベビーブームは終わった。

近年まで、日本は子だくさんの時代がつづいたが、
「産むな増やすな国のため」と半ば強制的に断種された人たちもいた。



「熱風の日本史」 井上亮 日本経済新聞社 2014年発行 

「悪質な遺伝子」の根絶をめざす優生学は社会的ダーウィニズムの影響を受けたもので、20世紀初頭から世界的に流行する。
日本の優生政策に大きな刺激を与えたのが昭和8年、ナチス・ドイツによる断種法制定だった。
「劣悪者」が人口に占める比率が増加すると、人口の質が低下すると考えられた。
「国民の体力向上=強兵養成」を主張していた陸軍の要請を受けて昭和13年に厚生省が誕生。優生課が設けられる。
昭和15年3月国民優生法が帝国議会で可決。
「悪質な遺伝子」を持つ者への優生手術、すなわち断種の規定が設けられた。
ほかに本人や祖先に遺伝的な障害・疾患を持つ者の結婚を規制した。

断種対象者は全国で約30万人と見積もられていた。
昭和22年法が廃止されるまでに実施された断種手術は538件(男217,女321)にすぎない。
これは強制でなく、任意としたためだった。
国家が多産奨励に傾斜していったのも、非人道的な断種法を骨抜きにした。

ところが優生法とは無関係に断種手術を強要されていた人々がいた。
ハンセン病患者である。
昭和6年の「らい予防法」で全患者の隔離政策が推進された。
療養所では結婚の条件として「任意」の断種手術が非合法に行われていた。
昭和24年~平成6年までに強制的不妊手術は1万8.000件で、戦前をはるかに上回っている。

アメリカ
世界でもっとも断種法が普及していた国はアメリカだった。
対象者は精神病患者や知的障害者で、性犯罪者にまで広げられた。
32州で1937年時点で2万5.000人以上に不妊手術が施された。
1940年代までには、カナダ、メキシコ、デンマーク、スウェーデン、ノルェーなどの欧州各国も断種法を制定した。
ドイツ
第二次大戦が始まると断種を中止。
精神病患者、障害患者などを抹殺する「安楽死計画」を実施し、十数万人が殺害されたという。

優生思想はファシズムと結び付けられて考えられがちだが、民主主義国家にも受け入れられていた。
人間の尊厳を社会がいかに実現すべきなのか、考える必要がある。








「ビジュアル日本の歴史 116」

産めよ増やせよ国のため

1940年(昭和15年)11月3日、「明治節」の祝日に、厚生省は全国10.336の優良多子家庭を表彰した。
厚生省は前年より「人的資源」確保のために多産奨励を打ち出しており、今回の表象はそれを浸透させる目的で行われた。
選ばれる家庭の条件は、同一父母のもとで満6歳以上の子どもが10人以上育てられ、しかも子どもも両親も健康かつ性行善良であること。
都市部では大正時代から晩婚少子化傾向があり、選ばれた家庭の大半は農村の中・上流家庭であった。
政府が「産めよ増やせよ国のため」と大奨励したため、翌年日本の出生数と婚姻件数は大きく増加する。
しかし、
その裏では「不良な子孫の出生を防止」する国民優性法(1940年公布)のもと、障害者やハンセン病患者の断種手術も行われていた。





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【靖国の妻】の貞操

2021年08月11日 | 昭和16年~19年
女性は結婚する以前は純潔を言われ、
結婚して夫が死ぬと貞操を守れと言われる、(特に戦争未亡人には)
「生めよ増やせよ」(5人産む)を実現しよとしたら、再婚しないと不可能なのだが。


「神国日本のトンデモ決戦生活」 早川タダノリ  合同出版2010年発行

【靖国の妻】の貞操
遺された未亡人は、立派な【靖国の妻】でありつづけることが厳しく要求された。
昭和14年に帝国在郷軍人会本部が刊行した『軍国家庭読本』は、
靖国の妻たちの生活態度を思いっきり引き締めるために作成したパンフレットで、
「期待される軍国婦人像」をストレートにあらわしている。
その中でも、かなりの量が割かれているのが【靖国の妻】たちの「貞操問題」だった。



未亡人の貞操をどう守るか、
「婦人本然の美徳であります徹底的な愛は、とかく一面において盲目的であり、熱狂的であり、偏狭である恐れがあるのであります。
一時的の愛に溺れて、永遠の幸福を忘れたり,或いはあるものを偏愛するとかいうような事例がないではないのであります。
つまらぬ劣情や、一時的な感情に左右されてのことが多いのであります。
此の偏狭な熱狂的な愛は、婦人として最も慎まねばならぬ所であります。」

彼らは、女=詰まらぬ劣情に左右されるという徹底した女性蔑視観に基づいて、【靖国の妻】の大義名分をふりかざし、女性たちにタガをはめようとしたのである。

こうした道徳の強制は、
「理想としては、一生独身生活を送るのが至当」
「身の勝手や、情欲の為に、再婚するようなことは許すべからざる罪悪である」
などという人な結論をもたらした。
婦人の「劣情」や「情欲」に注目しこだわっているのところに、帝国在郷軍人会のやらしい目線を感じる。



戦争未亡人の多くは昭和19年、20年に発生している。
その年齢は24.25歳、子供1~2人で未亡人となったと推測される。
自分と子供が、どうやって食べていくか、毎日がぎりぎりの生活だったと思えるが,その心中に、ほんのいくらかはタガになったのかもしれない。

しかしまあ、無責任極まる「読本」である。
発行した在郷軍人会は、戦後地方の支部分会の役員に至るまで、公職追放になっている。





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終戦ごろの国民学校④深安郡千田村

2021年08月11日 | 昭和20年(終戦まで)
「千田学区地域誌」  千田学区町内会連合会  2008年発行

学校・家庭の様子

校庭では碁盤の目のように四列縦隊で、駆け足や行進が出来るだけの通路を残し、
残りは掘り起こして畑とし、甘藷を植えて食糧増産の一助としていました。

山の松に鋸で切り目を入れて松ヤニを集めたり、よもぎ・わらび・なずなやどんぐり等を食料不足のため採集したり、
桑の木やカズラを剥いで繊維とする手助けをしていました。
学校に炭焼き釜を作り木炭の生産をしました。
唱歌は軍歌一辺倒になり、体育はみな裸足でした。
縁故疎開も多く千田国民学校の各クラス20%位いました。


男性(昭和8年生)

私は千田尋常に入学し、2年生の時に千田国民学校と名前が変わりました。
それとともに教育内容も皇国民育成を目的にするものに改められました。
宮城遥拝・・・全校生徒が宮城の方向に向かい「天皇陛下に対し奉り最敬礼」という号令で最敬礼をするのです。
奉安殿・・・昭和3年に建設されまた。式典当日の朝には校長先生が白手袋をはめて、うやうやしく奉持して式場に運んだものでした。
増産・・・校庭でのサツマイモ、峠山の学校農園での増産。農繁期の出征兵士の農家や遺族の農作業などに、高学年の児童が派遣され授業の一環とみなされました。
天皇の名を覚える・・5年生の国史では、初代から124代まで、全部間違えずに言えるものが優秀だと評価されました。
教育勅語は4年生で覚えました。
軍人勅語は難解で長いものでした。皆で斉唱し、皆覚えていました。
終戦の直前、最もよく歌っていた歌は「勝ち抜く僕ら小国民」でした。
その頃、国民によく歌われていたのは「予科練の歌」でした。
近所のお父さん、お兄さんたちの戦死、横尾駅への遺骨のお迎えも毎日のようで、悲しみの心がマヒしていました。


国民学校(皇国民教育) 体験・男性 1933(昭和8年生れ)

私は昭和15年、千田尋常高等小学校の尋常科1年に入学しました。
翌年、4月1日から国民学校令が施行されて、千田国民学校と名前が変わりました。
それと共に教育内容も、天皇制国家主義、軍国主義に基づく皇国民育成を目的とするものに改められ、
学校では朝礼の際に、宮城(皇居のこと)遥拝が行われるようになりました。

宮城遥拝
全校生徒が宮城の方向に向かい
「天皇陛下に対し奉り最敬礼」
という号令で最敬礼をするのです。
最敬礼とは、両手が膝頭に触れるまで、45度上体を傾けるお辞儀のことで、
天皇、皇族、神霊に対して行うお辞儀として定められていました。

奉安殿
全国の学校に校舎とは別に「奉安殿(ほうあんでん)」という小さな神社風の建物が作られました。
千田小学校では昭和3年に建設されました。
学校の式典当日の朝には校長先生が白手袋をはめて「ご真影」や教育勅語の巻物をそこから取り出して、
うやうやしく奉持して式場に運んだものでした。


増産
農作物の生産を増やすために、校庭でのサツマイモ栽培、峠山の学校農園での増産に励んでいました。
農繁期には出征兵士の農家や、遺族の家の農家に学校から高学年の児童が派遣され仕事を手伝いました。
それらは授業の一環とみなされました。

天皇の名前を覚える
国民学校の5年生の国史のテストでは、初代天皇から124代(昭和天皇)まで、
全部間違えずにいえるものが優秀だと評価されました。
「教育勅語」は4年生で覚えました。

軍人勅語5ヶ条の暗唱
今でいうホームルームで、皆で斉唱し、皆覚えていました。
一(ひとつ)軍人は忠節を尽くすを本文とすべし
一(ひとつ)軍人は礼儀をただしくすべし
一(ひとつ)軍人は武勇を尚ぶべし
一(ひとつ)軍人は信義を重んずべし
一(ひとつ)軍人は質素を旨とすべし


唱歌
軍歌一辺倒。
私たちは日本伝統の童謡は、ほとんど習っていませんでした。
軍歌から始まり、軍歌であけくれていました。
戦友・・ここはお国を何百里
軍艦行進曲・・守も攻もくろがねの
水師営の会見・・旅順開城約なりて
広瀬中佐・・轟く砲音飛び散る弾丸
露営の歌・・勝ってくるぞと勇ましく
暁に祈る・・あああの顔で あの声で
同期の桜・・貴様と俺とは同期のさくら

6年生が昭和20年終戦の直前、もっともよく歌っていた歌は
「勝ちぬく僕ら小国民」でした。
その頃、国民によく歌われていたのは「予科練の歌」でした。

毎日学校で、作業に行くときの行進でも歌っていました。




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終戦ごろの国民学校③岡山県真庭郡新庄村

2021年08月11日 | 昭和20年(終戦まで)

「新庄村の暮らしと俗信」  立石憲利 2020年発行

新庄国民学校

〇戦時中、新庄小学校は一クラスで29人から32人だった。
朝学校で、「見よ東海の空明けて、旭日高く輝けば・・・」の歌をうたって、4年生以上は作業に出かけて行った。
開墾は広戸に行った。大豆、小豆、サツマイモを戦地に送るといって出した。
炭焼きは、学校の近くに炭窯があった。切った木を枝のついたまま1km以上引っ張って帰った。
木を引っ張るのは低学年と女子、男子は炭を焼いた。
昭和17~20年ごろは、何も食べるものがなかった。
竹の皮拾いもやった。夏休みの子供の仕事の一つ。朝鮮人が買いに来る。
学校田で6月に田植えをする。5月に村有林に柴刈りに行って、押切で切って田に入れた。柴刈りは5年生以上が行った。

〇子供たちがワラビ、ゼンマイ、どんぐりをとり小使いさんが干して、それを供出した。

〇空襲警報が出ると、学校では近くのお宮やお寺に避難した。
その他は作業をつづけた。



子どもの食べた野のもの

豆イチゴ
田植えが終わるころ、小さな小豆くらいの赤い実がなり、甘い。
桑の実
刈り桑で毎年新しい芽が出る。夏に実がなる。口を真っ黒にして食べた。
グイビ
(茂平ではビービー、グミの実)
ズンバエ
チガヤの幼穂。
シンザイトウ
(茂平ではシーシー、スイバ)
アケビ
甘くておいしい。
サクランボ
熟れて落ちたのを拾って食べた。
どんぐり
味は渋かった。
松脂
取って噛む。苦い。
その他にも多数あり。




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終戦ごろの国民学校②乙種予科練全員受験

2021年08月11日 | 昭和20年(終戦まで)
岡山県では矢掛中学の学年全員が甲種予科練を受験して新聞記事になった。
広島県では坪生国民学校高等科2年の生徒全員が乙種予科練を受験するのが新聞に載った。

終戦後、校長先生は公職追放を受けたのだろうか?それとも自ら辞職したのだろうか (たぶん今の国会議員と同じで、知らんぷりで戦後を生きたのだろう)

戦後、矢掛高校の校史からは抜け、坪生国民学校高等科は短い歴史で廃止されている。




(広島県福山市坪生町・神森神社)


「戦争の時代」 つぼう郷土史研究会 青葉印刷 平成7年発行

乙種予科練全員受験

朝早くから神森神社の境内で、村長さんを始め在郷軍人会、婦人会、そして私たち小学校児童等、多勢の人々を前に、直立不動の出征兵士が決意を込めて挨拶され、万歳の声に送られて故郷を後にする。
授業はその間休みで、勉強せずにすむ。
戦争の話を聞くのが何より楽しかった。
私たちも今に兵隊になるのだ、戦争に行くんだ、天皇陛下のために死ぬんだと教えられてきた。
軍艦マーチと海ゆかば、連戦連勝のニュースばかりだ。
教室の廊下に大きな地図が貼られ、占領地域に日の丸の印がどんどん書き加えられて行く。
高等二年(昭和18.4.~19.3)になると、
満蒙開拓青少年義勇軍の話が先生より度々出る。
「誰か志願するものはいないか」。
次に海軍志願兵の話になり、
昭和19年3月末で満15歳になるものは一般水兵、
満14歳は乙種予科練の受験資格ができる。
男子全員志願を決めた。

新聞に全員志願の記事が載った。
私は早く軍人になりたかった。
乙種予科練の試験は昭和18年12月、繰り上げ徴兵検査の青年たちに子供のような私たちが混じって、神辺国民学校の講堂で行われた。
寒い日であった。
整列するとき、青竹を持った海軍軍人が怒鳴りながら、遅いと張り倒す。
まずどぎもを抜かれる。
学科試験が先で、数学、国語だけだった。
3名だけ合格で、後は不合格で試験場より出て行った。
身体検査は大人に混じって並んで受けた。
不合格になるとその場で、帰って良いといわれる。
花柳病の検査では素っ裸で一列に並んで受けた。花柳病がなんだか知らずに。
最後に面接で、
「本日から帝国海軍軍人である、いやしくも恥ずかしい行動のないように」との試験管の訓示とともに、乙種飛行予科練生乙下合格の適任証を貰った。
嬉しかった。
時に13歳9ヶ月、1m45cm、35kgであった。
採用通知は来なかった。



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終戦ごろの国民学校①子どもはめっきり勉強しなくなった

2021年08月11日 | 昭和20年(終戦まで)
「ふるさと読本 にしえばら」 井原市立西江原小学校 平成6年発行

戦後の学校生活
昭和20年8月15日、日本が戦争に負けました。
西江原でも食べるもの・着るものにたいへん困りました。
学校では、今まで使っていた教科書の中で、「戦争に勝つこと」や「日本の国をたたえた」内容の部分を、墨でぬりつぶして使うようになりました。
また、「歴史」は教えないことになりました。




「伝えたいわがわがふるさと」 笠岡市新山公民館 

新山国民学校と戦時体制

昭和16年3月の国民学校令により、4月から新山尋常高等小学校が、新山国民学校と改称して戦時体制に入ることになります。
向山の開墾・炭焼きの手伝い、炭焼窯の築造、けしの栽培等、
予科練の小隊が学校に宿泊したり、
安養寺へ神戸市六甲国民学校の児童が集団疎開で来たり、
福山市の空襲等、警戒警報・空襲警報で防空壕に避難する等大変でした。





「美星町史」 美星町史編集委員会 山陽印刷  昭和51年発行

小学校では、敵国の首相の肖像画を書いて、長針を突き刺し「うちてし止まん」と朱書きしたポスターを教室や廊下にはりつけ、
校門の入り口にわら人形をしつらえて竹槍をそなえ、気合をかけて刺殺したりして敵愾心を養い、朝礼で「海ゆかば」を朗唱し、必勝の祈りをしてから教室に入った。
教育勅語も論じる余地のない戦争一色の毎日であった。



「勝央町史」 勝央町  山陽印刷 昭和59年発行

「戦時下の学校教育」
授業は神話に始まる皇国史を学び、戦争の話に眼を輝かせ、勇士の活躍に胸を躍らせ、体操は勇ましい建国体操、唱歌は軍歌を歌い、
諸行事は出征兵士の見送り、英霊の出迎え、防空演習がなされ、
農繁期には高学年は授業を中止して出征兵士の家や戦没者の家に勤労奉仕作業に出かけた。
朝礼の東方遥拝、御真影をおさめた奉安殿の前の敬礼は励行され、毎月8日は大詔奉戴日として、全校揃って神社に参拝し兵士の武運長久と戦勝を祈願するのが決まりであった。
物資不足を補うため山野の開墾、松根油堀り、松脂とり、あべの木の皮はぎ(コルクの材料)、かやの穂とり(ふとん綿の代用)、竹の皮採取、桑の皮むきなどに精出した。




「戦争の時代」 つぼう郷土史研究会 青葉印刷 平成7年発行

戦時中の学校生活

私は昭和13年3月、学校を卒業するや神辺小学校に奉職した。
間もない4月1日、短期現役兵として広島の11連隊に入隊。
8月31日除隊。
9月より昭和20年10月末まで勤務した。

昭和17年、太平洋戦争も激化し、物資の統制も日増しに進んだ。
男子教員は揃って丸刈りに髪を切った。
戦局は次第に進み、英霊は次々に帰還して、校庭での合同葬。

肉体も精神も強い子どもにするために、児童ははだか体操に素足、集団訓練の重視、週一回のマラソン。
男子は剣道、女子はなぎなた、体育時間は跳び箱、マットによる転回、鉄棒、
球技はなし。

食糧増産
さつまいもの葉柄つみ。茹でて乾燥野菜として戦地へ送る。
藤の皮をむぎに町有林へ。
金槌でたたき皮を供出する。これは学童服になる。
運動場はついに畑にする。
走るコースを残して、中はさつまいも、かぼちゃを植える。
夜盗難にあい、職員は交代で夜警をした。
稲刈り、麦刈りには、上級生は鎌をもって参加した
子どもはめっきり勉強しなくなった。




(広島県福山市 元坪生国民学校跡地)


津之郷

「福山市津之郷町史」 ぎょうせい  2012年発行
・・・・
昭和4年度の卒業生の進路
中学校 2
女学校 10
商業学校 1
高等小学校 31
家事 1
・・・・

昭和6年 二宮尊徳像の建立と築山が造成
昭和9年2月 紀元節に、校旗・校歌の制定式が行われた。
昭和14年4月 大楠公銅像除幕式
昭和16年4月1日 『国民学校令』により、津之郷国民学校と改称。
義務教育の年限が8ヶ年となり、初等科6年、高等科2年とした。
昭和17年12月 二宮尊徳像・大楠公像の応召に付き壮行式を行う。

昭和19・20年当時、
農村に残っている者といえば、婦人や老人、それに子どもばかりで、
食料生産にも労働力不足で、子どもといえども必要な労働力であって、
学校から帰るとすぐに家事の手伝いはもちろん学校でも、
毎日のように食糧増産のための農作業があった。
昭和19年から校庭も畑に利用されて、春・夏はカボチャや大豆・甘藷が植えられ、
カボチャの収穫後、秋は大根や葉物野菜が植えられた。

春は高増山あたりにワラビ採りに行き、学校で蒸してから干して供出した。
また、ヨモギを摘み、蒸して供出した。
その他、軍馬の飼料用としての干草作りもあったし、
また、綿の代用にするために、ススキの穂の綿のような部分をしごいて収穫したりした。
糊の原料になるヒガンバナの根を掘って供出したこともある。
繊維の原料にするため、桑や藤・葛の皮をはぎ供出した。

昭和20年になると、松やに採取のために、大きな松の木の幹に鋸目を入れ、
そこから流れ出る液を竹の筒に受けるようにしたものを毎日、
集め回ってそれを学校に持って行くようになっていた。

松やには飛行機や戦艦の塗料の原料とされた。

松根油株割兵士が同年6月から講堂に宿泊し、現在の保育所の北方で、
周辺で集められた松の根を割って、乾留して松根油を採取した。
松根油から飛行機燃料などが製造された。
福山空襲の翌日、暁(高射砲)部隊が講堂に駐留し、
運動場などの木陰に高射砲を据え付けた。
軍隊の駐留に伴い、南校舎の教室一部は軍服の生地などの
軍需物資の倉庫となった。
駐留した軍隊は、両部隊を合わせて、100名程度だった。

靴なども配給制で、一学級に何足か割り当てられ、くじ引きで先生が渡していた。
ゴムマリ等もくじでもらえたが、何をもらっても「兵隊さんありがとう」
と礼を言ったものである。

昭和18.19年頃からは、親せきを頼って戦禍を逃れて都会から疎開してくる子どもや家族が
だんだんと増えて、学校の児童数も多くなってきた。

体操や作業の時間が多くなり、体操の時間は武道や軍隊訓練のようなものが取り入れられ、
手旗信号も必須となり、実地訓練も行われた。

津之郷はわら工品のムシロの産地であったためか、
学校の授業でも縄ないをしたり、普段自分たちの履く藁ぞうりも作ったりした。
夏休みの宿題も草履つくりが課せられたほどである。


昭和22年2月、忠魂碑の撤去。
昭和22年4月、津之郷村立津之郷小学校と改称された。
昭和33年6月、プールが完成した。
昭和34年より、完全給食が実施された。
昭和41年度より、農業休業日が、農作業の機械化により廃止された。




「新修倉敷市史6」

松根油の大増産のため

昭和19年暮れ、政府はにわかに軍用機燃料の原料になる松根油の増産に力を入れ始めた。
翌20年2月314基の乾留釜を新設し、既存の137基と合わせて大増産する計画で、
児島郡では11基、浅口郡で7期、都窪郡で6基新設計画になっていた。
ところが釜の新設が終わらないうちに次の増設割り当てが届くありさま。

松根油は「肥松」と呼ばれる老松の根が原料。
倉敷市では町内会単位に割り当て、市街地周辺の向山、足高山、酒津山などで掘った。
まもなく老松は底をついたが、増産要求は容赦なかった。
翼賛壮年団・警防団・在郷軍人会の会員らを動員し松の根を掘っている。
山の中から松の根を掘り出し、堅い根を割り砕いて乾留するのが重労働だった。
戦争末期には予科練習生少年航空兵も従事した。
それでも増えなかった。

昭和20年4月から航空機の潤滑油の原料になるとヒマ(トウゴマ)の緊急増産に乗り出した。
農家は一戸40本以上栽培するよう割り当てた。


供出で金属類が無くなる

昭和14年、児島郡の役場から鉄門、鉄柵、鉄板などが姿を消した。
昭和16年、倉敷市は寺院の梵鐘12個を回収、市役所の鉄と銅を供出、新渓園の釣り灯籠など、鶴形山の動物小屋やベンチなど、
学校では国旗掲揚台・鉄柵・二宮金次郎像や楠木正成の銅像が含まれていた。
やがて郵便ポストも回収され木製・陶製に変えられた。


青年学校

青年学校は昭和10年の「青年学校令」によってうまれた。
昭和16年には児島・倉敷・玉島の繊維工場に女子青年学校が開設されている。
三菱重工水島航空機製作所も昭和17年、工場建設に先がけて青年学校や寮の建設が行われ、4月開校している。

昭和14年青年学校令は改正され、軍部の強い圧力のもとで所定の学校に在学するものを除いて、年齢満12歳を超えて満19歳までの男子は、
その保護者が就学させる義務をもつことになった。
義務制実施に伴って昭和16年度からつぎつぎと青年学校が開設されたが、翌年からは教員不足の問題もあり、
全国的に統合が進められた。
戦時教育下での青年学校は軍国日本のために、甲種合格が目標とされた。

軍事訓練は陸軍の強い指導で重視された。



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「南洋航路」(ラバウル小唄)

2021年08月11日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
〽さらばラバウルよ又来るまでは、で有名な「ラバウル小唄」。
この歌は替え歌で、元歌は「南洋航路」。

実際は”さらば南洋”と、島々から帰ることはできず、
軍人・民間人とも玉砕したり、棄民となって倒れていった。





「忘れられた島々」  井上亮 平凡社 2015年発行

日本は太平洋戦争に敗れるまでの約30年間、
現在ミクロネシアと呼ばれる、この「南洋諸島」を事実上の領土として支配した。
”楽園”といわれた島々は戦争で玉砕・集団自決の悲劇の舞台となった。


赤い夕陽が波間に沈む
涯は何処か水平線よ
今日も遥々南洋航路
男船乗り鷗鳥

波の響きで 眠れぬ夜は
語り明かそよ 甲板(デッキ)の夜風
星が瞬く あの星見れば
くわえ煙草が 目に泌みる

流石男と あの娘(こ)が言うた
燃ゆる生命を マストにまかせ
揺れる心に 憧れ遙か
明日は赤道 椰子の島



昭和15年「南洋航路」が発売された。
1521年スペインの探検隊が”発見”し、イギリスを含め発見した島々に勝手に命名していった。
19世紀末よりドイツ時代が始まる。
1914年、日本海軍が2週間で無血占領した。

1914年8月4日イギリスはドイツに宣戦布告した。
青島のドイツ艦隊がイギリスの租借地を攻撃するのを恐れた駐日イギリス大使は、
加藤高明外相にドイツ艦隊の捜索と破壊を申し入れた。
日本側は参戦要請と受け取り、対ドイツ戦を決意する。
日本の積極姿勢に疑念を抱いたイギリスは8月10日申し入れを取り消した。
しかし加藤外相は要請をはねつける。
日本の戦闘区域を制限する提案も拒否。
ヨーロッパの混乱を奇貨として領土への野心を秘めた「押しかけ参戦」ともいえよう。

日本の南洋諸島占領に欧米各国は警戒感を強める。
オーストラリア、ニュージーランドは安全保障上目睫の問題となる。
オランダは、インドネシアに野心があると疑った。
アメリカも激しく反発した。

「委任統治制度」
常に国際連盟の監視下にある。
日本は戦勝5大国として、国連の常任理事国となった。
委任統治の受任国は、当時大変なステータス。ほかにはイギリスとフランスだけだった。
日清、日露につづき「戦争は国益」という成功体験が積み重なった。
日本はのちに国連を脱退したあとも、年報を送る続けた

「冒険ダン吉」
昭和8年講談社の「少年倶楽部」に連載が始まり「のらくろ」と人気を二分していた。
「島の王さまになったダン吉は、島のため、蛮公のために、なにかいいことをしてやろうと考えていました。
蛮公たちもかなり利口になってきましたが、それでもまだ学問がないので、知識が文明国の子供にも及びません」




島民教育
軍政を担う海軍が力をいれたのは教育だった。
日本語教育が進められ日本への帰順と同化を徹底しようという方策である。

「国策移民」により人口は増大
南洋諸島全体の邦人人口は占領当初200人、昭和5年に約2万人、昭和10年5万人を超えて島民人口と逆転、昭和18年には10万人弱と島民の倍近くまでふくれあがった。

南洋群島にはチャモロ人、カナカ人という先住民がいた。
チャモロ人はスペイン人と混血したといわれる。
カナカ人は現在カロリン人と呼ばれており先住者だ。人口ではチャモロ人が圧倒的に多く、カナカ人を蔑視していた。
島民の子供たちは、小学校段階で日本人より「下等」であることをいやがうえにも学ばされた。




「北の満鉄、南の南興」
南洋群島はこれといった資源もなく、大地も豊かな場所ではなかった。
台湾の製糖業松江春治が台湾から転進し「南洋興発」を設立した。
松江は沖縄県から大量に移民を採用する計画を立てる。
南興は製糖事業の成功により、鉄道、船舶、製氷、漁業、缶詰、などへ進出する。
飢餓地獄の沖縄に比べると南洋群島は楽園=パラダイスだった。
 


あまたなる 命の失せし崖の下 海深くして 青く澄みたり
           2005年6月28日  平成天皇




「お国ために美しく死ぬ」
日本の南洋群島統治30年の行きついた先は、あまりにも無残だった。
乳飲み子を抱いて飛び込んだ母親、家族ともども自決した人々。
「美しい死」が目的化した。

南洋群島での玉砕・集団自決には、徹底した軍国教育、捕虜を許さない軍のおしえ、敵は残忍という宣伝、自立した判断を否定した付和雷同の空気、沖縄県民のナショナリズムなど、様々な要因が考えられる。
昭和17年12月から邦人引揚が始まった。
民間人の安全のためでなく、戦時の食糧確保、要するに口減らしが目的で、戦闘の役にたたない者は足手まといの邪魔者であった。
引揚は数が少なかった。制空・制海権をアメリカに握られた状況で海を渡るのはリスクが高すぎた。
一方で16歳以上60歳未満の男子は引揚から除外された。
戦闘要員として島と運命をともにするよう命じられた。

サイパン戦直前陸軍の輸送船が到着するが、途中攻撃された重傷者、武器は海中に沈んだ「はだか部隊」で戦う前に雑軍の様相を呈していた。
お粗末だったのは島の防備体制。
無防備であることを敵に知られるのを恐れ、各所に模擬砲台、模擬機関砲陣地、模擬高射砲陣地が造られる始末だった。

昭和19年6月、重傷者約2.000人が命令により自決した。
大本営はサイパン放棄を決定した、「帝国はサイパン島を放棄することとなりし、
来月上旬にはサイパン守備隊は玉砕すべし」
2万余の民間人の安否を気遣う記述はいっさいない。

サイパン戦は7月7日、生き残った陸海軍約3.000人の絶望的なバンザイ突撃で組織的戦闘が終結した。
前日海軍の南雲司令官が発した玉砕命令文には、「生きて虜囚の辱めを受けず」
「身をもって太平洋の防波堤たらん、敵を求め進発す、我に続け」
司令官の言葉は絶大である。この命令文は兵士だけでなく、日本人すべてに発せられたと受けとめられた。そもそも非戦闘員は最初から保護されるべき対象であえい、国際法もそう定めてある。
それを無視して老人や女性、幼児にいたるまで死を強要している。

南洋群島の戦いは被害の実態を見れば沖縄戦である。
沖縄県人は沖縄戦を含めて二度「防波堤」としての戦いで犠牲になった。

赤誠隊
赤誠隊は全国の刑務所から選抜された囚人。
南洋での海軍航空基地建設を担った。
勤労奉仕隊
朝鮮人労働者が政策的に大量動員された。
農業移民、鉱物など資源の増産として送り込まれ、「日本の軍人・軍属」として徴発された。日本軍と運命を共にせず”捕虜”の大半は朝鮮人軍属だった。

いまはとて 島果ての 崖踏みけりし をみなの足裏(あうら)思えばかなし
                2005年6月28日  平成皇后




「革新と戦争の時代」 井上光貞他共著 山川出版社 1997年発行

内外航路の途絶

日本は遠方の航路から順次に放棄することになった。
まずラバウル・クェゼリン・ニューギニア航路が空襲激化とともに放棄され、
護衛艦節約のためパラオ航路は内地直航から台湾またはサイパン経由に変更された。
昭和19年トラック・サイパン・パラオと連絡が途切れた。
マニラも潜水艦のため途絶し、石油はシンガポールに送られ
上海は揚子江に機雷が敷設された。
昭和19年7月タイ、仏印からの外米輸入が閉鎖された。
南洋航路は石油船団だけにしぼられたが、昭和20年2月南方からの石油輸入は途絶えた。
3月にはシンガポールとの連絡も途絶えた。

ついに、食糧輸送と兵器輸送が競合し始めた。
本土決戦のため、在満兵力内地帰還により、大量の軍事米が必要となり、端境期までもちこたえる見通しがたたなくなった。
昭和20年4月の沖縄戦以降、ついに軍需品の輸送はほとんど中止され、
船舶は華北・満州・朝鮮からの穀類と塩の輸送に集中された。
6月華北航路は途絶した。
内地航路も安全でなく、5月から日満支航路と九州炭の関西輸送が困難になった。
7月青函連絡船が全滅した。
戦時経済は、船舶不足によって崩壊していた。





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