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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

大岡昇平の「俘虜記」

2021年08月20日 | 昭和20年(戦後)
人生で一番多感な時に終戦を迎えた作家・吉村昭は、「鬼畜米英」→「ヘイワ日本」と一夜にして簡単に転向した新聞や寄稿者に愕然としている。
大岡将兵の「俘虜記」に救われたと、当時を回顧している。




「その人の想い出」 吉村昭 河出書房新社 2011年発行 

戦争を見る眼

終戦は、私が18歳になった年の夏で、その日を境にはじまった大変化の中で、
私はただ呆然として時を過ごしていた。
終戦前までは、ひたすら戦意昂揚を唱えつづけていた新聞、ラジオをはじめとした報道機関は、一転して終戦前のあらゆる事柄の全否定に終始するようになっていた。
報道機関のみならず有識者と称される人たちも、新聞、雑誌に一斉に戦争批判の文章を発表した。
私は、それらの活字を前に放心状態にあった。
18歳の夏までに見た日本人は、いったいどこへ行ってしまったのだろう、
同じ人間でありながらこのような変貌を遂げてもよいのだろうか、と思った。

或る作家の書いたものに、私は首をひねり、そして激しい憤りをおぼえた。
その作家は、徴兵検査の日、醬油一升を飲み、体に変調を起こして不合格となった。
このように徴兵拒否をすることによって戦争反対を身をもって実行にした・・・と。
冗談ではない。
かれは軍隊に入るのが恐ろしく保身のためにすぎない。戦争反対などとは次元が異なる。

このような文章にばかりふれていた私は、「俘虜記」を読んで感動した。
「俘虜記」の中の一兵士である「私」は、敗北の兵として密林の中をさまよい歩く。
その間に若い米兵の姿を近くに見て、容易に射殺できたが、発砲はしない。
その心理についての氏の叙述は、秀れた思考家であることを示している。
このシーンに、戦争の実体が鮮やかに浮かび出ていた。



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海軍志願兵・城山三郎、特攻隊として果てる?(伏龍特別攻撃隊)

2021年08月20日 | 昭和20年(終戦まで)
伏龍は終戦間際、本土決戦において敵の上陸艇に潜水服を着て潜り、機雷がついた棒を手にして水中を歩いて接近し、機雷もろとも爆死するもの。
完全に人間は死ぬ道具となっている。





「嬉しうて、そして・・・」 城山三郎 文芸春秋 2007年発行

昭和2年生まれは、少年時代を戦争の中で過ごし、青年時代の入口で敗戦を迎えた。
「末期戦中派」という言葉があるが、私たちは末期も再末期であった。
私は、名古屋の商業学校の生徒だったが、
軍神杉本五郎中佐の著書「大義」に感銘を受けて徴兵猶予を返上して、海軍特別幹部練習生になった。
自分なりにお国のために尽くそうと考えたのである。

しかし、敗戦までの数ヶ月間過ごした海軍の最底辺は、私の期待していた皇軍の姿とは似ても似つかなかった。
上官による制裁や意地悪の日々。
上官は白い食パンを食べ、私たちには芋の葉と蔓だけ。
そして戦争が終わると、手のひらを返したように、民主主義を唱えだす大人たち。
この経験を書かずには死ねないという思いが、私を文学に向かわせた。

私が入った昭和20年の海軍は、まったく軍隊としての体をなしていないように感じた。
あのまま戦争が続いていたら、私は「伏龍特別攻撃隊」として、潜水服を着て関東の海岸に潜って、
爆弾のついた棒で米軍の上陸用舟艇を突く作戦に駆り出されていただろう。
自分たちが消耗品として集められることを、憧れの海軍に入って思い知ったのである。





(Wikipedia)



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捷平さん、爆弾かかえて戦車に飛び込む「特攻兵」となる

2021年08月20日 | 昭和20年(終戦まで)
満州の吉林市に住んでいたおば(父の妹)の話では、
「戦争が始まった」とは昭和20年8月9日のことを指す。

その日までは、満州帝国は平穏な・・・日本人限定だが・・・”王道楽土”的な日々であったようだが、突然に、
戦争とロシア兵が大波のように押し寄せ、「平穏」から「生命の危機」の日々に一変していった。

捷平さんは、そうゆう満州帝国と大日本帝国の命運が尽きる直前に、兵にとられ、
一夜漬けの訓練で、あっという間に戦車体当たり”特攻兵”となった。







「続 木山捷平研究」 定金恒次 遥南三友社 平成26年発行

「私」は、8月12日、日本の軍隊から現地召集を受けた。
午後1時令状受領、午後6時入隊というあわただしさ。
一人でヤケ酒を飲み、気を大きくし
即日帰郷になるであろうことを予想して出かける。
深夜某小学校の教室に宿泊。
翌朝、身体検査なし、朝食ぬきで街頭での穴堀り作業。

「おい、そこの眼鏡のおっさん、しゃんしゃんやらんかいな」と私は引率役の上等兵に叱りつけられた。
「ああ、だが上等兵、僕は持病に神経痛があるから、腰がうずいて仕様がないんだよ」
「こくな、上等兵とは何だ?上等兵殿と言え。ここは軍隊だぞ」
「ハ。それはどうもすみません。・・・それでは上等兵殿、そのここには軍医はおらんのかネ。自分は一度診察して貰いたいと思うんだが・・・」
「バカ。そんなゼイタクなものが、おるか。神経痛ぐらい、今度、戦争が始まれば、いっぺんにすっ飛ぶ」
上等兵はスッパ、スッパ、煙草の煙を吹かすだけなのである。
なんの為に、こんな穴をほるのかとほかの新兵がきけば、敵の戦車がおし寄せて来た時、この穴の中にエンコさせて見せるのだと言うのである。

だが、穴掘りが上がらないうちに、命令がきて、私たちは再び小学校によび戻された。
学校の玄関では、古参兵が数人、せかせかと出刃包丁を木銃にくくりつけているのが見えた。
これが翌日になって、新兵唯一の武器として、私たち老兵に配給せられたのである。

間もなく講堂で部隊長の訓示が行われた。
部隊長というから、どんな、堂々、たる男かと待っていると、檀に上がったのは,まだ碌に毛も生えていないような18,19の見習い士官だった。

この見習い士官が、
「事態はまことに急迫しとるのである。
今夜、本首都に於いて戦闘が開始せられる。
お前たちは大日本帝国の軍人として、一命を陛下のために捧げられたい。
生きて囚虜となりて異郷に恥をさらすではない」
と言ったような司令官の命をつたえて、すぐに実地訓練が始まったのである。
その実地訓練は、-----どこからか古参兵が持ってきた乳母車に、フットボールを投げるという簡単なもので、学校の屋根で遊んでいる雀などには、
いい年をしたおっさんが幼稚園の生徒の真似をしているように見えたかも知れない。
が、本当のところは敵の戦車にバクダンを抱えて飛び込む練習であったのである。
いいかえるならば、私ども老兵は、入隊早々,着のみ着のまま、戦車飛込肉弾隊に編入されていたのである。


このように、「私」は日本の軍部が身体検査もせずに入隊させる横暴さを繰り返し語って、執拗に不満と反抗を試みる。
敵国であったソ連の女士官でさえ、「私」の貧弱な体躯を見ただけで放免するという人道的な扱いをした。
今夜の戦闘で老兵を肉弾として使おうという魂胆から、身体検査を省いただのと決めつけ、その間ぶりを非難する。
それにしても、侵攻してくる戦車を穴の中に頓挫させようという馬鹿げた作戦。
出刃包丁を木銃にくくりつけ、これを新兵に配るという稚拙きわまる戦争準備。
さらには拾ってきた乳母車を敵の戦車に想定し、爆弾に擬したフットボールをかかえて飛び込むという幼稚な戦闘訓練。
作戦といい、武器といい、訓練といい、一瞬のうちに壊滅する様子を克明に描いている。
ちなみに6年後に発表された「大陸の細道」でも、
威厳や品位を欠く日本の軍隊幹部の言動や、稚拙で滑稽な戦闘準備、戦闘訓練などを克明に描き、戦争への怒りと国家権力への反骨ぶりを示している。




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