動画サイトの「湖畔の宿」では、50代の高峰三枝子が歌う前に、
本人が、次のように曲を紹介している。
特攻隊慰問に唄った歌
「日の丸の鉢巻きをきりりと結んだ特攻隊員が、こぶしをぎゅっと握り締めて、一生懸命に私の湖畔の宿を聴いてくださいましたかたがた、今でも目にちらついております。
夜明けともに飛び立っていってしまう、二度と還ることのできないかたがた。
「湖畔の宿」は、戦争のつらい思い出とむすびついて、私の心から離れることはありません。」
東条首相「湖畔の宿」を所望
昭和18年に入って相次ぐ悲報に、国民の気持ちは沈む一方だった。
だが日本が米・英・蘭などと開戦した理由は、欧米各国からアジア解放であったから、
なんとか隠蔽しなくてはならなかった。
5月31日の御前会議で、占領下のインドネシアやマレー半島は日本領土に編入され、ビルマとフィリピンに「独立」政府がつくられ、
さらにインド仮政府も結成された。
そして11月5,6日には、これら諸政府代表を東京へ招いて、大東亜会議なるものを開催したのだった。
東条英機首相の晴れの舞台であった。
実はこの時、東条は遠来の客を歓迎する晩餐会に、女優高峰三枝子を招いて、「湖畔の宿」を歌わせたのだという。
孫の東条由布子さんの『祖父東条英機』の中に、次のように書かれている。
祖父は高峰三枝子さんの歌が大好きで、タイの首相の歓迎晩餐会でも高峰さんは「湖畔の宿」を歌った。
高峰三枝子の自伝を読むと、
「湖畔の宿」を所望したのはビルマのバーモウ長官だったと述べている。
退廃的につき発禁を喰った軟弱な「湖畔の宿」を歌った経緯は↓
東京は空襲にさらされる日々が多くなりました。
ちょうどその頃のことですが、大東亜省からの電話で
「東条閣下が、ぜひ「湖畔の宿」を聞きたいとのこと・・」と連絡がはいりました。
湖畔の宿がビルマですごく流行していて、日本の兵隊さんが愛唱しているこの歌を、長官がぜひ聴きたいと東条首相に懇望されたのだそうです。
あの歌はお国の指示で発禁になったはずなのに、それを国の首相から唄ってほしいと言われたのは本当に驚きました。
由緒ある料亭に招かれて行ったが、灯火管制課、部屋は黒布を張りめぐらされていたという。
電灯はついていましたが、人の顔がかすかに見える程度の明かりです。
東条首相のにこにこ顔と、頭にターバンを巻いたバーモウ長官がうつりました。
そこで灰田勝彦さんのギター伴奏で、「湖畔の宿」「純情二重奏」「南の花嫁さん」の三曲を歌いました。
唄い終わって家に帰る時にいただいたお土産は、もう私たちの手に入らなくなったお砂糖やチョコレート、お米などで、
そのありがたかったこと。
「昭和の戦時歌謡物語」 塩澤実信 展望社 2012年発行
「わが人生の歌がたり」 五木寛之 角川書店 平成19年発行
湖畔の宿
昭和15年のヒット曲に、有名な高峰三枝子さんの『湖畔の宿』があります。
戦意高揚でアドレナリンがどんどん分泌していくような時代に、こういうさびしい、
センチメンタルな歌が大衆の間で支持されたことがおもしろいと思います。
また、軍部や当時の支配層が、こうゆう歌を頭から「そんなのはだめだ。もっと元気な歌にしろ」と弾圧しなかったことも不思議です。
「湖畔の宿」 作詞:佐藤惣之助 作曲:服部良一
山の淋しい 湖に
みずうみに ひとり来たのも 悲しいこころ
胸のいたみに たえかねて
昨日の夢と 焚きすてる
古い手紙の うすけむり
水にたそがれ せまるころ
岸の林を しずかに往けば
雲は流れて むらさきの
薄きすみれに ほろほろと
いつか涙の 陽が堕ちる
ああ、あの山の姿も、湖水の水も、静かに静かに黄昏れて行く、この静けさ、この寂しさを抱きしめて、わたしはひとり旅をゆく、誰も恨まず。
みんな昨日の夢とあきらめて、幼児のような清らかなこころを持ちたい、
そして、そして、静かにこの美しい自然を眺めていると、只ほろほろと涙がこぼれてくる。
ランプ引きよせ ふるさとへ
書いてまた消す 湖畔のたより
旅のこころの つれづれに
ひとり占う トランプの
青い女王(クイーン)の 淋しさよ
(榛名湖 2017.9.8)
(Wikipedia)
曲は1940年の2月には完成していたが、戦時色がないとの理由でレコード会社が難色を示し、発売は晩春頃となった。
その後、前線の兵士からのリクエストに応じる形でラジオ番組では高峰にこの曲を歌わせるようになり、最終的には内地でも大ヒットしたという。
曲はヒットしたが、感傷的な曲調と詞の内容が日中戦争戦時下の時勢に適さないとして、まもなく発売禁止となった。
しかし前線の兵士には人気があり、慰問でも多くのリクエストがあったという。
本人が、次のように曲を紹介している。
特攻隊慰問に唄った歌
「日の丸の鉢巻きをきりりと結んだ特攻隊員が、こぶしをぎゅっと握り締めて、一生懸命に私の湖畔の宿を聴いてくださいましたかたがた、今でも目にちらついております。
夜明けともに飛び立っていってしまう、二度と還ることのできないかたがた。
「湖畔の宿」は、戦争のつらい思い出とむすびついて、私の心から離れることはありません。」
東条首相「湖畔の宿」を所望
昭和18年に入って相次ぐ悲報に、国民の気持ちは沈む一方だった。
だが日本が米・英・蘭などと開戦した理由は、欧米各国からアジア解放であったから、
なんとか隠蔽しなくてはならなかった。
5月31日の御前会議で、占領下のインドネシアやマレー半島は日本領土に編入され、ビルマとフィリピンに「独立」政府がつくられ、
さらにインド仮政府も結成された。
そして11月5,6日には、これら諸政府代表を東京へ招いて、大東亜会議なるものを開催したのだった。
東条英機首相の晴れの舞台であった。
実はこの時、東条は遠来の客を歓迎する晩餐会に、女優高峰三枝子を招いて、「湖畔の宿」を歌わせたのだという。
孫の東条由布子さんの『祖父東条英機』の中に、次のように書かれている。
祖父は高峰三枝子さんの歌が大好きで、タイの首相の歓迎晩餐会でも高峰さんは「湖畔の宿」を歌った。
高峰三枝子の自伝を読むと、
「湖畔の宿」を所望したのはビルマのバーモウ長官だったと述べている。
退廃的につき発禁を喰った軟弱な「湖畔の宿」を歌った経緯は↓
東京は空襲にさらされる日々が多くなりました。
ちょうどその頃のことですが、大東亜省からの電話で
「東条閣下が、ぜひ「湖畔の宿」を聞きたいとのこと・・」と連絡がはいりました。
湖畔の宿がビルマですごく流行していて、日本の兵隊さんが愛唱しているこの歌を、長官がぜひ聴きたいと東条首相に懇望されたのだそうです。
あの歌はお国の指示で発禁になったはずなのに、それを国の首相から唄ってほしいと言われたのは本当に驚きました。
由緒ある料亭に招かれて行ったが、灯火管制課、部屋は黒布を張りめぐらされていたという。
電灯はついていましたが、人の顔がかすかに見える程度の明かりです。
東条首相のにこにこ顔と、頭にターバンを巻いたバーモウ長官がうつりました。
そこで灰田勝彦さんのギター伴奏で、「湖畔の宿」「純情二重奏」「南の花嫁さん」の三曲を歌いました。
唄い終わって家に帰る時にいただいたお土産は、もう私たちの手に入らなくなったお砂糖やチョコレート、お米などで、
そのありがたかったこと。
「昭和の戦時歌謡物語」 塩澤実信 展望社 2012年発行
「わが人生の歌がたり」 五木寛之 角川書店 平成19年発行
湖畔の宿
昭和15年のヒット曲に、有名な高峰三枝子さんの『湖畔の宿』があります。
戦意高揚でアドレナリンがどんどん分泌していくような時代に、こういうさびしい、
センチメンタルな歌が大衆の間で支持されたことがおもしろいと思います。
また、軍部や当時の支配層が、こうゆう歌を頭から「そんなのはだめだ。もっと元気な歌にしろ」と弾圧しなかったことも不思議です。
「湖畔の宿」 作詞:佐藤惣之助 作曲:服部良一
山の淋しい 湖に
みずうみに ひとり来たのも 悲しいこころ
胸のいたみに たえかねて
昨日の夢と 焚きすてる
古い手紙の うすけむり
水にたそがれ せまるころ
岸の林を しずかに往けば
雲は流れて むらさきの
薄きすみれに ほろほろと
いつか涙の 陽が堕ちる
ああ、あの山の姿も、湖水の水も、静かに静かに黄昏れて行く、この静けさ、この寂しさを抱きしめて、わたしはひとり旅をゆく、誰も恨まず。
みんな昨日の夢とあきらめて、幼児のような清らかなこころを持ちたい、
そして、そして、静かにこの美しい自然を眺めていると、只ほろほろと涙がこぼれてくる。
ランプ引きよせ ふるさとへ
書いてまた消す 湖畔のたより
旅のこころの つれづれに
ひとり占う トランプの
青い女王(クイーン)の 淋しさよ
(榛名湖 2017.9.8)
(Wikipedia)
曲は1940年の2月には完成していたが、戦時色がないとの理由でレコード会社が難色を示し、発売は晩春頃となった。
その後、前線の兵士からのリクエストに応じる形でラジオ番組では高峰にこの曲を歌わせるようになり、最終的には内地でも大ヒットしたという。
曲はヒットしたが、感傷的な曲調と詞の内容が日中戦争戦時下の時勢に適さないとして、まもなく発売禁止となった。
しかし前線の兵士には人気があり、慰問でも多くのリクエストがあったという。