しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和20年8月8日「福山空襲」 ④『伝単』で助かる命が失われた

2021年08月07日 | 昭和20年(終戦まで)
今年も福山大空襲の記念日が来た。
空襲の悲惨さを伝える追悼記事が載るが、もとから人命を護ろうとしない行政と国家と共犯者ともいえる新聞社の反省記事はない。

福山の空襲による犠牲者数は、行政と国家と新聞社の誤った指示・政策や報道により増大した。


広島県戦災史」 広島県 第一法規出版  昭和63年発行  

歴史の教えるもの

7月31日に福山空襲を予告し避難を勧告していた。
3月の東京空襲以来、全国の各都市が空襲され、大量の人的被害をだしておきながら、
軍・警察・市の指導者は、全市民を市内からあらかじめ退出させる措置をとらなかった。
むしろ「空襲前、警察は市民に火災を防ぐため疎開してはいけない」とし
「福山では、男は絶対逃げてはならぬ、残って家を守れ」と命令されていた。

それは、戦争指導者が作為した「神州不滅」や「一億玉砕」の覚悟という非合理的スローガンが自己呪縛となり、
末端指導者をして、避難勧告に従うことは敵の策略に乗せられることではないかと疑心をいだかせ、
人命尊重を優先させず、むざむざと多数市民を死傷させたのである。
自己呪縛が戦争指導者全体から、事前に避難を命令しうるような権限を奪い去っていたのである。




「ふるさとの想い出・出部」 出部公民館 平成3年発行



「広島県戦災史」 広島県 第一法規出版  昭和63年発行

7月31日、午後10時50分ごろB29、1機が侵入し、深津から引野の沖に大量のビラを投下した。
市民に避難するよう勧告していた。

日本国民に告ぐ

あなたは自分や親兄弟を助けようとは思ひませんか、助けたければこのビラをよく読んでください。
数日のうちに裏面の都市の全部若しくは軍事施設を米空軍は爆撃します。
爆弾には眼がありませんからどこに落ちるか分かりません。
御承知のように人道主義のアメリカは罪のない人たちを傷つけたくありません。
ですから都市から避難して下さい。
アメリカの敵はあなた方ではありません。あなた方を戦争に引っ張り込んでいる軍部こそ敵です。
アメリカの考えている平和はただ軍部の圧迫からあなた方を解放することです。
さうすればもっとよい日本が出来上がるんです。
この裏に書いてある都市は必ず爆撃します。
予め注意しておきますから裏に書いてある都市から避難して下さい。

裏面・水戸・八王子・郡山・前橋・西宮・大津・舞鶴・富山・福山・久留米・長野

ビラは憲兵により回収され、かん口令がしかれた。
警察は市民に、火災を防ぐために疎開をしてはいけないといっていた。
8月6日の原爆の被害から警棒団は「爆弾の光をみたら昼夜とわず防空壕に」と指導した。

市民は簡単な防空壕に入ったまま猛火の中を脱出しようともせず、火炎と熱風にまかれて焼死または窒息死することとなった。





「ふるさとの想い出・出部」 出部公民館 平成3年発行







「千田学区地域誌」  千田学区町内会連合会  2008年発行 

福山大空襲

昭和20年7月31日夜、B29が福山上空に飛来し、空襲予告のビラ約6万枚を散布しました。
このビラを拾ったものは、一枚残らず警察に届けるよう通達され、子どもたちは拾い集めたものでした。





『伝単』が撒かれた他都市の例

「八王子空襲」  八王子図書館Web 

予告される八王子空襲

太平洋戦争末期の昭和20年に入り、日本の東京、大阪、名古屋、神戸、横浜などの大都市が空襲を受けると、
アメリカ軍は今度は中小都市を爆撃する作戦を進めました。
この中で八王子も攻撃目標とされていたことは、アメリカ軍が空からまいた伝単とよばれるリーフレットによって、予告されていました。
伝単は、空襲直前の7月31日、8月1日にもまかれ、いよいよ空襲があるかもしれないということが、人々の間に広まりました。
8月1日、この日は空襲に備えて昼間から市街地から離れた親戚の家に避難したり、家財などを防空壕に運び込んだりする人もいました。
甲州街道には、東京から応援の消防車も配備してありました。

空襲が始まる

空襲警報は8月1日の午後8時55分に出されました。
しかし午後11時ごろ川崎方面に爆弾攻撃を行っているという情報もあり、多くの人は今夜は八王子は空襲されないと一安心し、避難先から戻ったりして、眠りにつきました。
ところが、169機ものB29が突然八王子の町を襲ったのです。
八王子の中心部を取り巻くように次々に爆撃されていいったのです。
中心部にも焼夷弾が集中投下され、全市に火が燃え広がりました。
米軍資料ではM47焼夷弾の投下を始めたのは、2日の午前0時45分でした。
空襲は約2時間続きました。
市街地の80%以上が燃え、450人が亡くなりました。


岐阜県庁HP
岐阜県歴史資料館(岐阜市・大垣市・高山市) 


太平洋戦争における日本軍の戦局はミッドウェー海戦から一変し、敗北の度合いを深めていった。
太平洋戦争末期には、アメリカ軍機のB29爆撃機による日本本土への空襲が本格化した。
1945(昭和20)年3月10日には東京大空襲が行われ、一夜にして10万人もの尊い命が失われた。
それまでは高高度からの軍需工場など目標地点を狙った精密爆撃が中心であったが、無差別爆撃が連夜のように行われるようになった。
その後、軍需工場がある地方都市にも爆撃が行われ日本は壊滅的打撃を受けた。
今回紹介する史料(1)、(2)は、地方都市を攻撃対象としてアメリカ軍機から大量にまかれた空襲予告ビラの一部である。
ビラの大きさは縦14cm、横21cmの両面印刷で、日本国民又は兵士の戦闘意欲を失わせる目的で配布されたビラといわれている。
昭和20年6月7日、大垣の上空からビラがまかれた(『岐阜空襲誌』より)。
(1)のビラはその時にまかれたものであろうか。(1)には、日本語で「日本国民に告ぐ」と題して、数日中に各市内の軍需工場を爆撃すると警告している。
その中で、「爆弾には眼がありませんからどこに落ちるか分かりません」とも書かれ、住民に避難を呼びかけている。
また、(1)裏には、編隊を組むB29爆撃機の写真を囲むように、標的とされた11の都市が記されている。
要約すると以下の4点が書かれている。

空襲予告ビラ
・・・戦時中、敵国の兵士や市民の戦意を無くすことを目的としてまかれたビラで「伝単(でんたん)ともいわれた。
ビラには複数の種類がある。
1945(昭和20)年7月頃から全国32都市の上空でまかれたとされ、実際に約半数の都市で空襲があった。まかれたビラに記された標的の都市は、地域によって異なっている。

しかし、多くの人はビラを見ることがなかったようである。
それは、ビラを隠し持っている者は非国民やスパイと疑われたからである。
また、都市によってはビラに毒が塗ってあるという噂が広まり、市民がビラに触れないようにしたからである。
こうしたビラは憲兵や警察などによって回収されたという。
予告通り、アメリカ軍は、昭和20年7月29日にビラに記載してあった大垣を空襲し、大垣の街は壊滅した。
この空襲により、大垣城や大垣別院なども焼失した。
残った建物は大垣駅などわずかであったといい、死者50名、負傷者も100名を超えたという。
(1)の空襲予告ビラは、他の都市でもまかれたようであるが、最近になって、高山でもビラが発見された(『平成20年8月4日岐阜新聞』より)。
高山では昭和20年8月2日夜、大量のビラがまかれた。しかし、警察や自衛団がすぐに回収して処分したとされる。




「ふるさとの想い出・出部」 出部公民館 平成3年発行



「逃げるな、火を消せ!」大前治 合同出版  2016年発行 


「空襲予告ビラ」

爆弾ではなく、ビラを撒くために敵機が来る。
これはもはや日本が制空権を失った状態である。
今すぐ戦争を終わらせるか、住民を退去させる決断をすべきだった。
予告を隠すのでなく、緊急に住民に知らせるべきだった。

ところが日本政府は、それと正反対の選択をした。

深夜未明に10万人が死亡した東京大空襲、その夜が明けてすぐ内務省が決定したのは、
拾った空襲予告ビラを警察へ届けない者を最大3ヶ月の懲役に処するという内務省令だった。
即日施工された。
政府がビラの効果を恐れていたことが分かる

実際に、憲兵隊や隣組長が「ビラを拾うな、持っているものは提出せよ」と厳しく町内を見回った。


空襲化の凶刃—阻止された住民
八王子
猛火から逃れるため、市街地から北へ向かい浅川橋を渡る人の列ができた。
その入り口に約20人の警防団員が道を塞ぎ、住民の避難を阻止していた。
「男のくせになぜ逃げる。早く行って火を消せ。消さなければ胴を突く」
憲兵はサーベルを振り回し、「戻れ!戻れ!」「非国民」とビンタをした。

富山
警防団が神通川の橋を封鎖し、避難者を追い返した。福井でも同じことが起きた。

青森空襲の悲劇
県知事「一部に家を空っぽにして逃げたり、田畑を捨てて山中に小屋を建ててでてこないというものがあるそうだが、もっての外である。
防空法によって断固たる処置をとる。」
青森市の通告
7月28日までに戻らないと町内会台帳より削除して配給物を停止する。


町内会台帳からの削除は「非国民」のレッテルとなり、しかも食糧も絶たれて生きていけない。
これは空襲を上回る恐怖となる。
多くの市民が、期限とされた7月28日までに青森市内に戻ってきた。その夜、
約100機のB29が青森市を来襲し、死者1.018人の甚大な被害となった。



「ふるさとの想い出・出部」 出部公民館 平成3年発行




「逃げるな、火を消せ!」大前治 合同出版  2016年発行

「避難せよ」と呼びかけた街

政府や軍部の意向に逆らった良識ある決断で多数の生命を救おうとした例である。

新潟市
新潟市は昭和20年8月まで大規模空襲を受けなかった。
8月6日に広島に原爆が投下されると、次の目標は新潟ではないかと噂されるようになった。
8月10日、新潟県知事は知事布告を発し、
「広島の被害は従来の民防空対策をもっては対応し得ない程度のもので人命被害もまた実に莫大、新潟市に近く使用せられる公算極めて大きい」
として
「新潟市民の急速なる徹底的人員疎開」を指示した。
郊外へ向かう道は荷物を担いだり大八車で運ぶ人々で埋まり、8月12日には市内は閑散とした。
新潟が有力な原爆投下目標とされていたことは戦後判明した。

八戸
昭和20年7月14日と8月9日に米艦載機グラマン戦闘機による空襲を受けた
さらに
「8月17日に大空襲を実施する」という予告ビラも空中散布され、市民は恐怖に震えた
そこで市長は、8月10日付けで市街地からの「総退去」の命令を発した。
これにより八戸は「さながら無人の廃墟のまちの如き観を呈した」と伝えられる。
15日に終戦となり大空襲は起きなかった。






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昭和20年8月8日”福山空襲”③「逃げるな、火を消せ!」

2021年08月07日 | 昭和20年(終戦まで)
逃げてもいい人がいた。
老人や赤ん坊や病人。もちろん、弱者優先というわけでなくて、作業の邪魔になるから離す。
人権もヘチマもなかった。


「逃げるな、火を消せ!」大前治 合同出版  2016年発行 


防空と刑罰
退去禁止、その違反者への処罰は最大懲役6ヶ月または罰金500円。
この規定により処罰された実例は少ないようである。
しかし、市民へ「空襲を恐れて逃げてはならない」という威嚇効果はあった。
逃げることは武士道にも国民道徳にも反しており、
空襲後も戻る資格はない
「非国民」のレッテルを貼られ社会から断絶される。


空襲のことは話すな、書くな
政府広報誌「週報」


空襲があった場合にはできるだけ早く被害の真相を発表した方がよいのでは?

知らせたいのは山々です。
しかし発表すればそれが筒抜けに敵国へも聞こえるということです。
敵国へ真相をおしえてやるようなものです。
結局、国民を空襲の被害から救おうとしているのです。
人から聞いた話などは言いふらさぬようにしてください。非国民的な行為で、お互いに注意していただきたい。


「臨時郵便取締令」
空襲については、手紙に書くこともはばかられた。
昭和16年10月、臨時郵便取締令が、個人同士の私信を郵便職員が検閲することを認めていたからである。


水と砂
写真週報261号(昭和18年3月3日)
「焼夷弾が落ちたら父はすぐ筵や砂をかぶせ、母と長男が水をかけ、長女が隣組中に知ら
せる」
これでルーズベルトに一泡ふかす。


子供を気にせず消化せよ
「主婦の友」昭和18年7月号
日本の家は燃えやすいが、消しやすいという特徴がある。
赤ちゃんは、できれば隣組の老人や子供たちの手で護るようにしたい。
母親は子供に惹かれる気持ちを強く戒めねばならぬ。

子供から離れて猛火に立ち向かえという指示。


空襲下の出産
お腹が痛み出した、どうしようと産婦自身が慌ててうろうろ動き回ったところで、どうにもなりません。
時が来れば、人手をかけなくても自然に生まれ出るものですから、
産気づいてきたなと思ったら、身体を安静にして、落ち着いて救護の手を待ちます。



母は昭和20年8月、お腹に赤ちゃんがいた。当時の出産は直前まで仕事(農作業)をしていれば、より安産ができるといわれていたが、
それにしても妊婦をバカにした記述と思う。





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昭和20年8月8日「福山空襲」 ②届かない高射砲、被害を増した防空壕、退去を許さぬ、防空の体制ができていった

2021年08月07日 | 昭和20年(終戦まで)
高射砲は敵機に届かず、消化は焼夷弾を塗れた筵で消す、貧弱な防空壕で身を護る、逃げずにバケツリレーに参加する、逃げた人はコメの配給を止める等の防空体制が確立されていった。


「広島県戦災史」 広島県 第一法規出版  昭和63年発行 

防空体制(一)
米軍による本土空襲が活発化した昭和19年11月以降に、
市民を対象として設定された「避難所・救護所・炊出計画」は、
市内各学の町内単位に草戸稲荷・明王院一帯をはじめ5地帯を避難場所に指定し、
避難場所に救護所・炊出所を開設することとしている。


防空体制(二)
町内会長は防空問題の責任者とされ、昭和18年頃から防空壕がつくられていたが、
20年に入ると、
「個人かもしくは共同で一軒に一ヶは必ず防空壕を設置するよう指導され」た。
市内の空き地に防空壕がもうけられ、壕のうえには土が二尺ほど盛られていた。
芦田川近くの廃川地にはやや大規模な防空壕がいくつもつくられ、
周辺の山はさらに大規模な横穴が掘られて、空襲の際に避難することになっていた。


昭和20年5月~6月に入ると、市幹部は「軍隊を持つ福山市としては空襲は必至」と認識するにいたる。
このころ民家にも屋根に迷彩をほどこし、土蔵・塀の白壁は墨やコールタールを塗って、
上空からの発見を防ごうとした。

空襲から家財を守るための荷物疎開も縁故・知人をたよっておこなわれた。
その状況につき、
「殊に大峠街道は連日連夜自動車、荷車・乳母車あるいは背負いあるいは堤げもってつづきたるものなり」
といわれている。


軍の防空体制は、
誠之館中学校のグラウンド、廃川地(現競馬場)、第41聯隊などに高射砲・高射機関銃が据えられていたが
台数も少なく、性能的にも劣るものであった。
大津野の海軍航空隊には練習用の小型機(通称赤トンボ)が数機あったが、
グラマンの攻撃を避けるために解体し、真鍋島・神島などに分散疎開する始末であった。


防空体制(三)
昭和20年6月に入るとグラマンが大津野の海軍航空隊を攻撃した。
4機編成のグラマンは仙酔島方面から海面すれすれに目標を直撃し、
さらに急上昇・急降下しつつ銃撃を繰り返した。
白い弾跡が2本、しぶきをあげつつ海面を走る。
銃撃が終わったグラマンは、使用済みの薬莢をがらがらと捨てながら、ゆうゆうと神島方面に引き返した。





「逃げるな、火を消せ!」大前治 合同出版  2016年発行 

防空法
昭和12年「防空法」が制定された。
”避難については原則として非難せしめざるよう指導する”と明確に定めた。

昭和15年内務省は指導方針を定めた。
「特に認められたもの」以外は退去・非難させず、国民各自が「持ち場を守ること」が指導方針とされた。
「市民は空襲から逃げるな」という方針が確立されたのである。


昭和16年「逃げずに火を消せ」へ改正された。


(燃え盛る火の海で、筵で火を消した人は誰一人いなかったと思える)



空襲は怖くない、消化は簡単、防空は「国民の義務」 
(昭和16年~昭和18年)

「国民防空訓」--避難、退去は一切許さぬ

政府では国民の退去を認めない。
したがって勝手に退去したものに対しては食料等については責任を持たぬ。

だから国民は有事の際自分の家、自分の町、自分の都市は死守せねばならぬ。


貴族院・水野甚次郎議員(=呉市長=五洋建設社長等)の異論

「私は先般の防空演習をみましても”お祭り騒ぎ”の感があるのであります。
あの小さなバケツで水をそばにもっていくような余裕は果たしてあるのか?
火が消しえるのであるか?
全焼を待つよりほかに仕方がないのじゃないかと思うのであります」
内務省
国民がさらなる「熾烈の責任感と、強固な団結」を強めるよう求めた。
各人の防空精神で補えという。





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昭和20年8月8日”福山空襲”①福山空襲は4月から始まっていた

2021年08月07日 | 昭和20年(終戦まで)
中学校の時、理科の若い先生は野々浜から通勤していた。
よほど機銃掃射の恐怖がしみついて、授業中、何度も田んぼ道を転げるように走り逃げた話をしていた。



「広島県戦災史」  広島県 第一法規出版  昭和63年発行 

本土空襲が激しくなった昭和19年末ごろから福山の防空体制も緊張してすすめられた。
町内会では会長が防空問題の責任者とされ、防火部長ももうけられた。
昭和18年頃から防空壕がつくられていたが、20年に入ると
「個人かもしくは共同で一軒に一ケは必ず防空壕を設置するよう指導され」た。

芦田川近くの廃川地にはやや大規模な防空壕がいくつも作られ、
市周辺の山にはさらに大規模な横穴が掘られて、空襲のさいに避難することとなっていた。

昭和20年5月、6月に入って、空襲が中小都市におよぶようになると、市幹部は
「軍隊をもつ福山市としては空襲は必至」と認識するにいたる。

このころから民家でも屋根に迷彩をほどこし、土塀・塀の白壁は墨やコールタールを塗って、
上空からの発見を防ごうとした。

空襲から家財を守るための荷物疎開も縁故・知人をたよっておこなわれた。
その状況につき、
「殊に大峠街道は連日連夜自動車、荷車・乳母車或いは背負い或いは堤げ以って続きたるものなり」といわれている。

市と警察の責任者は、福山市が被災した場合は
「梅干しや漬物を入れたにぎり飯」を松永周辺で2万食、春日・坪生周辺で1万食、神辺町周辺で2万食の計5万食を所定の場所に持参できるよう」
計画し、乾パンなどとともに緊急配給することとしていた。


軍の防空体制についてみれば、
誠之館中学校のグラウンド、廃川地(現競馬場)第41聯隊などに高射砲が据えられていたが台数も少なく、性能的にも劣るものであった。
大津野の海軍航空隊には小型機(通称赤トンボ)が数基あったが、グラマンの攻撃を避けるために解体し、真鍋島・神島に分散疎開する始末であった。


昭和20年6月に入るとグラマンが大津野の海軍航空隊を攻撃した。
4機編成のグラマンは仙酔島方面から海面すれすれに目標を直撃し、さらに急上昇・急降下しつつ銃撃を繰り返した。
白い弾跡が二本しぶきを上げつつ海面を走る。
銃撃が終わったグラマンは、使用済みの薬莢を捨てながら、ゆうゆう神島方面に引き返した。
グラマンの攻撃はその後もつづいた。




「本土空襲」  NHKスペシャル取材班  角川書店 2018年発行 

最新鋭戦闘機P-51

1945年3月26日、アメリカ軍は硫黄島を手に入れた。
そこに配備されたのは100機を超える戦闘機P-51。
当時、戦闘機の中でも最新鋭の性能を誇る機体だった。
P-51が、ついに日本の上空へと姿を現すことになるのだが、
この戦闘機が現れたことで戦局は大きく変化した。

これまで日本軍は護衛機なしで飛来するB-29に対して、辛うじて応戦していたが、ここにきて、性能で圧倒するアメリカ軍最新鋭の戦闘機の登場によって、完全に制空権を掌握されることとなった。

戦闘機P-51に護衛された爆撃機B-29は、日本軍による迎撃を受けることがなくなり、次々と軍事都市への爆撃を遂行。
その結果、主要な基地や飛行場は機能しなくなり、アメリカ軍の空襲に対して「迎撃」という行為そのものがすくなくなっていった。
日本による反撃力が弱まったことで、B-29は護衛がなくても単独で爆撃できるようになっていく。

そこで,P-51はこれまでの護衛という任務とは異なる「新たな動き」に出始める。
それは、
「独自の地上攻撃」への移行であった。
爆撃機に比べてはるかに機動力に優れており、焦点を絞った空襲を行うことができた。
小回りを利かせて、低空飛行でターゲットに向かって何度も繰り返し攻撃を仕掛けるようになっていった。







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