今年も福山大空襲の記念日が来た。
空襲の悲惨さを伝える追悼記事が載るが、もとから人命を護ろうとしない行政と国家と共犯者ともいえる新聞社の反省記事はない。
福山の空襲による犠牲者数は、行政と国家と新聞社の誤った指示・政策や報道により増大した。
広島県戦災史」 広島県 第一法規出版 昭和63年発行
歴史の教えるもの
7月31日に福山空襲を予告し避難を勧告していた。
3月の東京空襲以来、全国の各都市が空襲され、大量の人的被害をだしておきながら、
軍・警察・市の指導者は、全市民を市内からあらかじめ退出させる措置をとらなかった。
むしろ「空襲前、警察は市民に火災を防ぐため疎開してはいけない」とし
「福山では、男は絶対逃げてはならぬ、残って家を守れ」と命令されていた。
それは、戦争指導者が作為した「神州不滅」や「一億玉砕」の覚悟という非合理的スローガンが自己呪縛となり、
末端指導者をして、避難勧告に従うことは敵の策略に乗せられることではないかと疑心をいだかせ、
人命尊重を優先させず、むざむざと多数市民を死傷させたのである。
自己呪縛が戦争指導者全体から、事前に避難を命令しうるような権限を奪い去っていたのである。
「ふるさとの想い出・出部」 出部公民館 平成3年発行
「広島県戦災史」 広島県 第一法規出版 昭和63年発行
7月31日、午後10時50分ごろB29、1機が侵入し、深津から引野の沖に大量のビラを投下した。
市民に避難するよう勧告していた。
日本国民に告ぐ
あなたは自分や親兄弟を助けようとは思ひませんか、助けたければこのビラをよく読んでください。
数日のうちに裏面の都市の全部若しくは軍事施設を米空軍は爆撃します。
爆弾には眼がありませんからどこに落ちるか分かりません。
御承知のように人道主義のアメリカは罪のない人たちを傷つけたくありません。
ですから都市から避難して下さい。
アメリカの敵はあなた方ではありません。あなた方を戦争に引っ張り込んでいる軍部こそ敵です。
アメリカの考えている平和はただ軍部の圧迫からあなた方を解放することです。
さうすればもっとよい日本が出来上がるんです。
この裏に書いてある都市は必ず爆撃します。
予め注意しておきますから裏に書いてある都市から避難して下さい。
裏面・水戸・八王子・郡山・前橋・西宮・大津・舞鶴・富山・福山・久留米・長野
ビラは憲兵により回収され、かん口令がしかれた。
警察は市民に、火災を防ぐために疎開をしてはいけないといっていた。
8月6日の原爆の被害から警棒団は「爆弾の光をみたら昼夜とわず防空壕に」と指導した。
市民は簡単な防空壕に入ったまま猛火の中を脱出しようともせず、火炎と熱風にまかれて焼死または窒息死することとなった。
「ふるさとの想い出・出部」 出部公民館 平成3年発行
「千田学区地域誌」 千田学区町内会連合会 2008年発行
福山大空襲
昭和20年7月31日夜、B29が福山上空に飛来し、空襲予告のビラ約6万枚を散布しました。
このビラを拾ったものは、一枚残らず警察に届けるよう通達され、子どもたちは拾い集めたものでした。
『伝単』が撒かれた他都市の例
「八王子空襲」 八王子図書館Web
予告される八王子空襲
太平洋戦争末期の昭和20年に入り、日本の東京、大阪、名古屋、神戸、横浜などの大都市が空襲を受けると、
アメリカ軍は今度は中小都市を爆撃する作戦を進めました。
この中で八王子も攻撃目標とされていたことは、アメリカ軍が空からまいた伝単とよばれるリーフレットによって、予告されていました。
伝単は、空襲直前の7月31日、8月1日にもまかれ、いよいよ空襲があるかもしれないということが、人々の間に広まりました。
8月1日、この日は空襲に備えて昼間から市街地から離れた親戚の家に避難したり、家財などを防空壕に運び込んだりする人もいました。
甲州街道には、東京から応援の消防車も配備してありました。
空襲が始まる
空襲警報は8月1日の午後8時55分に出されました。
しかし午後11時ごろ川崎方面に爆弾攻撃を行っているという情報もあり、多くの人は今夜は八王子は空襲されないと一安心し、避難先から戻ったりして、眠りにつきました。
ところが、169機ものB29が突然八王子の町を襲ったのです。
八王子の中心部を取り巻くように次々に爆撃されていいったのです。
中心部にも焼夷弾が集中投下され、全市に火が燃え広がりました。
米軍資料ではM47焼夷弾の投下を始めたのは、2日の午前0時45分でした。
空襲は約2時間続きました。
市街地の80%以上が燃え、450人が亡くなりました。
岐阜県庁HP
岐阜県歴史資料館(岐阜市・大垣市・高山市)
太平洋戦争における日本軍の戦局はミッドウェー海戦から一変し、敗北の度合いを深めていった。
太平洋戦争末期には、アメリカ軍機のB29爆撃機による日本本土への空襲が本格化した。
1945(昭和20)年3月10日には東京大空襲が行われ、一夜にして10万人もの尊い命が失われた。
それまでは高高度からの軍需工場など目標地点を狙った精密爆撃が中心であったが、無差別爆撃が連夜のように行われるようになった。
その後、軍需工場がある地方都市にも爆撃が行われ日本は壊滅的打撃を受けた。
今回紹介する史料(1)、(2)は、地方都市を攻撃対象としてアメリカ軍機から大量にまかれた空襲予告ビラの一部である。
ビラの大きさは縦14cm、横21cmの両面印刷で、日本国民又は兵士の戦闘意欲を失わせる目的で配布されたビラといわれている。
昭和20年6月7日、大垣の上空からビラがまかれた(『岐阜空襲誌』より)。
(1)のビラはその時にまかれたものであろうか。(1)には、日本語で「日本国民に告ぐ」と題して、数日中に各市内の軍需工場を爆撃すると警告している。
その中で、「爆弾には眼がありませんからどこに落ちるか分かりません」とも書かれ、住民に避難を呼びかけている。
また、(1)裏には、編隊を組むB29爆撃機の写真を囲むように、標的とされた11の都市が記されている。
要約すると以下の4点が書かれている。
空襲予告ビラ
・・・戦時中、敵国の兵士や市民の戦意を無くすことを目的としてまかれたビラで「伝単(でんたん)ともいわれた。
ビラには複数の種類がある。
1945(昭和20)年7月頃から全国32都市の上空でまかれたとされ、実際に約半数の都市で空襲があった。まかれたビラに記された標的の都市は、地域によって異なっている。
しかし、多くの人はビラを見ることがなかったようである。
それは、ビラを隠し持っている者は非国民やスパイと疑われたからである。
また、都市によってはビラに毒が塗ってあるという噂が広まり、市民がビラに触れないようにしたからである。
こうしたビラは憲兵や警察などによって回収されたという。
予告通り、アメリカ軍は、昭和20年7月29日にビラに記載してあった大垣を空襲し、大垣の街は壊滅した。
この空襲により、大垣城や大垣別院なども焼失した。
残った建物は大垣駅などわずかであったといい、死者50名、負傷者も100名を超えたという。
(1)の空襲予告ビラは、他の都市でもまかれたようであるが、最近になって、高山でもビラが発見された(『平成20年8月4日岐阜新聞』より)。
高山では昭和20年8月2日夜、大量のビラがまかれた。しかし、警察や自衛団がすぐに回収して処分したとされる。
「ふるさとの想い出・出部」 出部公民館 平成3年発行
「逃げるな、火を消せ!」大前治 合同出版 2016年発行
「空襲予告ビラ」
爆弾ではなく、ビラを撒くために敵機が来る。
これはもはや日本が制空権を失った状態である。
今すぐ戦争を終わらせるか、住民を退去させる決断をすべきだった。
予告を隠すのでなく、緊急に住民に知らせるべきだった。
ところが日本政府は、それと正反対の選択をした。
深夜未明に10万人が死亡した東京大空襲、その夜が明けてすぐ内務省が決定したのは、
拾った空襲予告ビラを警察へ届けない者を最大3ヶ月の懲役に処するという内務省令だった。
即日施工された。
政府がビラの効果を恐れていたことが分かる
実際に、憲兵隊や隣組長が「ビラを拾うな、持っているものは提出せよ」と厳しく町内を見回った。
空襲化の凶刃—阻止された住民
八王子
猛火から逃れるため、市街地から北へ向かい浅川橋を渡る人の列ができた。
その入り口に約20人の警防団員が道を塞ぎ、住民の避難を阻止していた。
「男のくせになぜ逃げる。早く行って火を消せ。消さなければ胴を突く」
憲兵はサーベルを振り回し、「戻れ!戻れ!」「非国民」とビンタをした。
富山
警防団が神通川の橋を封鎖し、避難者を追い返した。福井でも同じことが起きた。
青森空襲の悲劇
県知事「一部に家を空っぽにして逃げたり、田畑を捨てて山中に小屋を建ててでてこないというものがあるそうだが、もっての外である。
防空法によって断固たる処置をとる。」
青森市の通告
7月28日までに戻らないと町内会台帳より削除して配給物を停止する。
町内会台帳からの削除は「非国民」のレッテルとなり、しかも食糧も絶たれて生きていけない。
これは空襲を上回る恐怖となる。
多くの市民が、期限とされた7月28日までに青森市内に戻ってきた。その夜、
約100機のB29が青森市を来襲し、死者1.018人の甚大な被害となった。
「ふるさとの想い出・出部」 出部公民館 平成3年発行
「逃げるな、火を消せ!」大前治 合同出版 2016年発行
「避難せよ」と呼びかけた街
政府や軍部の意向に逆らった良識ある決断で多数の生命を救おうとした例である。
新潟市
新潟市は昭和20年8月まで大規模空襲を受けなかった。
8月6日に広島に原爆が投下されると、次の目標は新潟ではないかと噂されるようになった。
8月10日、新潟県知事は知事布告を発し、
「広島の被害は従来の民防空対策をもっては対応し得ない程度のもので人命被害もまた実に莫大、新潟市に近く使用せられる公算極めて大きい」
として
「新潟市民の急速なる徹底的人員疎開」を指示した。
郊外へ向かう道は荷物を担いだり大八車で運ぶ人々で埋まり、8月12日には市内は閑散とした。
新潟が有力な原爆投下目標とされていたことは戦後判明した。
八戸
昭和20年7月14日と8月9日に米艦載機グラマン戦闘機による空襲を受けた
さらに
「8月17日に大空襲を実施する」という予告ビラも空中散布され、市民は恐怖に震えた
そこで市長は、8月10日付けで市街地からの「総退去」の命令を発した。
これにより八戸は「さながら無人の廃墟のまちの如き観を呈した」と伝えられる。
15日に終戦となり大空襲は起きなかった。
空襲の悲惨さを伝える追悼記事が載るが、もとから人命を護ろうとしない行政と国家と共犯者ともいえる新聞社の反省記事はない。
福山の空襲による犠牲者数は、行政と国家と新聞社の誤った指示・政策や報道により増大した。
広島県戦災史」 広島県 第一法規出版 昭和63年発行
歴史の教えるもの
7月31日に福山空襲を予告し避難を勧告していた。
3月の東京空襲以来、全国の各都市が空襲され、大量の人的被害をだしておきながら、
軍・警察・市の指導者は、全市民を市内からあらかじめ退出させる措置をとらなかった。
むしろ「空襲前、警察は市民に火災を防ぐため疎開してはいけない」とし
「福山では、男は絶対逃げてはならぬ、残って家を守れ」と命令されていた。
それは、戦争指導者が作為した「神州不滅」や「一億玉砕」の覚悟という非合理的スローガンが自己呪縛となり、
末端指導者をして、避難勧告に従うことは敵の策略に乗せられることではないかと疑心をいだかせ、
人命尊重を優先させず、むざむざと多数市民を死傷させたのである。
自己呪縛が戦争指導者全体から、事前に避難を命令しうるような権限を奪い去っていたのである。
「ふるさとの想い出・出部」 出部公民館 平成3年発行
「広島県戦災史」 広島県 第一法規出版 昭和63年発行
7月31日、午後10時50分ごろB29、1機が侵入し、深津から引野の沖に大量のビラを投下した。
市民に避難するよう勧告していた。
日本国民に告ぐ
あなたは自分や親兄弟を助けようとは思ひませんか、助けたければこのビラをよく読んでください。
数日のうちに裏面の都市の全部若しくは軍事施設を米空軍は爆撃します。
爆弾には眼がありませんからどこに落ちるか分かりません。
御承知のように人道主義のアメリカは罪のない人たちを傷つけたくありません。
ですから都市から避難して下さい。
アメリカの敵はあなた方ではありません。あなた方を戦争に引っ張り込んでいる軍部こそ敵です。
アメリカの考えている平和はただ軍部の圧迫からあなた方を解放することです。
さうすればもっとよい日本が出来上がるんです。
この裏に書いてある都市は必ず爆撃します。
予め注意しておきますから裏に書いてある都市から避難して下さい。
裏面・水戸・八王子・郡山・前橋・西宮・大津・舞鶴・富山・福山・久留米・長野
ビラは憲兵により回収され、かん口令がしかれた。
警察は市民に、火災を防ぐために疎開をしてはいけないといっていた。
8月6日の原爆の被害から警棒団は「爆弾の光をみたら昼夜とわず防空壕に」と指導した。
市民は簡単な防空壕に入ったまま猛火の中を脱出しようともせず、火炎と熱風にまかれて焼死または窒息死することとなった。
「ふるさとの想い出・出部」 出部公民館 平成3年発行
「千田学区地域誌」 千田学区町内会連合会 2008年発行
福山大空襲
昭和20年7月31日夜、B29が福山上空に飛来し、空襲予告のビラ約6万枚を散布しました。
このビラを拾ったものは、一枚残らず警察に届けるよう通達され、子どもたちは拾い集めたものでした。
『伝単』が撒かれた他都市の例
「八王子空襲」 八王子図書館Web
予告される八王子空襲
太平洋戦争末期の昭和20年に入り、日本の東京、大阪、名古屋、神戸、横浜などの大都市が空襲を受けると、
アメリカ軍は今度は中小都市を爆撃する作戦を進めました。
この中で八王子も攻撃目標とされていたことは、アメリカ軍が空からまいた伝単とよばれるリーフレットによって、予告されていました。
伝単は、空襲直前の7月31日、8月1日にもまかれ、いよいよ空襲があるかもしれないということが、人々の間に広まりました。
8月1日、この日は空襲に備えて昼間から市街地から離れた親戚の家に避難したり、家財などを防空壕に運び込んだりする人もいました。
甲州街道には、東京から応援の消防車も配備してありました。
空襲が始まる
空襲警報は8月1日の午後8時55分に出されました。
しかし午後11時ごろ川崎方面に爆弾攻撃を行っているという情報もあり、多くの人は今夜は八王子は空襲されないと一安心し、避難先から戻ったりして、眠りにつきました。
ところが、169機ものB29が突然八王子の町を襲ったのです。
八王子の中心部を取り巻くように次々に爆撃されていいったのです。
中心部にも焼夷弾が集中投下され、全市に火が燃え広がりました。
米軍資料ではM47焼夷弾の投下を始めたのは、2日の午前0時45分でした。
空襲は約2時間続きました。
市街地の80%以上が燃え、450人が亡くなりました。
岐阜県庁HP
岐阜県歴史資料館(岐阜市・大垣市・高山市)
太平洋戦争における日本軍の戦局はミッドウェー海戦から一変し、敗北の度合いを深めていった。
太平洋戦争末期には、アメリカ軍機のB29爆撃機による日本本土への空襲が本格化した。
1945(昭和20)年3月10日には東京大空襲が行われ、一夜にして10万人もの尊い命が失われた。
それまでは高高度からの軍需工場など目標地点を狙った精密爆撃が中心であったが、無差別爆撃が連夜のように行われるようになった。
その後、軍需工場がある地方都市にも爆撃が行われ日本は壊滅的打撃を受けた。
今回紹介する史料(1)、(2)は、地方都市を攻撃対象としてアメリカ軍機から大量にまかれた空襲予告ビラの一部である。
ビラの大きさは縦14cm、横21cmの両面印刷で、日本国民又は兵士の戦闘意欲を失わせる目的で配布されたビラといわれている。
昭和20年6月7日、大垣の上空からビラがまかれた(『岐阜空襲誌』より)。
(1)のビラはその時にまかれたものであろうか。(1)には、日本語で「日本国民に告ぐ」と題して、数日中に各市内の軍需工場を爆撃すると警告している。
その中で、「爆弾には眼がありませんからどこに落ちるか分かりません」とも書かれ、住民に避難を呼びかけている。
また、(1)裏には、編隊を組むB29爆撃機の写真を囲むように、標的とされた11の都市が記されている。
要約すると以下の4点が書かれている。
空襲予告ビラ
・・・戦時中、敵国の兵士や市民の戦意を無くすことを目的としてまかれたビラで「伝単(でんたん)ともいわれた。
ビラには複数の種類がある。
1945(昭和20)年7月頃から全国32都市の上空でまかれたとされ、実際に約半数の都市で空襲があった。まかれたビラに記された標的の都市は、地域によって異なっている。
しかし、多くの人はビラを見ることがなかったようである。
それは、ビラを隠し持っている者は非国民やスパイと疑われたからである。
また、都市によってはビラに毒が塗ってあるという噂が広まり、市民がビラに触れないようにしたからである。
こうしたビラは憲兵や警察などによって回収されたという。
予告通り、アメリカ軍は、昭和20年7月29日にビラに記載してあった大垣を空襲し、大垣の街は壊滅した。
この空襲により、大垣城や大垣別院なども焼失した。
残った建物は大垣駅などわずかであったといい、死者50名、負傷者も100名を超えたという。
(1)の空襲予告ビラは、他の都市でもまかれたようであるが、最近になって、高山でもビラが発見された(『平成20年8月4日岐阜新聞』より)。
高山では昭和20年8月2日夜、大量のビラがまかれた。しかし、警察や自衛団がすぐに回収して処分したとされる。
「ふるさとの想い出・出部」 出部公民館 平成3年発行
「逃げるな、火を消せ!」大前治 合同出版 2016年発行
「空襲予告ビラ」
爆弾ではなく、ビラを撒くために敵機が来る。
これはもはや日本が制空権を失った状態である。
今すぐ戦争を終わらせるか、住民を退去させる決断をすべきだった。
予告を隠すのでなく、緊急に住民に知らせるべきだった。
ところが日本政府は、それと正反対の選択をした。
深夜未明に10万人が死亡した東京大空襲、その夜が明けてすぐ内務省が決定したのは、
拾った空襲予告ビラを警察へ届けない者を最大3ヶ月の懲役に処するという内務省令だった。
即日施工された。
政府がビラの効果を恐れていたことが分かる
実際に、憲兵隊や隣組長が「ビラを拾うな、持っているものは提出せよ」と厳しく町内を見回った。
空襲化の凶刃—阻止された住民
八王子
猛火から逃れるため、市街地から北へ向かい浅川橋を渡る人の列ができた。
その入り口に約20人の警防団員が道を塞ぎ、住民の避難を阻止していた。
「男のくせになぜ逃げる。早く行って火を消せ。消さなければ胴を突く」
憲兵はサーベルを振り回し、「戻れ!戻れ!」「非国民」とビンタをした。
富山
警防団が神通川の橋を封鎖し、避難者を追い返した。福井でも同じことが起きた。
青森空襲の悲劇
県知事「一部に家を空っぽにして逃げたり、田畑を捨てて山中に小屋を建ててでてこないというものがあるそうだが、もっての外である。
防空法によって断固たる処置をとる。」
青森市の通告
7月28日までに戻らないと町内会台帳より削除して配給物を停止する。
町内会台帳からの削除は「非国民」のレッテルとなり、しかも食糧も絶たれて生きていけない。
これは空襲を上回る恐怖となる。
多くの市民が、期限とされた7月28日までに青森市内に戻ってきた。その夜、
約100機のB29が青森市を来襲し、死者1.018人の甚大な被害となった。
「ふるさとの想い出・出部」 出部公民館 平成3年発行
「逃げるな、火を消せ!」大前治 合同出版 2016年発行
「避難せよ」と呼びかけた街
政府や軍部の意向に逆らった良識ある決断で多数の生命を救おうとした例である。
新潟市
新潟市は昭和20年8月まで大規模空襲を受けなかった。
8月6日に広島に原爆が投下されると、次の目標は新潟ではないかと噂されるようになった。
8月10日、新潟県知事は知事布告を発し、
「広島の被害は従来の民防空対策をもっては対応し得ない程度のもので人命被害もまた実に莫大、新潟市に近く使用せられる公算極めて大きい」
として
「新潟市民の急速なる徹底的人員疎開」を指示した。
郊外へ向かう道は荷物を担いだり大八車で運ぶ人々で埋まり、8月12日には市内は閑散とした。
新潟が有力な原爆投下目標とされていたことは戦後判明した。
八戸
昭和20年7月14日と8月9日に米艦載機グラマン戦闘機による空襲を受けた
さらに
「8月17日に大空襲を実施する」という予告ビラも空中散布され、市民は恐怖に震えた
そこで市長は、8月10日付けで市街地からの「総退去」の命令を発した。
これにより八戸は「さながら無人の廃墟のまちの如き観を呈した」と伝えられる。
15日に終戦となり大空襲は起きなかった。