しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和20年代の農作物

2021年08月16日 | 昭和21年~25年

「鴨方町史 本編」  鴨方町  平成2年発行

昭和20年代の農作物
戦時中からの食糧増産政策が肥料需給率の低下で生産高を低下させ、
これに兵員に徴発されたことによる労働力不足が重なって農業を停滞させる結果となった。
戦後になっても事情は変化しなかった。
戦後の食糧難は深刻で、甘藷を栽培して食糧とすることも多かった。
昭和20年に74.5町で甘藷が栽培され、15万貫を生産しているが、
昭和24年には同一栽培面積で、26万貫を生産している。
畑作物の食用農産品の第一が甘藷であり、大根などを圧倒して栽培されていることに、
食糧難の世相が反映しているといえる。

昭和25年にはじまる朝鮮戦争を契機とする日本経済の活性化の中で、甘藷栽培も減少し、ようやく経済再建のきざしが見えはじめ、
このころから、戦前から特産品の一つになっていた桃の栽培が拡大する。
昭和20年に671本であった桃は昭和30年には1.5倍に拡大する。
梨と葡萄は停留し、
葉煙草が拡大傾向を示した。

昭和20年に185人が昭和26年には100戸増えた。専売品で安定で、換金する農家が増加した。
戦時中の輸出減退の中でバンコック帽や麦稈真田の極度の不振で、戦後になっても輸出は伸びす、国内向けの生産に切りかえ、総じて販売は拡大しなかった。


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元独立臼砲十八大隊の元隊員の話し

2021年08月16日 | 占守島の戦い
「黒崎の郷土史」 遠藤堅三 岡文館  平成19年発行

甲谷照正さんの太平洋戦争
(抜粋)

昭和19年 
4月15日
赤紙来る。
4月22日 
御前神社で歓送式。父・弟、金光駅より付き添いで和歌山市まで同行。
4月25日 
和歌山の独立臼砲第18大隊第一中隊に入隊。
5月11日 
隠密裏に和歌山を出発。
6月16日 
温禰古丹島(おんねこたんとう)に上陸。

昭和20年
7月30日 
内地より最後の郵便物来る。
8月4日 
占守島長崎海岸に上陸。
8月13日 
後続の船団、米艦隊の攻撃を受けことごとく海没と知る。
8月15日 
この日、天皇の重大放送ありと聞くも僻地の陣営では、その放送聞くすべなし。時局の重大さを憂い全国民一大奮起を促すお言葉であろうと思っていた。

8月16日 
長崎海岸より使役で帰りたる者の話では15日の天皇陛下の放送は終戦詔勅といえども半信半疑、正式な示達はなし。
8月17日 
朝、貴志小隊長より終戦詔勅の確報を聞く。



8月18日 
未明、ソビエト軍占守島国端に上陸、現地部隊は竹田浜に上陸、戦闘中。我々も戦闘戦備体制に入り命令を待つ。我が方、敵を水際に押すも大本営よりは抵抗ならずの命令、彼我膠着対峙状態、我が方、軍使を出して15日ポツダム宣言受諾後の戦闘にして犠牲出すに忍びず、再三にわたり軍使を出して交渉に入れども事態は妥結せず。見晴台の戦車部隊は全員四霊山の戦闘に参加、炊事要員2名を残し全員戦死。
8月21日
我々23名は孤立。
食料なく天神山中隊に食料受領に行く、中隊本部の所在も不明のまま3名出発する。帯剣は3,小銃は1、途中敵弾の雨霰、進退窮する中、友軍の歩兵隊より退却を命ぜられ帰隊する、敵弾の飛来は漸く治まる。
8月22日
現地司令部よりたとえ大元帥閣下に背くとも武人の面目にかけ総攻撃に移らんと全軍前線に移り、ひたすら命令を待つ。
8月23日
漸く交渉妥結、正午三好野飛行場に全軍終結、武装解除される。
8月24日
我が大隊は三好野付近に集結し翌日現地で戦没者の慰霊祭を行う。
9月5日
ソ連軍の指揮下に入り作業に従事す。
9月18日
日ソ激戦地跡の戦場を整理、ソ連軍の戦死者は埋葬して白木の墓標を建てるも、日本軍の屍は半ば朽ち放置されたまま、惨め。
10月10日
ソビエト船に乗船、占守島を出航。




10月20日
マガダンより奥地80キロのフタロヒに着く。約4.000名。
10月22日
森林伐採作業に従事す。貧しい食料、作業はノルマの要求、寒気は募る、日本衣類はぼろぼろに破れ、寒地に適せぬ軍靴では耐えきれない冷たさ凍傷にかかる。
栄養失調、体力は日々衰える。
11月3日
激しい吹雪の朝、作業は続行。
収容所の広場に整列し南に向かって故国への遥拝、黙祷。
大隊長の訓示、今日、故国では菊薫る明治の佳節である。
その後、鋸となたを持って雪の途を山へ。
11月下旬
下痢患者続出、死者も出る。
12月中旬
凍傷にかかる、右手親指、人差し指、中指三本の指、凍傷。
忽ちにして爪は抜ける、痛み激しいい凍兵休をくれる。


昭和21年
3月25日
この頃明け方、オーロラが美しい。
4月中旬
日増しに日が長くなり午後11時頃でも明るい。
6月初旬
作業優秀者のグループに入る。

昭和22年
3月2日
初めて捕虜用郵便葉書が渡され、郷里に健在と便り認める。
5月
この頃ダモイ(帰国)の噂、濃厚なり。

昭和23年
7月下旬
衰弱してマガダンに移る。油送菅配管の作業員として草原に出る。

昭和24年
4月
大工要員として出る。
7月
帰国の噂、濃くなる。
9月15日
シベリア寒気を覚える頃となり、また越冬か。
その日の作業を終えた頃収容所から使いがくる。
作業は今日で打ち切り、私物は持ち帰るようにと“ついに帰るれ”
丸4年間、瞬時も心から去らなかった帰国、一同喜色溢れる。
9月21日
マガダン港を出港。
9月24.25日
海上時化る。船は宗谷海峡に入る。
9月26日
夕刻ナホトカ港に入る。下船して収容所に入る。
9月27日
厳しい私物検査、前歴職業が警察、憲兵の人は列を外された。
9月30日
ソ連を去る式が行われた。
岸壁で名前が呼ばれると2人1組でスクラム組んでタラップを上がるのである。
午後3時、船は出港二度と来ないぞソ連港。



(舞鶴引揚記念館)

10月3日
鳥居が見える。シベリアで日本の神社は全て取り壊したと聞いていたので鳥居が見えた時意外に思った。
桟橋に降りる。舞鶴援護局の庭にはコスモス咲き乱れ、金木犀の芳香漂い秋陽さんさんと照り注ぐ。
10月4日
援護局内で東舞鶴青年団の慰労の夕が催され歌謡曲、映画あり。
10月11日
帰郷の日、夕方6時頃京都駅に着く。妻、叔父来てくださる。
岡山駅頭で婦人会歓迎の茶の接待、父や娘、親類の方がたも来てくださる。
11時頃、金光駅に着く。
黒崎村よりも部落の人達が大勢迎えに来てくださり、郷関を出て5年7ヶ月振りに夢にだに忘れ得ない故郷の土を踏む。


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松根油の増産

2021年08月16日 | 昭和16年~19年
「革新と戦争の時代」 井上光貞他共著 山川出版社 1997年発行

石油の不足

石油代用品として大豆油・落花生油・ヤシ油・ヒマシ油が産業用に向けられ、
メタノール・エタノール・アセトンがガソリンに代用された。
民間の馬鈴薯・砂糖・酒類はアルコール原料として供出させられ、生ゴムから油を取ることも考えられた。
海軍はついに松の根から油を作る松根油計画に着手し、
農商省は昭和19年10月に松根油急増産大綱を決定した。
「200の松根は一機を一時間飛ばせる」というスローガンで、
農業会を通じ全国民が松根掘りに駆り出された。
一日当たり125万人を動員し、約4万7千の乾溜窯が全国に作られ、
昭和20年6月には松根粗油は月産1万1千キロリットルに達した。

精製技術上の難点はついに克服できず、
敗戦時までに生産された航空機用ガソリンは海軍第三燃料廠(徳山)での480キロだけで、四日市の燃料廠に集められた松根油は精製前に空襲を受けて無駄になった。
松根油にはタール分・灰分が多く、いったん濾過したものでも燃料タンクに放置すると、濾過器がつまる
敗戦後アメリカ軍が試験的にジープに用いたところ、数日でエンジンが止まり使い物にならなかったといわれる。





「岡山の女性と暮らし 戦前・戦中の歩み」 岡山女性史研究会編  山陽新聞社 2000発行

松根油の増産
昭和19年

前年末から松の根を乾留してガソリン代用の軍需燃料にする松根油増産が始まった。
本年10月農商務省が「松根油緊急増産対策要綱」を決定し、松の根掘りに主婦や生徒児童を動員した。
岡山県も町村ごとに「堀取り挺身隊」を組織して動員した。
12月には乾留釜462を主要地区に設置する計画を立てた。
翌年2月山林局に松根油課が新設され、7月から松根油増産完遂運動が始まった。

しかし、輸送力不足と乾留釜設置がはかどらぬまま敗戦となった。
敗戦後、県内の山々にも掘り返されたままの巨大な松の根が散乱していた。





「福山市津之郷町史」 ぎょうせい  2012年発行

国民学校

昭和20年になると、松やに採取のために、大きな松の木の幹に鋸目を入れ、
そこから流れ出る液を竹の筒に受けるようにしたものを毎日、
集め回ってそれを学校に持って行くようになっていた。

松やには飛行機や戦艦の塗料の原料とされた。

松根油株割兵士が同年6月から講堂に宿泊し、現在の保育所の北方で、
周辺で集められた松の根を割って、乾留して松根油を採取した。
松根油から飛行機燃料などが製造された。




「新修倉敷市史6」

松根油の大増産のため

昭和19年暮れ、政府はにわかに軍用機燃料の原料になる松根油の増産に力を入れ始めた。
翌20年2月314基の乾留釜を新設し、既存の137基と合わせて大増産する計画で、
児島郡では11基、浅口郡で7期、都窪郡で6基新設計画になっていた。
ところが釜の新設が終わらないうちに次の増設割り当てが届くありさま。

松根油は「肥松」と呼ばれる老松の根が原料。
倉敷市では町内会単位に割り当て、市街地周辺の向山、足高山、酒津山などで掘った。
まもなく老松は底をついたが、増産要求は容赦なかった。
翼賛壮年団・警防団・在郷軍人会の会員らを動員し松の根を掘っている。
山の中から松の根を掘り出し、堅い根を割り砕いて乾留するのが重労働だった。
戦争末期には予科練習生少年航空兵も従事した。
それでも増えなかった。




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国民生活の窮迫

2021年08月16日 | 昭和16年~19年


 
学校出て、初めて社会人になったころ、
会社の健保組合から「家庭医学」の本を配布されることが何度かあった。
何冊か配られたので著者(監修者だったかも)”杉靖三郎”の名前はよく覚えている。

医学博士・杉靖三郎氏は、戦前・戦中から家庭医学の分野で啓蒙活動をしていたようだ。





「昭和 第6巻」  講談社 平成2年発行
飢餓とたたかう「決戦食」
茶殻も野菜代わりに


飢える銃後
厚生省は昭和16年9月、米の供給減にともなう新たな「日本人栄養要求量」の最低限度を、成人男子1人1日熱量2.000カロリー、蛋白70gと発表した。
しかし昭和19年になると、この最低限度を下まわる1927カロリー、45.4gにまで低下した。
大阪府の場合、15歳の平均体重は17年45.4k、18年44.7g、19年42.8gと減少していった。

政府は食糧不足に対する抜本的な解決策よりも、「工夫が足りない」「我慢が足りない」として、
米や代用食以外のものを主食化しようという「決戦食」を喧伝した。
また「日本に栄養不足絶対になし」とする栄養学者も現れた。
「日本人の栄養は1.000カロリーを割っても栄養学的にはまだ大丈夫。
ようするに日本人は『玄米と味噌と野菜少々』あれば、いつまで戦争が続いても決して栄養不足になる心配はなく、いつまで戦争が続いても決して栄養不足になる心配はなく定期で頑張れるのです」(杉靖三郎『婦人倶楽部』昭和19年6月号)
と主張する学者もいたのである。

・・・


国民生活の窮迫

昭和16年4月、米が配給制。二合三勺。
その内容は急速に変化した。当初の7分搗きから、5分搗き、二分搗きになっただけでなく、雑穀や代替食品の混入割合が多くなった。
昭和16年11月の閣議で玄米食普及が決定され、これが大政翼賛会指導の国民運動になった。
昭和18年6月以降、馬鈴薯・小麦粉・乾パン・満州産大豆・甘藷・脱脂大豆・でん粉・切干甘藷・麦などの代用食の比重が米と引き替えで次々に高められた。
昭和19年からは大豆やとうもろこしも米と混炊するようになった。

魚の最低必要量は1日50Gとされていたが、17年に36G、18年に26Gとなり、20年には10Gまでに低下した。
イワシ・サメ・スケトウダラが配給の大部分を占めた。
野菜も配給では必要量の半分しかなく、家族総出の「買い出し部隊」が近郊の農村に繰り出した。
空地や庭に家庭菜園を作らせ、主食代わりになる南瓜の増産が奨励された。
昭和20年の野菜消費量は12年の6割以下に落ち込んだ。
主食への大豆・高粱・ともろこしの混入率は20年5月の13%から6月49%7月59%と急速に高まり、7月にはついに主食配給が一律1割削減された。
芋づる・どんぐり・よもぎ・にら・南瓜のつる・蜜柑の皮をはじめ、桑の葉・もみがら・おがくずまでが食糧となった。

生活物資も行列買いがはじまりった。
衣生活では、衣料品はますます買いにくくなった。
短袂実行・国民服・モンペ着用・衣料融通交換の国民運動が起された。
昭和19年6月、現物の衣料は底をついた。

住宅事情も悪化の一途をたどった。
縁故疎開で農村に殺到した疎開者は、農家の納屋や蚕室・鶏小屋まで借りて住居とした。

「革新と戦争の時代」 井上光貞他共著 山川出版社 1997年発行

・・・・・




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戦後の混乱③満州からの引揚げー荷物一つ 命からがら

2021年08月16日 | 昭和21年~25年
荷物一つ 命からがら

「昭和時代」  著者・読売新聞  中央公論社  2015年発行


在留の日本人が最も多かったのは満州だった。
約155万人と見込まれた。

日本政府は1945年8月14日、
満州を始めとする在外機関に訓令を出し、
在留邦人は「出来る限り定着させる」との方針を示した。
ソ連軍の蛮行が続き、満州の危機的な状況が伝えられても、
「早期引き揚げ」へと方向転換できなかった。

満州を占領したソ連は、在満日本資産を持ち去るばかりで、邦人保護には一向に目を向けなかった。
関東軍も、満州国も、満鉄も、9月末までには消滅した。
関東軍の幕僚や満州国の首脳陣はシベリアへ連行された。

45年末から共産党軍が勢力を伸長させた。
46年3月、ソ連軍は撤退を開始。
その後に国民政府軍が現れた。

米国が国民政府に対して輸送用船舶を貸与するなど支援活動を行い、引き揚げが始まった。
邦人を乗せた第一陣の船が葫蘆島を出港したのは46年5月のことだった。



・・・・・・

満州で生まれた漫画家・赤塚不二夫の『これでいいのだ』によれば、
46年6月初め、奉天駅から無蓋貨車で葫蘆島に向かう。
奉天駅には、中国人が大勢集まっていて「その子供売れ!」
母は子に「しっかりつかまるんだよ。離しちゃダメだよ!」

満州の邦人は、46年中に約100万人が引揚を終えた。
約17万人が犠牲になったといわれている。

リュックサックやズタ袋一つに大事なものを収めて、命からがら本土にたどり着いた引揚者のなかには、帰国した後、
新たな苦労に直面した人も多かった。






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大政翼賛会・庄原

2021年08月16日 | 昭和16年~19年
「庄原市の歴史 通史編」 庄原市 平成17年発行

昭和24年石川達三は、戦争中に思想弾圧に屈しなかった中央公論社社長嶋中雄作をモデルにした『風にそよぐ葦』を発表している。
そこには特高警察、
特別高等警察・・・高等とは恐れ入る名称であるが
死に至ることを当然として拷問を繰り返している治安警察の姿が描かれている。
憲兵と特高は、ナチス・ドイツの親衛隊と同じ役割を果たしたが、
戦後厳しい反撃を受けたナチ親衛隊関係者とは異なり、
日本では元特高警察を励ます会まで組織され、政界に進出する者さえあった。

特高警察の拷問で殺された人は哲学者三木清、作家小林多喜二など数多い。
嶋中雄作は横浜警察署で拷問を受け、拷問に負けず、信念を守った。

昭和15年には大政翼賛会が組織され、政党活動はできなくなった。
学者・作家・画家なども大政翼賛会文化部に所属し、
安部能成(戦後学習院大学学長)、岩波茂雄(岩波書店社長)、菊池寛(文芸春秋社長)など戦後は自由主義の総本山と目される人々も「大政翼賛促進の会」の発起人となった。


(福山41連隊の応召兵と家族)


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白壁は危ない、壁を塗る

2021年08月16日 | 昭和20年(終戦まで)
「井原市史2」 

昭和20年6月29日、午前2時頃より、井原の地から多くの人が遠く激しい岡山大空襲を見詰めており、井原町からも警防団が弁当持ちで出動していった。
7月に入ると、井原町では連日朝昼、夜の別なく空襲警報が鳴り渡り「気モオチツカズ」空襲が現実のものとして迫り、荷物の疎開、自宅内に穴を掘りブリキ箱を埋け食器類を入れた。
蓄えていた食糧を台所のコンクリートに詰めるなど、緊張感が伝わってくる。
8月8日夜10時ごろ、空襲警報が鳴って、火の手、黒煙のあがる福山空襲の様を見ていた。
13日にはいよいよ空襲の標的と身に迫る危険を避けるため、ベンガラを購入して松根油を溶いて白壁を塗った。

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「岡山県史 近代ⅲ」
飛行機から地上を眺めると白色のものが一番目にはいるので白い衣料は危ない。
白または白色に近い壁・屋根・土塀などは都市・山間部を問わず早急に対空迷彩を実施するよう呼びかけられた。

迷彩にはコールタールがよいが入手困難なので松根油採取時の廃澤・煤・松炭などを布海苔に混ぜて塗れば相当の効果があるとされた。
いれがない場合は泥土を塗り、絶対に小型機の目標にならないよう指示され、県下のすみずみまで迷彩が督励された。



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戦時中の食生活

2021年08月16日 | 江戸~明治

「金光町史」

戦時中の食生活

日中戦争が始まり、食べものが不足し、配給制度ができた。
金光町のほとんどが農家であったので、十分とはいえないが食べるぐらいのものはり、保有米を残して、あとはすべて供出した。
配給の主体は主食で、醤油や酒も配給であった。
農家でも米は小米を使い、半麦飯であった。
サツマイモ、ジャガイモ、南瓜も主食代わりになった。
農家では自家栽培ができたので有利であった。
サツマイモはたくさんゆでておき、ご飯代わりに食べた。
またタマネギと南瓜をよく炊いて食べたが、甘い物がなかった時代なので、甘くておいしかった。
昭和23、24年ごろまで食糧難は続き沙美まで行って樽に海水を汲んで来て煮詰め、塩の代わりにしたこともあった。
また、砂糖の代わりにサッカリンも使用された。
戦中戦後の食糧難とはいえ、自給できる田畑をもっていた金光町では、
芋の茎や野草を食べるほどの極度の食糧難はなかったようである。

・・・・・・
「日本流通史」 石井寛治 有斐閣 2003年発行

食糧不足
極度の食糧不足に対応するため、国民は食べられるものは何でも食べようということになった。
雑誌『生活科学』1943年3月号は、昆虫で食べられそうなものを紹介している。
トンボの幼虫やかいこのサナギ、いなごの成虫。
カミキリムシやゲンゴロウまで、いったいどうやって食べるのであろうか。
これではまるで江戸時代の飢饉の庶民の姿である。

・・・・・

「岡山県史 現代Ⅰ」

1944年(昭和19)より未利用食糧の供出運動が起された。
さらに1945年11月に岡山県は未利用食糧資源集荷促進要綱を定め、
カンショ茎葉・葉柄・ドングリ・大根葉などの米の代用品としての供出出荷が促進された。
なお1946年1月からは、
ミカン皮・クズ根・クズ澱粉、同年7月からは
ニンジン葉・ゴボウ葉・里芋葉・カボチャ種子・ヨモギ・茶がらなどが
米の代用品として追加指定され、政府買い上げ対象となり供出された。
これらの未利用食糧は主に乾燥され出荷され、
製粉して干パンやパンに混入されたが、
特に芋づるやドングリ・米ぬかなどの多く混入されたパンなどを「ドンツク」または「ドンツクパン」と呼び、
味はともかく多くの人々に親しまれた。

・・・・・

・・・・・

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沖縄戦から終戦へ

2021年08月16日 | 昭和20年(終戦まで)



「岩波講座日本歴史21近代8」  岩波書店 1977年発行

沖縄戦

1945年はじめいらい、国をあげて準備に狂奔しつつあった本土決戦が、
もし実現したらどうなったかを、まざまざと示したものが沖縄戦の経過であった。

決戦主義から持久戦主義に転じ、
沖縄本島南部の塩尻地区に集結して戦略持久を策することにした。
県民の保護をはじめから計画しなかった軍は、逆に作戦上の必要から県民の労力も資材も根こそぎ動員した。
さらに直接戦闘力を補うため一般民衆を動員することも徹底して行われた。

1944年7月在郷軍人を中心とした市町村の部落単位で防衛隊を編成し、軍の直接指導下に陣地構築や輸送任務にたずさわっただけでなく、直接戦闘にも参加させた。

1944年12月からは中学校生徒の戦力化も計画され、
中学校上級生は直接軍に配属して戦闘に従事し、
中学校下級生は通信教育を受けて通信員に、
女学校生徒は看護婦教育を受けて看護婦にすることが計画された。
1945年3月沖縄本島への艦砲射撃がはじまると、計画に沿ってそれぞれ動員された。

沖縄が戦場化した最初は1944年10月10日の大空襲であった。
レイテ上陸を前にして、この日沖縄本島を攻撃して飛行機や船舶・軍需品に大損害をあたえたが、特に那覇市の住宅90%が焼失した。

1945年4月1日アメリカ軍の沖縄本島上陸がはじまる。
第一日目に早くも橋頭堡を確立。
大本営は陸海軍の航空機特攻や、戦艦大和以下の海上特攻を計画し、第32軍の攻撃を促した。
この圧力で第32軍は2回にわたり出撃したが大損害を受け、4月中旬以降持久戦に移った。
6月22日軍司令官牛島満中将が自決し、組織的抵抗を終った。
この戦闘の期間、住民の大部分は戦闘にまきこまれた。
大部分が戦死か自殺をした中学生、女学生たちをふくめて、約20万人が犠牲者となた。

沖縄戦の悲劇は戦闘による犠牲にとどまらず、友軍と信じていた日本軍に殺された例の多いことによって倍加されている。
はじめに上陸した慶良間諸島の渡嘉敷、座間味二村では、
村民は足手まといだとして守備隊によって集団自殺を強要され、
山中に逃げた者はスパイ容疑で惨殺された。
こうした例は本島でも多く、明らかに県民と知っていながら『スパイ嫌疑』で、
軍刀・銃剣・小銃で殺された。
沖縄の守備軍が、県民を利用できるだけ利用して、これを戦火の中に遺棄した。

本土決戦の基本的な考え方は、
「皇土の万物万象を戦力化し」「一億特攻」の攻撃精神で迎え撃つというもので、
まさに全国民を玉砕の道連れにする以外の何ものでもなかった。
戦場から住民を避難させるという考えは、輸送力の欠如から実行困難であり、
また避難させたとしても、それを保護する手段がなかった。
国民は動けるもの全てを戦闘に動員し、足手まといになる老人や幼児は見捨てる以外にないというのが実情だった。



本土決戦

生活の崩壊と戦意の低下

一億国民を本土決戦に総動員しようとするこのとき、
支配者の期待したような国民の戦意の燃え上がりはまったくみられなかった。
それは、国民生活そのものが崩壊に瀕していたことが大きな原因である。

生産力の崩壊と海上輸送の途絶の影響を受けたのは、とくに食糧の供給である。
1945年の農業生産は完全に破壊することになってといってよい。
軍隊への根こそぎ動員、
肥料の欠乏、
海上輸送の途絶、
本土の軍隊と工場要員の需要増は、食糧事情を窮迫させた。

支配者が憂慮したのは、国民の生命や健康がおびやかされるということそれ自体ではなかった。
その結果として飢餓状態が現出し、治安上楽観を許さない事態が生まれることであった。
主食の圧迫に加えて副食物も調味料も極端に供給が低下した。
その他、衣料品や靴は零に等しくなった。
食糧の不足以上に国民生活に破壊的影響をあたえたのは空襲の被害であった。
6月以後の中小都市への空襲被害はとくに深刻であった。
空襲を受けると、市民はいっせいに市外に退避し、消火活動に当たる者がなくなって被害はいっそう大きくなった。
工場では労働者が離散し、欠勤率50%のところもあらわれた。
最後の土壇場になって、国民は自らの生命を守るのに、軍や政府の強制にも応じなくなったのである。
空襲にたいする日本軍の反撃のないことも、国民の不信不安をたかめた。
生活の不安、生命の不安から、国民の戦争にたいする疑問と批判はようやく深刻となっていったのである。


士気の低下、戦意の喪失は一般国民の間の現象だけではなかった。
本土決戦に備える270万の軍隊の中でも、士気の頹廃、軍紀の崩壊が大きな問題となっていた。
新編成部隊は素質劣悪・訓練未熟でとうてい戦力として期待できないだけでなく、
宿舎、栄養の不足から兵士の体力気力も衰えていた。
兵器も行きわたらなく、毎日が陣地構築のための壕堀りか、食糧あさりに明け暮れて、教育訓練の余裕もなかった。

民心の離反、士気の低下にたいする対策は、一層むきだしの弾圧政策をとる以外になかったといってよい。
本土決戦体制の強化、空襲の激化に中で警察は民心の動向に対する偵知をますます深め、治安の確保に強硬手段をとりはじめた。
空襲の被害よりも民心の動揺を恐れ、
内務省は5月29日、各県警部長宛て民心の動向危惧の情勢留意の電報をした。
軍部は3月16日、憲兵隊の大規模な拡張をし、思想警察の強化をした。


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本土決戦

2021年08月16日 | 昭和20年(終戦まで)

「日本歴史21」 岩波書店 1977年発行

本土決戦が全国民を死のみちづれにすることが明らかでありながら
戦争指導者たちは具体的な戦争の終結への動きを示さなかった。
それが始まるのは、本土空襲が激化し、民心の離反が明らかになり、体制存続の危機を感じ取った時以降である。

鈴木内閣になってから始められる対ソ工作も、最初は軍部の希望するソ連の参戦阻止が目的であって、直接戦争終結をはじめるのは6月中旬以後なのであった。

4月5日、ソ連は日ソ中立条約の不延期を通告してきた。
前年の11月7日の革命記念日でスターリンが日本を侵略国と呼んだことと、
45年2月末頃からソ連の極東兵力の増強が目立ちはじめたこととあいまって、
ソ連の参戦の危険がせまっていることを陸軍は強く憂慮しはじめた。
5月にはいると兵力105万、飛行機4.500機、戦車2.000両と増加していた。
関東軍の兵備はとうていこれにたちうちできない状態になっていた。
飛行機、戦車、火砲などをほとんど失って、ソ連軍の攻撃に耐える力を持たない状態であった。

ソ連参戦に対して軍事的対抗手段をとりえない以上、陸軍としてはソ連の参戦防止がなりより望まれるところであった。

天皇が急に戦争終結に熱心になるのは6月8日の御前会議以後のことである。
ドイツの降伏、
沖縄の失陥、
東京の大空襲、
宮城の焼失などの情勢の急展が作用していることは事実であろう。
天皇の世界情勢や戦局についての認識は相当に甘かったようである。

対ソ交渉にさいして何よりも日本側の条件として、国体の護持すなわち天皇制支配体制の維持こそが全支配階級の共通した一致点であった。
7月6日スイスの加瀬公使から、ソ連の参戦が必至の情報をあったが、
戦争指導者たちは、ソ連の参戦をおそれ、希望的観測によりかかっていたのである。

7月27日、ポツダム宣言の内容を日本当局が知った。



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ゼロの文学

昭和20年8月15日戦争は終わった。
文学の自由は復権した。
荷風・白鳥・潤一郎らの老大家がまず復活し
執筆不能の状態にあった中野重治・佐多稲子・宮本百合子ら旧プロレタリア文学の流れが動き始め、
野間宏・椎名鱗三・武田泰淳・三島由紀夫の戦後派、
坂口安吾・石川淳・太宰治・織田作之助などの新戯作家といわれる人たちが登場し、文学は何十年かぶりで、その自由をかくとくした。

太平洋戦争下の約5年、そこには「芸術の名においても」また「人間の名においても」文学と呼ばれるものはなかった。
それは「ゼロの文学」だったのである。
「太平洋戦争」 世界文化社 昭和42年発行

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