しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

原敬

2021年06月04日 | 銅像の人
場所・岩手県盛岡市内丸  県公会堂前








「岩手県の歴史」 森嘉兵衛  山川出版社 昭和47年発行   

原敬

安政3年(1853)、岩手郡本宮村に生まれる。
井上馨に知られ外務省にはいる、中国・フランスに駐在、
その才能は広く内外に知られたが、大隈外相とあわず農商務省に移り、
ここで陸奥宗光に知られ局長となり、日清講和会議の当時は次官に登用された。
しかし大隈が外相となるや辞任し、野にくだり大坂毎日新聞編集長となり、
特異の論陣をはって毎日新聞の紙価を高めた。

明治33年、伊藤博文政友会を創立するやまぬかれて幹事長となり、伊藤内閣の逓信大臣に任ぜられた。
36年盛岡より衆議院議員に当選し、この地区は模範選挙区と称せられるにいたった。
以来、内務大臣となること3回、大正6年政友会総裁、大正7年原内閣を組織し、
大正10年11月4日、東京駅頭で中岡良一のために刺殺されるまで、首相として第一次大戦の戦後処理に大いに業績をあげ、
再三授爵の沙汰があったが、政治信条として華族を浴せず、
わが国最初の平民宰相として、長く政界の範となった。







「首相列伝」  学習研究社  2003年発行
原敬

大正7年(1918)に成立した原敬内閣は、わが国初の本格的政党内閣とされる。
それは
原が初めて衆議院に議席を持つ政党の党首という資格で首相に任命されたことによるものであり、
また閣僚も陸・海・外の三相以外はすべて政友会会員があてられたためである。

原内閣の政策は、
外交は対米英協調主義、
対華二十一か条要求などで悪化しいた中国との関係改善を通じ、英米との協調を図ろうというもの。
援段政策(段祺瑞を援護する政策)を早々に打ち切った。

第一次世界大戦のあとのパリ講和条約で、国際連盟が決められ、日本は理事国となった。
しかし、シベリア出兵の撤兵が進まなかった。

選挙権制度を改正し直接税10円以上から3円以上に引き下げた。

山県との正面衝突を避けながら、切り崩した。

大正10年11月4日、東京駅で刺殺された。
原亡き後、政党政治はバランスを失ってしまう。








「教養人の日本史5」  藤井松一  現代教養文庫  昭和42年発行

平民宰相の暗殺

大正10年11月4日、原敬首相は京都での立憲政友会大会に出席するため、東京駅におもむき、駅長の先導で改札口の方へ進んでいった。
そのときとつぜん、青年が飛び出し、短刀で原の左胸を突いた。
原は駅長室にかつぎこまれ、まもなく死亡した。
犯人はその場で逮捕された。
中岡艮一といい、18歳の山手線大塚駅の見習い手だった。
一国の首相が公衆の面前で暗殺され、国民に大きな衝撃を与えた。


(犯人中岡艮一は無期懲役になったが、3度の恩赦で生きのび、昭和55年、77歳で死亡)
←(首相を暗殺した犯人でありながら、天寿を全うする)これも衝撃だ💢






撮影日・2018年8月6日


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